ホントに続くの!?八三論! 
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83論
 キャラクター分析、及び「受け」「攻め」
 おやおや、本当に続いてますな、八三論。そろそろ本格的に怪しくなって来たけど、深いアタリは突っ込むのはやめておいてね。舌先三寸で生きてるの。
 さて、今度はキャラクター分析。彼らのことを考えてみましょう。真っ先は三蔵サマ。彼が「受け」「攻め」かどうかなんてことまで考察してしまいましょう。
 …毎度毎度、文字ばっかりの所にお付き合いありがとうございますね。今回もまた大量にありますよ、文字。お疲れの所すいませんねえ、皆様。

■ 三蔵
 美貌の高位僧。傲岸不遜な性格。旅の同行者達(ルックスも良く、性格も一癖二癖アリで体力武力に秀でている)全員を統率する立場にある。銃と魔界天浄を武器とする。牛魔王蘇生実験阻止と、師の形見である聖天経文の奪回という使命と義務感を持つ。

 三蔵は破戒僧である。飲酒喫煙賭博行為…しかし、これに何の実害があるのだろうか?
 玄奘三蔵法師が天竺から持ち帰り訳した名典「般若心経」。これには有名な「色即是空、空即是色」がある。
 それに関して「空を求めて色を破する、之(これ)を浅いと言い、色を全うして空を見る、此(これ)を深と曰ふ。」(白隠『毒語心経』)…空と念じた所で、人間の世界を生きて行くことは、業火の中で汚濁と欲望の真っ只中に生きることだ。それを全て知り、なおかつ溺れぬことこそが空である。(手許の本より相当荒っぽい抜粋。あんまり信じ切らないようにね)…と、解かれている。
 『最遊記外伝』一巻に引用されている「持戒は驢となり、破戒は人となる。」(『狂雲集』一休宗純)がこれに通じるものだろう。破戒を完全に否定しないのだ。
 『最遊記』と『西遊記』をごっちゃに語ったり、時代設定を無茶苦茶にする必要は全くないが、「清濁併せ持つ」という辺りで、かなり「三蔵」的ではないだろうか。彼の破戒は原作者峰倉かずや氏の確信的設定なのであろう。

 三蔵の言葉遣いはかなり悪い方である。光明三蔵や三仏神に対しては、真っ当な敬語を使用しているが、普段の言葉遣いはかなり露悪的である。しかし「てめェ」「ブッ殺す」「クソ」…まるで小学生の悪口のようで、妙に可愛らしいではないか?
 喫煙習慣については、光明の影響や、吸い始めてからのニコチン中毒などがあるだろう。しかし、喫煙とは「口寂しいから吸う」という「口唇愛撫」という刺激を求めての習慣が大変強いものなのである。
 これは乳児期に母親の乳房を吸う時に唇に受ける刺激を快楽として覚えて、無意識に求めるというものである。乳児や幼児が親指をしゃぶる、あの習慣のことである。故に「喫煙習慣のあるオトコはコドモっぽい」とも言われる。
 露悪を狙うものの内面の純さのにじみ出る、玄奘三蔵法師サマ…可愛いらし過ぎます、その設定…。(ふふふ)

 「言葉遣い」というものが出たついでなのだが、「言霊信仰」ということを聞いたことはあるだろうか?これは「コトバが力を持つ」「口に出したモノが本当になってしまう」という原始的信仰である。しかし、信仰というものは原始的であればあるほど、風習に強く根付き、慣習や文化に影響するものである。

 例えば、「死ね」というコトバを発するとする。しかし言われた本人が翌日急死した。そうなると「死ね」と言った本人は呪いを吐いてしまったかのような気がする。
 しかし、これは「気がする」だけではない。コトバが、コトバとして口から出された瞬間に力を持つ。根拠はなくても「死ね」と言った相手が死んだら「死ね」と言ってしまった本人は後悔するか、さもなくば後味の悪い思いをするのである。「自分が呪ってしまった」という責め苦を負うのである。
「死ねと言ってしまった」と自覚を持った瞬間に呪いは成立する。「あの人が死ねと言ったら本当に死んでしまった」と認識された瞬間、呪術師が誕生するの。こういう文化に、我々日本人は育っている筈なのである。
 故に、世のお母さんは「死ねなんて言っちゃいけません!」と子供を叱る。または、おばあちゃん辺りになると新聞だのチラシだのが落ちていても「文字の書いてあるものは、踏んじゃいけません。文字やコトバは力を持つモノだからね」という注意をする。
 言葉の力を重視する。恐らくこれは日本だけでなく、有る程度は世界共通の認識なのであろう(世界三大宗教の内の2つを担う一神教は、迷信や経典以外の信仰を極端に嫌い、異端視する傾向が時代的に高まることが多かった)。海外文学や映画などでも、よく「Go to hell !」「Son of a bich !」などという言葉を子供が使うと、「そんな言葉を俺のうちの中に持ち込むな」「母親に向かってそんな言葉を使うなんて」などと両親に叱られるシーンが出て来る。やはり言葉の力の強さを知る大人が、子供に対してそれを制御するのだ。

