長いも限界八三論! 
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83論
 八三論
 延々続く「八三論」お付き合いありがとうございます。下書きの段階で20,000文字、軽く突破しております。おかげさまでこれでまとま…ったつもりだけど、詰めが甘いなあ。愛故の文字量、愛故の詭弁、愛故の画面開き過ぎのパソコンフリーズ、ワード真っ白、突然落ち…(涙)。
 …愛とはなんと罪深きもの。

(キャラクター分析 八戒 続き)
 …しかし一転、成人後の彼は鉄面皮の笑顔のヒトとなってしまった。
 吹っ切れたというべきか。いや、彼の笑顔は明らかな仮面である。憤怒の思いや辛辣な意見を、笑顔と丁寧語でくるんだナイフで一刺しする様子は、コミック・アニメでお馴染みである。「にっこりザックリ」という彼の性格は『旅の4人組』の中で潤滑材として、または毒ある道化として活躍する。
 この4人だが、三蔵と悟空という密着した存在は別にして、それぞれの個性が見事反発する様な性格設定となっている。血液型とて、A、B、O、ABとご丁寧にひと揃い。それらの求心力として「旅の理由」である三蔵が存在するのと共に、調整役として八戒の果たす役割は大きい。
 だが、仮面の笑顔で釘を刺したり、常識的判断を三蔵にお伺いを立てる振りして宣言したりもする。食事担当・運転担当という立場の強さを、自在な時に活用しているのである。

 八戒のこの「笑顔の仮面」というものは何の為に存在するのか?

 『仮面をつけることによって、人間の顔が全身体化する』『顔はその人の人格を表すと言われ(中略)しかしまた、顔はそういう特権的な部分であることによって、かえって身体の他の部分の表現を妨げやすい』(『術語集』中村雄二郎著「仮面」の項より引用 )

 また、北斉の羅綾王長恭が、戦の際にはその美貌が敵に侮られ易いとして、恐ろしい顔の仮面を被っていたという逸話が、雅楽の『蘭綾王』として知られている。羅綾王の場合は八戒とは逆の使い方であるが、外面が他に与える影響の大きさ、仮面が隠すものの効用ということでは通じるものがある。八戒の笑顔の鉄面皮は、初対面の人間に対するだけでなく、常に共に行動する者達の前でも変わらない。それだけ、彼の隠そうとするものが大きく、激しいということではないか?
 村人や妖怪の殺戮に走った八戒の情動や、個人に向ける執着の強さは明らかであり、更に異常なレベルのものであった。そして未だ、仮面の下はどろどろした情念や、怒りの想いが激しく存在している…恐らく、悟浄や悟空よりも激しい感情の持ち主なのである。そして7巻のラスボス(?)退治などで判明している徹底した闘い方。悟空をも唖然とさせる破壊の残虐さ(あの、内蔵びしばしグロ…凄かったでしょ?)。

 彼の精神に「可哀想だから」などという不抜けた手加減は存在しない。自分が必要であると判断した闘いにおいて、一番躊躇いなく敵を殺害しているのは、三蔵一行の中で恐らく八戒である。


 長くなったが、彼の鬼畜ぶりがよおっく判明したことと思う。書いてる本人も彼の罪深さにビックリである。しかし、この「罪深さ」辺りを八戒分析後半(「受け」「攻め」判断(笑))と、ひいては「八三論」の締めのキーワードにしてみたいと思う。


 八戒の「受け」「攻め」特性はどうだろうか?
 毎度お馴染みの身長では悟浄のみが彼より高身長であるのだが…。
 八戒の場合、内面の情念深さと(「執念深い」が正しいとは思うが)料理の腕などから女性的と判断されることも多いと思う。にこやか八方美人という性質も「受け」と取られることも多いのだろう。「緑の瞳の薄倖美人」などと原作で悟浄に評されたり、『外伝』でも「顔のきれいな兄ちゃん」「女房役」などなど………。外見と特技で女性的な特質が多いのである。
 自分がそうなりたい、そう他者から受け取られたい、という憧れを持って自分を投影する対象として、八戒を「受け」キャラクターと捉え易いことは想像に難くない。
 八戒「受け」の場合、特技はともかく、情念深さと八方美人ぶりが適度に混成された「小悪魔」的魅力の「受けサマ」となるだろう。「小悪魔」!相手を振り回してしまうんである。これはちょっとイイ。やはり男に振り回されるよりも、振り回し惑わし拐かし(←マチガイ)して、ぞっこんになって貰うというのは相当な快感である。「受けサマ」でありながら「攻め」キャラクターを翻弄する…「八戒総受け」サイトさん…お気持ちよおく判ります。読むだけならワタクシもオッケーでございます。…え?いぢめ「られる」のもアリなの?それはまた…複雑というか………。

