終わらなかったの(泣)八三論! 
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83論

 キャラクター分析 そのまた続き
 はい、とうとう八戒さんです。最初の10行書いたところで思いました。「長ェ…」。半分書いたところで途方に暮れました。「長過ぎるよ」。そして「終わらん……」。果たして、またもや文字だらけと相成った次第でございます。あまあまめろうの更新はどうしたのだ、と自問自答の日々でございます。
■ 八戒
 黒髪に緑の瞳の持ち主。にっこりと穏やかな笑顔の下で憤怒をたぎらせ画策する、外面如菩薩内面如夜叉(すごい!一発変換するんだなあ、この言葉)。武器(?)は気孔。ジープの運転、料理担当、どうやら整理整頓も好きらしい。

 孤児院で育ち、生き別れの双子の姉(原作者裏設定)・花喃と出逢ってから近親相姦を犯す。ふたりで小さな村に住み私塾(町はずれの小さな子供塾)での教職に就いていたが、花喃が妖怪百眼魔王への供物に捧げられた怒りで、村人殺しと妖怪千人殺しという大罪を犯し、自らも妖怪になる。

 悟浄が生まれつきがタブー(禁忌)であることに対して、八戒は自らタブーに向かって転がり落ちている。自分の望むものを、譲ったり、常識で判断して諦めるということをしない、狂気の人である。最近、「最強」だとか「最凶」だとかよく聞きますしね(笑)。

 常に敬語の丁寧語を使用するが、尊敬語、謙譲語はあまり使っていないようである。それが八戒のスタンスらしいが、どうやらこれは「小学校の先生コトバ」が一番近いのではないだろうか?その辺、過去の習慣と決別しきれない、融通の悪さも認められる。
 相対する相手に、常に柔らかく、しかも自分を卑下する言葉遣いは使用しない。慇懃無礼とは一線を画しているが、丁寧な物言いの癖にどこかが無礼者という印象は拭い切れない。根が無法者(out of lawではなく、lawless)だからだろうか?

 そもそも、敬語表現というものが相対する地位や立場の距離の存在によって成り立つものであるということから、八戒の敬語が常に「自分」と「相手」との距離を保つタイプであることが伺える。
 甘えて親しむ相手を持たず、常に孤立していたという少年時代の設定。そして敬語。破戒された恋人との生活。村人からの疎外。村人殺し、妖怪千人殺しという突発の狂気。
 彼の自意識は、思春期の少年少女が持つ「自分は他人とは違う」という劣等感すれすれの優越感に近いものすらあるのではないか。人知れず膨れ上がる自我・自意識が、否定や嘲笑を受けた瞬間に殺意に変わるという「キレる少年達」…八戒の殺戮の狂気は、それに近いものがあるのではないか。

 他者のお陰で生存を許されているという意識のあった孤児院時代、彼は「神がもしいたとしても、無能です」と言った。神を否定する者は、かつて神に祈ったことのある者である。
 彼は何を神に祈ったのか?求めたのか?そして叶えられなかったのか?
 「孤児である」「保護者がいない」という理由から与えられる糧が苦痛だった彼は、「理由のない愛情」こそを求めていたのではないだろうか。
「孤児だから」「神の子羊だから」「シスターだから」「神のしもべだから」…ではなく、
「親だから」「姉だから」「弟だから」…ですらない。
 ただ「僕だから」という愛を、求めたのではないだろうか?そして彼は求めすぎる余りに、実姉と再会した時に、近親相姦という逸脱をしてしまったのではなかろうか。

 また、双子(特に一卵性双生児)は同性愛や、近親相姦が確率的に多いという(誤解を招かぬ様に重ねて注意しますが、「多い」のではなく、「確率的に」他のケースよりも双子であるケースが多い、ということです)。これは自己愛が、自分と同等であるものや、外見がそっくりであるものへ向かっていくという傾向を表す。
 八戒についても、別離して育った双子の姉は、ずっと追い求めていた「もうひとりの自分」である。彼の情動が、極めて自己本位に動いているという傾向が、ここにも見えるのではないだろうか?
 八戒のことを語るにおいて、花喃の存在を欠くことは不可能である。彼女の存在が、自分の投影だとしたら、果たして彼女が喪われた八戒はどういう状態にあったのであろうか?

 まず、八戒と花喃の生活から考察してみよう。
 八戒と花喃はふたりで小さな村で暮らしていたようである。彼らが姉弟だとは誰も知らない、自分達が育った場所から離れた場所で、ふたりは過去を隠し、夫婦として生活していたのだろう。八戒は教職に就いていたことから、地域との繋がりがあることが判る。通常、小さな村で「先生」「自分の子供の担任」と言えば、よそ者といえどもかなり近しい仲と考えるのが自然である。
 しかし、その親しさが仇になったのか、八戒と花喃が孤児であることが村の内部で知れ渡っていた。小さな村でよそ者であると言うことが、「自分の子供のセンセイ」という敬いを凌駕した時……それが百眼魔王の「女を供物として差し出さねばならない」時だったのであろう。

