STAY WITH ME 10 
--- 雪花小片的物語 8 --- 


















 僕たちは、緩やかに時間を過ごしていた。

 僕は髪を拭いたタオルを肩に掛けたまま、三蔵の部屋のカウチに寝そべり、数日分の新聞をまとめ読みしていた。三蔵はベッドに俯せ、枕に髪を広げてうつらうつらとしていた。
 と、デスクに置きっぱなしの三蔵の携帯が、バイブレーションの振動を伝えた。
 携帯電話をすくい上げ、ベッドで身を起こした三蔵に手渡すと、彼の表情が変化した。
「悟浄のメールだ。風邪、治ったかって」
 憮然とした表情を見る所、きっと風邪で倒れていた時のことでも、ついでにからかわれたのだろう。
 ……何て書いてあったんだろう。
 枕元に放り出したばかりの携帯が、またすぐに振動した。
「なんだよ。…今度はババァからメールか…」
 更に嫌そうに、唇をへの時に曲げた三蔵が言った。
「……『風邪か?八戒には移ったのか?そーかそーか、やっぱりなー』」
「八戒、てめェ!?ナニ勝手に人のメール読んでやがるっ!」
 後ろから覗き込み読み上げる僕に、三蔵は真っ赤な顔で振り返った。
「伝染ったのは確かですけど、別に理事が思うような伝染り方じゃなかったですよね?普通に空気感染でしたよね?」
「そんなコトはババァに言えっ!」
 すっかり普段通りの、不機嫌だったり、短気だったり、その癖怒り顔がとても綺麗な三蔵を見て、僕はとても幸せな気分になった。

「僕は構いませんが、本当に理事にそう言ったりしたら、あなたまた怒るんでしょう?」
「当たり前だ。あのババァに真剣にモノを言えば言う程、玩具になるだけだ」
「じゃ、やっぱりあなたに言うだけにしておきます」
 むくれて、きつく噛み締めた奥歯に、口元が強張っている。そんな子供じみた表情を僕だけが見ることが出来るのが嬉しくて、思わずその頬に手を伸ばした。
「どうせ伝染るって思ってたから、それならさっさとキスして、あなたから風邪を吸い取ってしまおうかって、何度も思ってましたけど。本当にそうしてしまえばよかった」
 滑らかな頬が指先に気持ちよくて、こめかみまで移して髪に挿し込んだ。
「看病するのも楽しかったけど、でもあんなに苦しそうな三蔵を、ずっと見ているのは辛かったから。…治ってよかった」
 三蔵が僕から目を逸らし、半歩下がった。僕の腕は宙に取り残された。
「嘘付け。熱出てる間中、オレが目ェ開ける度、嬉しそうな顔して覗き込んでやがったクセに」
 ぶっきらぼうな声で、頬を染める。
「そんなだから、伝染るんだ。そんなだから、うなされるような高熱出したんだ」
「三蔵…?」
 横顔に髪が掛かり、表情が隠される。ただ見えるのは、染まる頬。染まる唇。
「風邪。伝染して、悪かったな」
 ぶっきらぼうな声で。
 僕は宙に浮かせたままだった掌で、三蔵の頭を抱え込んだ。
「何しやがる!」
 僕の胸元に押し付けられて、くぐもった声が抗議した。
 三蔵の腕がもがいて、逃げ出そうと暴れたけど、僕は腕を緩めなかった。
「 ―――― だって、本当に嬉しかったんですよ。熱で潤んだ瞳だとか。僕だけがそれを見ていられるのだとか。僕だけに甘えてくれるあなただとか。僕のことを心配してくれる三蔵を、堂々独占していられるのだとか」
「オレは、次から医者に任せるからな。オマエみたいに手の掛かる病人、もうウンザリだ」
「冷たいですねえ」
「普通だろ」
 垣間見える耳朶が、紅く染まっていた。
「三蔵、次から医者任せでもいいですから。少し疲れたんです。一緒にひと眠りしてください」 
「添い寝の癖が付きやがって。オレとしたことが、甘やかし過ぎたな」
「もう少しだけ、甘やかして下さい」
 返事を待たずに、三蔵を抱えたままでベッドに倒れ込んだ。