 僧侶という言葉を操る職業の三蔵が、言葉の力を知らぬ訳はない。教典なり真言なり、言葉の力の強さに依っているのだから。その彼が「死ね」という言葉を連発すると言うことは何を表しているのだろうか。
 「死ね」「ブッ殺す」と、幾ら呪っても彼らが死なないということを、彼らの強さを、何度も繰り返し確認しては安心しているのであろうか。
 更に、「死ね」という呪いの中ではサイアクの部類にあるその言葉を「使ってはいけません」ととどめる家族の「存在の不在」がそこに強調されるのではないか。そしてまた、養い親の光明を亡くしてからの、三蔵の孤独な期間の長さがそこに浮き上がるのである。
(だから本当は簡単に「死ね」って言っちゃダメなのよ?)

 サテ、本来、メンバー中唯一の人間であるところの彼は、体力的には一番劣る存在である。それが、
1. 社会的にも認められる地位(北方天帝使玄奘三蔵サマである!)にあり、
2. 実力でも魔界天浄という最強な技を行使する。
3. また、旅の同行者全員からは、その地位と実力以外にも精神的繋がりから慕われて(無理のあるコトバか…?)、リスペクトされた存在である。
 社会的・実力的に認められる、個人としても愛され、守られながらも尊敬される。…女性だけでなく、誰でもが「こうありたい」と思ってしまう立場であろう。(1.と3.)
 1.と2.の社会的・実力的に確立された立場に加え、生来の見てくれや、幼年期に地位的立場が高い人物の庇護下にあった為にやっかまれた挙げ句形成された、「傲岸不遜な性格」というのも、学校や社会において抑圧された「自分の価値観を正しいと信じ、貫きたい。己のままにありたい」という願望を遂げるものと成り得る。

 現実世界において、自らの発言・欲望が尊重される為には、それ自体が社会通念に沿ったものでななくてはならない。自己のささやかなプライドを固持しようと思えば、他者に否定・拒否されるような願望を他者にアカラサマにするという事態は、自分から避ける。…これは幼稚園児ですら推察可能な事象である。そのような煩わしさを一切ケ飛ばした様な人物というのは、社会的ストレスに晒された我々日本人にとっては、憧れの対象とも言えよう。

 …大体、自分のワガママを通せる関係、というものは、ちょっと想像しただけで幸せではないか。見目良いオトコに囲まれて、大事にされる…なんて、同性の友人なくしたっていいから「いっぺんなってみてー」ではないか。

 稀に見る容貌、美貌という点も考慮せずにはいられない。美貌を望まぬ女性は、果たして存在するものだろうか?男性ですら、滑らかでゴワ付かない中性的な素肌を求めて、エステサロンや美容整形外科に足を向ける世の中である。
 作品世界の中でも金髪、紫の瞳というのは異相である。美貌の異相。喪った師の形見を求め続けるという行動と相まって、悲壮感を高める。愛されながら、孤高である。なんと高貴なイメージを喚起させる設定だろうか。

 更に付け加えるならば、彼の使用する武器であるところの拳銃は、男根願望(要は男性になりたいという願望)をも叶えるものである。アニメの設定での「昇霊銃」というのも、男根を象徴するという拳銃から弾丸発射でタマシイを昇天させる…大変、女性としての満足感と爽快感を感じさせるものであると思う。

 『最遊記』メンバーの中において、これほどまでに女性からのシンパシーを受けるのに格好なキャラクターというものは、他にあるだろうか?
 反語形である、と断ることもおこがましい程に、三蔵の女性受けが、生理的、精神的に受け入れられ易いものであると、私は確信する。それと共に、女性に近い役割(「受けサマ」)を期待され易い存在であろう事も確信を深める。
 断言しよう。三蔵は押しも押されもせぬ「受け」キャラクターである。三蔵受けが『最遊記』「受け」キャラクターの王道である。

 また大変個人的な嗜好ではあるが「下克上」恋愛というジャンルがある。
 年上のヒトを年下がゲットなり押し倒すなりする。上司を部下が、先輩を後輩が、会長を副会長が(← my ツボ)…様々なパターンが考えられるだろう。「高嶺の花」に対する愛情と羨望に近いのかもしれない。高嶺の花を、ある瞬間だけ我がモノにする快感。その、踏みしだく瞬間だけの優越感。…いかがですか?こういうの、萌えません?
 上位の者を下位の者が慕ったり、または欲心してしまう。自制の果ての感情の発露が、その設定だけで想像出来よう。女性としては、その手の溜まりに溜まった激しい感情を、自分がシンパシーを感じるキャラクターに受け、強く欲されるるというのは、かなりの快感であろう。
 実際に向けられる愛情を秤に掛けることが出来たとして、同じ100グラムの愛情を、新人OLがダンディな部長に憧れたりするのと、部長が可愛らしい新人OLに関心を向けるのとでは、どちらがよりウツクシイか?または、純真な女生徒が優しい先生に「ここが分からないんですけどぉ」と教科室に聞きに行くのと、先生が女生徒に「君、進路そろそろ決めようよ」と廊下で突然面談タイムになるのとではどちらがよりどっきどきのシチュエーションか!?(すいません、サンプル恣意的過ぎます)
 サンプルの質はともかく、こと恋愛については障害があればあるほど燃えるというものである。書くにしても読むのにしても「地位や年齢の相克などを乗り越える」ということは、大変テンションを上げてゆくものなのである。
 三蔵…。傲岸不遜な美貌の大天使。これほどまでに下克上されるのがお似合いの方が、存在するのであろうか…?