 しかし!それらの特質は「こんな男に愛されたいv」「こんな男になってみたいv」と、彼を「攻め」キャラクターと受け取った時に…最高に発揮されるのである。
 料理の出来る男が好まれることは、よくご存じだろう。しかし、自炊生活などである程度習慣として料理をこなし、更にセンスとマメさがないと、実際に「料理の出来る」または上手いというレベルにはなれない。料理だけ作って後片付けはヒト任せという「困ったオトーサン」レベルならば、その辺にゴロゴロしていても、アフターまで完璧な八戒レベルの男性というのは、現実的に貴重品なのである。
 どの辺が貴重なのか?
 性別を越えた特技を持っている部分で、貴重なのである。

 少女にとってのやおいについて、「自分の成熟を拒否したいという願望」これを、くどい程に繰り返してきた。「男になりたい、でも男が好き」という欲求についても述べた。
 きれいな顔で、料理など実生活に役立つ技術を持ち、知性派という性別を越えた特質を持つ八戒は、そんな少女達にとって大変魅力のある存在ではないか?

 自分の性別を確固として持ち、そして性別に拘らない仕事をソツなくこなす。現在は成熟を拒否しながらも、将来成熟した大人とならねばならない少女達にとっては、お手本なのである。勿論、「成熟」は「女は料理が出来て当然」などの一面的オヤジ的浅薄な常識で期待されるだけのものではない。日常的に、社会的に、様々なものを孕んでいる。

 料理は象徴である。料理と共に運転も象徴である。
 女性に期待されがちな生活一般技術を易々とものにしながらも、運転という、男性の方が得意とされる技術を行使する。一同を運ぶジープの飼い主でもあり、「これがないと三蔵様の旅15年がかり」と絶対必要とされる運転という技術で裏君臨している。影の実力者なのである。
 八戒が存在しなければ、不衛生、不摂生、慢性空腹、延々歩きっぱなしのひからび続けて15年、という、想像するだに恐ろしい『最遊記三蔵様ご一行の図』になってしまうのである。ああ!想像してしまった!!

 こんな彼が、肉体的性的役割でのみ、都合良く押し倒されてしまうなどということを、すんなり納得してしまってよいものだろうか?押し倒されて、剥かれて、ひっくり返されて、広げられて、突っ込まれて、いたぶられて、弄ばれて、押しひしがられて、あえぎ声だの小さな悲鳴だのを上げさせられてしまって(ああ、また個人的な趣味を書いてしまった…)よいものなのであろうか!?
 上記揚げた例は、全て受動態である。「受け」とは受動なのである。あれだけの技術で少女達の将来のお手本となるべき八戒が、性的役割のみで受動態を期待される場合よりも、性的な役割でも能動であった場合の方が、読んだり書いたりするのには爽快感があって然るべきではないだろうか。八戒「攻め」は爽快感なのである。

 そして八戒「受け」の際には小悪魔的魅力の元となった、情念深さ。情念、執念、愛着、執着…優しさや愛の形の様々なバリエーション達が、八戒「攻め」となった時にどう変化するか?執着心などの、もとより業の深い感情が、能動態のエッセンスが加わることにより「独占欲」に結晶するのである。

 みんなのものと口では言いながら、気持ちの上で納得出来ない。欲しがっている。そういう独占欲は、誰でもが経験するものである。
 恋愛においては、「相手の全てを独り占めしたい」「誰にも渡したくない」…下手をすると、相手の過去にまで及んでしまうような、強くて醜くて罪深い感情である。性愛においては、優しく手を繋ぎ止めたり抱きしめたりすることから、究極縛り付けたり監禁したりと、ほのぼのから鬼畜まで幅の広い行為である。それでも人間そこからは逃れられない運命なのである。本能を突き動かす情動なのである。

 近親相姦や、大量殺戮を犯した罪深い八戒には、この独占欲という罪深い感情がよく似合う。誰よりも強い独占欲を、仮面の下に秘めている。爆発しそうな感情を、仮面の下に隠している……。ゆえに八戒は、爽快感と独占欲の「攻めキャラクター」なのである。
 八戒「攻め」は王道なのである。



八三論 
■ 八三推進論
 『最遊記』における「受け」キャラとして三蔵を、「攻め」キャラとしては八戒を推した。
 このふたりのカップリングとは、どういうものであろうか。

 三蔵は孤高のキャラクターである。
 幼少期に自分を愛してくれた養い親を目前に惨殺され「自分が何より大切にしたかった人を守れなかった」という傷を精神に持つ。「守れなかった」自分を苛み、それゆえ「殺されても死なない奴ら」を求めた。ずっと自分の身近にいて、安心感を得られる人物を欲しがっていた。しかし自分自身には、甘えることを許していない。安寧の日々など、期待していない。

