風邪で寝込むなんて、どれくらい久し振りのことだろう。
僕は祖母の傍で育ったので、一般的な母の看病というモノを知らない。
それでも、祖母の見守る中での眠りは、熱の中にあっても安心出来るものだった。
ゆらり。
意識が浮遊する。
灯りを落とした部屋で、ぼんやりと目を開ける。
喉が渇いた。
「大丈夫だよ」
『大丈夫だ』
低く、柔らかな声が聞こえる。
それだけで、幼い僕は、無性に安心出来た。
「ここにいるからね。おやすみ」
『オレはここにいるから。眠れ』
最近同じ言葉を口にした覚えがある。
熱のある子供に言い聞かせる、柔らかい言葉を。
遥か昔、自分に掛けられた優しい言葉を。
唇に当てられるガラスの吸い口の、硬質な冷たさが気持ちよかった。
「飲んでごらん」
『飲めるか』
吸い口で与えられた冷ました薄いお茶は、不思議な程に甘く感じられた。
記憶に蘇る吸い口よりも、柔らかな感触が唇に残った。
ああ。
三蔵の唇の味だ。
「美味しい」
口に出すと、再び甘露が与えられた。
「…おい、医者呼ぶか?」
二晩熱が続いたその朝に、三蔵が僕の顔を覗き込んだ。
「いえ。熱、下がって来ましたし。ただもー、頭痛が残って…」
身動きする都度襲う頭痛が、僕を苦しめた。
「オレも頭痛したけど、38.6度越えてからだぜ。てめェは38.3度で、ひーひー言ってやがったなあ?ヤワいんじゃねえのか?」
「…僕はそれ以前に無理をしてたんです。熱計る前に、もっと高熱になってたという可能性も、あるじゃないですか」
ひーひーは、言ってなかった。
そう思うけれども、ぼんやり見ていた夢が多過ぎて、確証がない。
僕が黙ると、三蔵も黙った。
「……三蔵?」
「何だ」
「喉、乾きました」
「しょーがねー奴…」
水差しから注いだ水を三蔵は口に含み、僕に近寄る。
「ん」
上を向けと顎をしゃくられて、僕は素直に従った。
ひやりとした唇が気持ちよく、喉を通る水は甘かった。
身を離した三蔵が、もっと欲しいかと目で問い、僕は頷く。
求めれば求めるだけ与えられる優しい唇を、僕は思う存分貪った。
「偶には風邪もいいですね」
「こんなに手の掛かる奴だとは、思わなかったぜ」
鼻にしわを寄せる三蔵が、可愛らしかった。
躯が溶けるかと思うほどに眠った。
ひっくり返った三蔵の部屋にそのまま居付いていた僕は、三蔵に与えられた水を飲み、三蔵のベッドで浅く眠り、目覚めると三蔵に汗を拭って貰った。
それを数度繰り返し、夜が来る頃には、僕の頭痛はかなりマシになっていた。
気付くと、暗い部屋のカウチで、三蔵がうとうとと微睡んでいた。
僕は部屋のカーテンを閉め、三蔵の躯に毛布を掛け、バスルームへ向かった。数日ぶりに、汗を流したくてしょうがなかった。
静かに部屋のドアを開き、一歩進んだ。
途端にぶつかる、何か重たい物体。嵩張る物が落ちる音。鳴り響く金属音。
「〜〜〜〜〜〜!」
「どうした、八戒っ!?」
蹲る僕の肩を、三蔵が慌てて掴んだ。
「………小指。足の小指」
「なんだ。そんなことか」
固い物に足の小指をぶつけた僕は、涙を滲ませながら、恨めしい気分で三蔵を見た。
「何なんです、コレ?」
「……オマエ、水、水って煩いから、配達して貰った」
2リットルのペットボトルを1ダース。
「それと、着替えが間に合わなくなるかもと思って、悟空に頼んだ」
真新しいシャツが、未開封のままで、袋にぎゅうぎゅう。
「で。汗拭くのに使うたらいを、その上に重ねて置いておいたんですね」
「すぐ使う物は、手に取り易い場所に置くのが鉄則だ」
まあ、そうですけど。金だらいは、安定した場所に置く方がいいかも。
「…オマエの方こそ、何してやがる。ふらふらしてると、また熱上がるぞ」
「もう大丈夫ですよ。…トイレとシャワーです。汗をすっきりさせたくて」
「本当に大丈夫なのか…?」
心配そうに眉を顰めた三蔵が、急ににやりと笑った。
「お見守りモウシアゲんことには、それは許可出来ねえな」
「三蔵!?」
「シャワー浴びたきゃ、我慢するんだな」
「いいですよ、そんなこと」
「何ならトイレも見守ってやろうか?介添えで、オテテでお支えツカマツルか?」
悪そうな笑顔で身振りをする三蔵に、そんなことされたら、きっと出る物も出なくなるだろうと言いかけて、それはやめておいた。
「ホラよ。便所が済んだら呼べ」
どん、と背中を押され、僕はバスルームに入った。
数日ぶりのシャワーは、とても清々しかった。
顔も、首筋も、肩も、腕も。
熱い雨に勢い良く打たれて、肌が蘇る気がした。
三蔵は、宣言通りにシャワーカーテンの向こうで、便座に蓋をして腰掛け、本を読んでいる。
物凄く落ち着かないけれど、バスルームにヒーターを持ち込んでくれたりと、本気で心配をしてくれてのことのようだった。
水音の所為で気配を感じないけれど、時折三蔵が、僕の名を呼ぶ。
返事をすると、また安心して本に戻る。
どうしようもなく、くすぐったかった。
「八戒。洗い終わったか?」
返事を待たずにシャワーカーテンを開けた三蔵は、腕まくりをしていた。
「アタマ、洗ってやる」
「え。」
「いいから、そのアタマ寄越せ」
手荒く髪を掴まれて、シャワーの真下へ引っ張られた。
「…わぷ。三蔵!?」
「遣り辛い。しゃがめ」
「……前に怪我した時は、もうちょっと優しくやってくれませんでしたっけ!?」
座り込みながらも文句を言うと、手にしたシャワーコックで軽く小突かれた。
「いいから。黙って洗われてろ」
「……はい」
ぶっきらぼうな言葉を吐いて、肩にふわりとタオルを掛けてくれた。
シャワーコックを地肌に近付け、お湯をたっぷりと掛けられた。
髪をくぐり、三蔵の指が往復する。
時折、肌寒さを感じる前に、肩のタオルや、背中にも湯を掛けられた。
たっぷり泡立てたシャンプーで、額や襟足の髪の生え際まで、丁寧に洗われた。
「すっきりしたか?」
僕の真上に屈み込む三蔵は、低い声で囁く。
「ええ。眠たくなるくらいに、気持ちいいです」
「溺れさせるぞ」
楽しげな表情で、顔にシャワーを向ける真似をするので、僕も水鉄砲の真似でお返しをした。