 村人が花喃を人質として差し出した理由「孤児だから」は、八戒にとっては、即ち自分自身のアイデンティティをも「孤児だから」と切り捨てられ、否定されたのと同じことである。自分では手の出しようのない過去を理由に自己の価値を否定された彼は、それを巻き返す為に村人を殺害し、更には妖怪千人殺しという大罪を犯す。
 もとより孤児院で、他人の施しで生き延びてきたことを嫌悪していたらしい彼である。自分の価値を他人に測られるという事態は、避けたい事柄の頂点にあったと思われる。
 常に敬語で自分と他人との距離を意識している彼は、それだけ自意識の強さが伺われる。その自意識が否定された時に大量殺戮という悲劇が起こったのである。

 また彼の犯した殺戮について、原作には「村人の半数」という表現があった。
 半数?たまたま行き当たって殺したのが、村人の半数だったのか?自分の生徒達などの子供達を敢えて抜かして、半数を殺し尽くしたのか?
 以下、思いっきり推測である。殆ど創作である。小説に仕立てた方がいいゼ?これ、である。

 "彼は確信的に「親殺し」をしたのではなかろうか?"
 彼らを否定した村人達の言い分「家族を持たない孤児ならば、殺されてもよい」…これは家族を大事にするあまりの言い分である。自分達の子供や家族を守りたい余りの言い分である。自分の家族を殺される悲しみが、また残された家族の悲しみが、孤児の八戒達にはなかろうという、エゴイスティックではあるが、村人にしてみれば最善の選択である。
 過去の家族の絆はなくとも、八戒にとって花喃は、その時点で唯一の愛情の対象であった。現在の感情の価値を否定(恋愛感情が家族との絆以下という判断)され、更に周囲の味方が皆無な状態に彼は陥ったのである。

 村の「親達」「大人達」のエゴで花喃を奪われた八戒は、当然怒りがわき上がる。そしてその怒りは、「親」である村人達と、更に「本来ならば自分達を守るべき、存在しない親」へと向かったのではないだろうか?
 自分達に「親」がいれば、八戒と花喃も小さな村というコミュニティで「殺されてもよい」という判断はされなかった筈なのである。「守られる側」に存在出来た筈なのである。

 勿論、この小さなコミュニティにおいては、新参者であればはじき飛ばされ、やはり供物として花喃が選択される…という可能性も考えられる。しかし、流浪して来たよそ者であるという事実は、八戒にとっては自分から起こしたアクションであるから、彼の自意識では「それが原因で花喃が奪われる」という思考には、自発的には行かなかったのではないだろうか。
 「孤児であるから」と、ハッキリと宣言されての花喃の喪失は、八戒にとっては他者の影響が理由となる。それだけに自意識に負荷をかけずに、ストレートに怒りがわき上がったのだ。
 「自分達が孤児であるから、花喃が奪われる。」
 「そもそも、自分達を孤児にしたのは誰だ?」
 やむない理由はあったとして、その怒りは、自分達の親へと向けられるのではないだろうか?「自分達を守るべき存在の不在」に対して向けられるのではないか?
 ここで少年時代からの不満…情愛不足や、施しを受けることへの不快感などが加わり、「他人の親」である村人達の言い分が、彼の自意識を刺激したのだ。それが、「親」全体への怒りへと変化したのだ。

 「親殺し」は「親に抑圧された自分を解放する為」に行われる。自立を遮り、また自己の願望の成就を遮る存在を抹殺する為に行われる。そしてそれは、実際の抹殺行為だけでなく、思春期の精神的自立の為には、精神的な抹殺ということでも現れる。
 幼年期には親の存在に依存していた子供が、反抗期に親と摩擦する事によって、互いにその存在を一個人同士と認め合えるようになる…。子供は精神的に自立し依存をやめ、親は自分の子供が「大人」であると認識し過剰な干渉をやめる。これが理想的な親子関係であり、反抗期というものの効用である。
 だが、孤児として社会に依存して来た上に親しむべき年長者の存在のなかった八戒は、反抗期の摩擦を経験せずに過ごしている。故に幼年期の不満を乗り越えていなかった。そこで、「村の親達」「自分の存在しない親」「自分の、本来乗り越えるべき親」これらの存在(または不在)が、花喃の強奪という形で八戒のアイデンティティを脅かし、否定した時に、彼の意図的な「親殺し」が起こったのではないか…?

 彼の殺した「村人の半数」。
 それは、「子供は可哀想だから」「自分より弱い女の人だから」「自分の生徒だから」等の優しい常識で「半数を殺せなかった」のではなく、「自分の親くらいの世代」「誰かの親くらいの世代」を全て殺害した結果、「半数を殺し尽くした」のではないか。それほどまでに、彼の心の根底に棲む鬼は、暗く根深く巣くっているのではないだろうか…?
 自分が狂乱に血を流している間にも、花喃が犯されているかもしれない。それに気付きながらも、村人達を殺害し続けた理由として、私はこの「親殺し」説を提案する。(他説あると思うので「こんなんあるよ」という方、是非ご一報を。お待ちしております。心から、読んでみたいです)
 「自分が自分である為に」。自己を保つ為には、彼はこれほどまでに壮絶な流血を乗り越えなければならなかった。そして「もうひとりの自分」である花喃を目前に喪った時、彼は幼児めいた自己愛の投影先をも永遠に喪失した。
 …こうして八戒は、一千余人もの血の上に精神的な自立を果たしたのである。最愛の女性の喪失という現実に、幼稚な自己愛から卒業し、一個の大人となったのである。なんとも手痛い自立である。

(八戒分析、続く)












 キャラクター分析八戒またも続く… 








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