「オマエのは人にものを頼む態度じゃねえよな」
「古今東西、病人は我が侭って決まってるんです」
「オマエもう元気だろ!?」
「ああ、疲れて眠たい」
 抵抗される前に、さっさと毛布を引っ張り上げた。
 横になり、ひやりとしたシーツを足先で感じると、本当に眠気が一気に押し寄せた。
「今日だけ…ね」
 横を向いて、三蔵の胴に手を回した。
「今日だけ…な」
 しぶしぶと。
 本当にしぶしぶと言った感じで、三蔵が僕の髪に触れた。
 優しく梳る指を感じながら、僕は眠りに落ちた。

 無意識にシーツを探って、その空虚に気付いて目を覚ました。
 暗い部屋、キッチンのドアの下から灯りが漏れているのに気付き、裸足のままで向かった。
「起きたのか」
 三蔵が、冷凍庫から鍋丸ごとを取り出した所だった。
 僕の作ったポテトのスープだ。
「分量が多かったから凍らせた」
 言い訳をするように、三蔵が言った。
「オマエとレトルトの粥を分けると、丁度いいくらいだったからな」
 知らず、僕は責めるような目付きをしていたらしい。いけない、いけない。
「小腹が減った」
 ガス台に置いた鍋に火を着けるのを見て、僕は椅子に腰を掛けた。
 三蔵はマルボロを咥えると、換気扇のスウィッチを入れた。紫煙がゆっくりと上がり、乱れて吸い込まれて行く。三蔵はそれを、目を細めて見ていた。
 普段三蔵は、対して美味くもなさそうに煙草を吸う。ただ、慣性で咥え、火を着け、吸い込むばかりだった。今日の煙草は、美味そうに吸っている。
 こうなると、煙草をやめるのは難しいんだろうなあ。
 僕はそんなことを思いながら、鍋の火を見ていた。

 大きな火。
 鍋底からはみ出すくらいの、最大火力。

「三蔵、火はもう少し小さい方が…」
「ン?」
「鍋の取っ手が熱くなって、このままだと溶けちゃいますから」
「そうなのか?」
 咥え煙草で、火を覗き込むと弱める。

 僕たちは、他愛の無い話をした。
 果たして、三蔵のレポートを受け取った教官は、風邪が伝染ったのだろうか、とか。
「奴には伝染ってる筈だ。絶対苦しんだ筈だ」
 腕組みをする三蔵が、宙を睨んだ。
 そんな子供っぽい三蔵を微笑ましく眺めながら、僕の耳は別の音を拾う。

 ことことこと。
 ぷくぷくぷく。

「そろそろ、かき混ぜた方がいいですよ、鍋。回りは溶けて来たみたいです」
「ああ、そうか」
 三蔵が菜箸で突っつくと、凍ったスープが鍋肌に当たり、溶けたスープが飛び散って辺りに垂れた。
 僕の目の前で、スープの垂れた筋が、ゆっくりと焦げて行く。

 春休みの間に、何処かへ行こうかなんてことも話した。ひねもすのたりと、海でも見に行こうかとか、映画の話題作だとか。

 鍋と、揺らぐ火を見つめながら。

「三蔵、もう少し火を弱めた方が…。ポタージュはすぐに焦げちゃうんですよ」
「そうなのか」
「ええ」
 三蔵はしゃがみ込んで火を覗き、慎重に火を弱めた。僕も一緒になって火を覗いていたのに、立ち上がった三蔵が気付いた。
「……何だよ」
「いえ、別に」
 僕は慌てて目を逸らした。

 映画の話から、映画の原作や、子供の頃に読んだ本のことなんかにも、話題が飛んだ。
 何度もねだって読み聞かせて貰った本は、大人になっても忘れないなんてことも三蔵が言い、子供の頃に気に入っていた、機関車の絵本のキャラクターの名前を唱えだした。僕はそのうちのひとつしか、聞いたことが無かった。
「アレでしょう?あの、顔色の悪い機関車達の」
「TVでやってた奴は、確かに顔色悪かったな」
 三蔵は、笑いながら鍋を掻き回した。
 お玉でくるり、くるり。