 八戒は独占のキャラクターである。
 愛情の対象を目前に喪い、人間でなくなるほどに流血の狂気に身を委ねた。しかし彼は、もう一度愛情の対象が奪われるようなことがあったら、もう一度狂気に身を投げるだろう。何度でも狂気に落ちるだろう。後悔することがあっても、反省して諦めるということをしないだろう。その業の深さは、死の瞬間まで変わることはないのだろう。

 共に自虐的な性質である。しかしこの自虐的三蔵に自虐的八戒が執着したら…なんとも深みな恋愛になるのではないか。
 自分自身に対しては、大して執着心のなさそうな三蔵である。彼の言う「守らなくてもすむ」奴とは、三蔵自身が安心出来る存在である。その安心感の持てる相手に、しつこくしつこく求められたら、案外諦めてほだされてくれそうなものである。(ただ、同時期に複数求愛されたら、もしかしたら複数断り切れない…という可能性もあるが)その代わり、一度心身共に関係を持ったなら、永続を願うタイプだろう。三蔵が「無一物」を唱えながら非執着に徹していないことは、経文探しが旅の目的であることなどからも明かである。
 八戒も、一度執心したら諦めるということをしない人であろう。とにかく延々思い続けるだろう。もし自分の手に三蔵が入るということがあったら、二度と離すことなどしないだろう。自分と運命の相手の間を引き離そうとするものが現れたら、攻撃的にあらがうだろう。

 美貌のクソ坊主三蔵が、八戒にのみ穏やかな感情を表し、八戒が手料理で餌付けるほのぼの系ストーリーの83から、ふたりが求め合い癒し合うスウィートセンシティヴなストーリーの83、果ては自虐三蔵と自虐八戒の銀線同志がこすれ合って火花を散らしそうなオトナ向けストーリーや、純愛、どろどろ、まったり…様々なパターンが予想される。しかも罪深き恋愛を、罪深き八戒が、聖職者を罪深き道へと誘う形で表れるのである。

 切ない。

 どんなにまったりしたストーリーにしたとしても、切なさの成分が入るのである。この切なさは、恋愛の構成成分のうちで、最も訴える力の強いものではないだろうか?

 実際に心臓あたりがきゅうっと苦しくなるような、痛みを感じることがあるだろう。掻きむしるような、または甘酸っぱい気分というものが、肉体の記憶としてあるだろう。恋愛でも、友情でも、親子愛でも、ヒトとの関係において、そういう感覚を持ったことがあるだろう。
 その切なさを刺激するのが、八三である。

 少女の擬似恋愛の場から、実際の恋愛に疲れたOLから、いーかげん女忘れかけちゃいそうなお母さん(すいません、自分のことです)まで、恋愛の醍醐味である切なさを堪能させてくれるのが、八三である。恋愛の罪深さを学習させ、思い起こさせてくれるのが、八三である。

 ゆえに、八三は王道なのである。

 ここまで読んでくださった、お嬢様、お姉様、奥様方。どうぞこの切なく罪深い八三の道を共に歩みましょう。この快楽を、共に分かち合いましょう。ワタクシたちの選択は、やおいと謂えども恋愛を追求し、または楽しむ者にとっては、大変奥深いものとして正しいのであるのだから。




よしき かおり
2001.02.06





 
■ 蛇足、攻めハチ論
 ええ、蛇足です。でもでも、どしても追加です。
 八戒と言えば、幻惑の石田ヴォイス。OAV、ラジオドラマ、TVアニメに通して出演なさっている、石田さん。石田さんと言えば、思いっきり受け声というのが定説(?)ですが…。
 ラジオドラマの石田八戒さんの、魅惑の美人声テノールの抑揚に、めくるめく快感を覚えてしまった私です。ものの試しに、作画の出来に不満がありがちだった『幻想魔伝』のビデオを、目を瞑って鑑賞してみました。
 最終話近くの対紫鳶の言葉責め「あなたは…卑怯者だー!」はうーっ!
 …自嘲セリフだの、にっこり笑ってザックリなセリフだの、お馴染みの「まあまあ」だの…。あのやわらかテノールが、快楽中枢に絡み付いて来るような、真綿で締め付けて来るるような、錯覚を覚えます。
「八戒さんの声で言葉責めして欲しい…!」
 M気質のある方は、ご賛同していただけるものと思います。
「あの綺麗で優しい声で、うんと意地悪く、窘められたり質問されたりしたい…(神奈川県 32歳 主婦)」…誰ですか、こんなことコクハクしちゃってるのは?
 石田声ある限り、八戒さんは責め責めな攻め様です。以上(笑)。

2001.08.05追加













 八三論 終わり 








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