 上記の理由に更に付け加えよう。もし三蔵を「攻め」と定義する場合、「受け」側の選択が困難になるのである。
 まず、身長…。身長にこだわることは愚かしいかもしれないが、少女達の擬似恋愛の場であるやおいにおいては、外見が大きくものを言うのである。

 可能性として考え易いのは、三蔵より小柄な悟空である。小柄でやんちゃで可愛らしい悟空を受けとする三空カップリングは、概ね好感を持って受け入れられるものであろう。
 しかし三蔵と悟空(或いは金蝉と悟空)の出会い方やその後の様子は、恋愛感情よりも親子関係の風情の強いものではないか?

 勿論、日本に於いては、光源氏と葵の上という「育ててから頂くv」というという形の愛も、一千年も昔に提示された由緒正しいカタチなのであろう。(しかし現代にこの愛は通用しない。怒るだろう?自分が葵の上だったら?信頼を裏切られて、食われちゃって…。あまつさえヤられちゃってショックで泣いていたら「あなたももう大人なんだから、いつまでも泣いていたらおかしいですよ」みたいなことまで言われてしまうのである。その辺ちょっと不確か。前もってこのふたりの間に親子以上の感情がないと、それ以降の美しい物語は続かないのである)
 しかし、この「育てる」という課程を経ている愛の形状は、セクシャルなものというよりも親子関係に近いものだろう。三蔵と悟空の場合、寝食の世話から何から、悟空が三蔵に依存しているという点から、親子関係の中でも母子関係により近い。
 少女達が「成熟の否定」を前提としての擬似恋愛(やおい)を楽しむ場合、自分を母性愛を持つ側にシンクロするよりも、母性愛で守られながら性的にも愛される側の悟空に、よりシンクロし易い(そのカップリングのファンが多い)と考える方が納得出来る。

 例えば、ほのかで幼い恋心を持つ悟空が、いよいよ我慢出来なくなってしまった三蔵に押し倒されてしまう。しかし後から思いっきり甘やかされたり、謝られたりして、セックスの面ではリードされながらも恋愛的主導権は悟空が持つ。…そういうパターンのカップリングが想像される。「惚れられて、しかも教えて貰う」という、シチュエイションは大変魅力的である。
 この39というジャンルの場合、恐らく書き手・読み手側が守られる側にシンクロしている場合が多いということから、ほんわかと可愛らしい系が殆どであろう…と推測するんですが。…いかがなものなんでしょうか?

 そして「三蔵受け」が王道である最大の理由としては、彼の職業がやはりものを言うだろう。お釈迦様なんか母虎に我が身を与えてしまうのである。奪うよりも、与えるのが天性となっている職業なのである。それに保健体育の時間に習いませんでしたか?「思春期から青年期の劣情をスポーツなどで昇華させる」とか…?彼の劣情なんぞ、育ちの苛烈さに吹き飛んでしまうのである。日々緊張に彩られ、生命の危機に晒され続けた彼が、恋々と肉体の欲望に負けるとお思いだろうか?
 ストイックな彼が、強烈にアピールされ欲されて、流されほだされ、下手すりゃちょっとくらいのご無体などして関係に至る。これが一番、三蔵本人も、やおいを楽しむ少女的にも無理がない設定ではないか?(単に私の好みですが)

 貴方には、未だ三蔵を「攻め」キャラと誤解されているご友人はいらっしゃいませんか?決して、決して「三蔵攻め」の方々を攻撃するわけではございませんが、新たなる世界を広げることは悪いことではありますまい。是非、三蔵受けを布教しましょう。これだけの理由が揃っているのです。貴方の舌先三寸で丸め込めれば、また貴方の真の友が増えることでしょう。




000311 参考追加
『狂雲集』より
 持戒為驢破戒人   持戒は驢と為り、破戒は人、
 河沙異号弄精神   河沙の異号、精神を弄す 
「ひたすらに戒律を保とうとするだけでは、最初から殺生や邪淫のたくらみの無い驢馬と同じである。自由意志で戒律を守り、破ることの出来ることが、人間の人間たる所以である。戒律はガンジスの砂の数程に多いが、それは人間を驢馬に見立て、精神を愚弄するだけの虚妄である」
…一休さんこそが、強烈に激烈に確信的に破戒でした…。


参考文献: 『般若心経講話』鎌田茂雄(講談社 1986)
       『一休』西田正好(講談社 1977) 












 キャラクター分析更に続く… 








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