「あの、三蔵?」
「何だ?」
「もうちょっと鍋底の方もかき混ぜないと…。焦げちゃうんですよ、ポタージュは」
「オレはちゃんと混ぜて……あ!」
 鍋を深くさらったお玉が、底に溜まって張り付いていたポタージュを引っ掻いた。
 三蔵は暫く真剣に鍋を掻き回し、やがて吐息を吐いた。
「危ない所だった……」
「間に合えばいいんですよ。焦げさえしなければ」
 はらはらし通しで、心臓に悪い。
「熱くなったら、風味付けのクリーム落としてお終いです」
「ああ、クリーム、クリーム…」
 冷蔵庫から出したクリームを渡し、僕はスープボウルを探した。ここ数日の間に、食器棚の秩序が、以前と変わってしまっていた。
 ボウルとスプーンをふた揃い、ガス台の傍に置いてから、僕は棚のグラスや皿を並べ直した。整理のついでに、冷蔵庫の中身も、無くなった物はないかとチェックをする。
 三蔵は本当にレトルトだけを食べて過ごしていたらしい。僕の倒れる前から、内容に殆ど変化が無かった。
 しょうのない人だ。
 そう思って振り返ると、三蔵が僕を見ていた。

「三蔵!火!火 ―――― !!」
「あぁ?」
「クリーム入れたらすぐに火を止めるっ!火を止めてからクリーム入れても、器に取ってからクリーム入れるのでもいいくらいなんですからっ!」
 三蔵を押しのけ、慌てて火を消した。
「ンなことオレが知るかっ!こんくらいの事でデカイ声出してんじゃねーよ!」
「こんくらい!?酪農製品は爽やかな香りが命なんですっ!知らないって言ったって、僕がやってるの、見てるじゃないですか!」
「悪かったな、観察力が足りなくて!」
「観察と言えば、何だって火を着けたまんまで、僕が冷蔵庫にカオ突っ込んでるのなんか見てたんです!?ンなことなんか、観察したって面白くも何ともないじゃないですか!その間に焦げたら、もう手遅れなんですよ!?」
「てめーが用事あるなら、冷めないように皿に注ぐのを待っててやろうと思ったんじゃねェか!誰だよ、猫舌のオレの目の前で、見せつけるみたいにして熱いモン食ってるのは!?人様の親切心にケチ付けるとは、いい根性だ!」
「僕が何時あなたに見せつけたっていうんですか!?そんなの猫舌の被害妄想じゃないですか!」

 僕たちは暫く睨み合って、やがて同時に吹き出した。
「互いに元気になったらしいな」
「本当に。一気に有り余っちゃったみたいですね」
 笑いながら三蔵の肩に手を掛けると、手厳しい掌に叩かれた。
「甘えてんじゃねえよ。先ずは腹ごしらえだ。注いでやるから運べ」
「はいはい」
「『はい』は一度だ」
「All right. Yes, my lord.」
 トレイを持って抵抗できない僕を、三蔵が小突いた。
 僕は、横暴な主君に続いて、暖かな部屋に戻った。

 普段通りの朝。
 三蔵がシャワーを浴びてさっぱりした顔で現れた時、僕は数日前の騒動を思い出していた。
「ナニにやけてやがる…」
 三蔵は、折角のきれいな顔で、鼻にしわを寄せて僕を見た。
「いえ。この間のポテトのスープ、美味しかったなあって」
「あーあ、あれか。確かに美味かったがな」
 がしがしと、勢い良く髪を拭き出した。
「コーヒーが、もうすぐ入りますよ」
 コーヒーの漏斗に丁寧に湯を落とし、僕はキッチンの片隅の椅子に座った。指定席を僕に取られた三蔵は、ほんの一瞬だけ惑った顔をした。
「三蔵」
 手を差し伸べた。
 いつでも、差し伸べて拒まれることのない腕を。

 恋人に。

 一歩近づく躯を、捉えた。
「朝からサカってんじゃねーよ」
「少しだけ。コーヒーが入るまで」
 三蔵を僕の脚に挟み込むようにして、片膝に座らせた。
「座り心地はまあまあだが……落とすなよ」
 僕の首に三蔵が両腕を回した。

 そんなことをする訳がない。
 ここは、あなただけの為の席なんだから。
 僕があなたを手放す訳がない。

 接吻けて囁く言葉は、僕たち以外の誰の耳にも届かない。
















 終 







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