STAY WITH ME 8 
--- 愛シ可愛イヤ子守唄的物語 1 --- 


















「アァ?アレならウチにあるぜ?」
「ンだとぅ!?」
 日溜まりのカフェテラス。徐々に落葉を始めた街路樹の下の、歩道に並べられたテーブルに両手を突き、勢い良く立ち上がった三蔵が大声を出した。

「…三蔵、みんな振り返ってますよ?」
「そーそー。落ち着けってェ。こっちが吃驚しちまうぜ」
 さして吃驚したようすもなく、頬杖を突いたまま観世理事が煙草の煙を細く吹いた。
「くまだろ、くま。オマエが小さい頃に毎晩抱っこ抱っこしてた、あのティディベア。ほら、洗って濡れてるのにオマエが泣いて欲しがった、くま。無いと夜泣きするからって、旅行先まで光明が持ち歩くハメになった、あの…」
「そこまで詳しく言わんでもいいっ!」
 機嫌の悪い声が慌てて遮ったけど、理事は益々嬉しそうに眼を細めて煙草を唇に持って行った。殆ど唇を動かさずに、挟んで薫りだけを吸い込む。
 伏せ眼がちとも取れる長い睫毛の間から三蔵を見つめ、また嬉しそうに深紅のルージュを引いた唇から紫煙を吐く。
「…なんだよ、欲しいのか?」
「そういう訳じゃねェよ。どこにあるんだろうなって、この間話したばっかりだったからちょっと…」
 三蔵が、ちらっと僕に視線を寄越した。
 珍しく、戸惑った様子が見て取れる。
「もう要らないのか?誰かに遣っちまってもいいのか?」
「要らないとは言ってない!……誰か欲しがってる奴がいるんだったら…遣っちまっても構わない」
 本当に珍しく、語尾がどんどん小さくなる三蔵に、僕も理事も眼を丸くしてしまった。
「三蔵、それ、顔と躯で『要る』って言ってますけど…?」
「オレにもそう見えるが」
「………」

 オアフで開催されたの学会に出席したとかで、僕達は土産物を渡したいという観世理事に、駅前のカフェテラスに呼び出しを喰らったのだった。
 チョコレートやロリポップ、ポットにぎっしり詰まったクッキーズにジャム……。色とりどりのスウィーツが、パラソルの下のテーブルに山になっている。

 三蔵がコーヒーカップに口を付ける。
「てめェら…揃いも揃って、オレのことを幾つの子供だと思ってるんだ」
 年齢は判っていても、時折子供のままだよなあ、という眼で理事が僕を見るので、ついつい頷いてしまう。
「…てめェら…」
 苦々しげに言いながら、三蔵の耳が少しだけ赤くなったような気がする。

      くま、欲しいって言えばいいのに。

 三蔵の眼がテーブルの上を移ろい、ぺらぺらのアルバムに留まる。中には現像したての観世理事on the beach写真。
「…おい…このトシでビキニとかで灼いて…死ぬぞ?」
「バァカ!そんくらいの楽しみがなくて、何の為の学会だよ。学会やショウは学者や研究者が公費でリゾート出来るように、わざわざ場所を選んで開催してんだよ。機会を活かさない方が破廉恥なんだぞ」
「絶対ェ、ナンカ間違ってるな…」
 僕は苦笑するに留めるくらいにした。

「よし!」
 理事が急にきっぱりとした声を出し、銀のシガレットケースをバッグに仕舞い始める。
「次の日曜、ウチに料理作りに来い。美味かったらくまを返してやるよ」
 札入れを取り出そうとするのを見て、僕はさっと勘定書を引き寄せる。僕と目が合った理事は、一瞬後ににやりと笑うと札入れを引っ込めた。
「…来るだろ?日曜」
「勿論。腕によりをかけますから」
「おい、勝手に決めんな」
「いいじゃないですか。食事は人数が多い方が楽しいし」
「そうそう。酒用意して待ってるから。じゃな」
 立ち上がった理事のワインレッドのストールが、日差しに柔らかく揺れた。
「おい!」
 三蔵の声が響き理事振り向いた。
「…その写真、5枚目のは海がきれいだった。コーヒー代に一枚置いてけ」
「…いいぜ?」
 アルバムから一枚抜いて、鮮やかな笑顔で理事が去って行く。

「どれどれ…あ、いい写真ですね」
 真っ青な海を背景に、理事が小さな子供数人と砂山を作っている写真だった。深紅のパレオが白く輝く砂浜に映えている。
 家族連れで学会に出席した助教授と、行動を共にしたと言っていたっけ。妙に生真面目な顔で、掌を砂だらけにしている理事。過ぎた筈の夏が、ふと蘇って来たみたいだ。
「ババァもいい加減鉄面皮だがな。この顔はマジで砂山作ってるな」
 「鉄面皮」のトコロで、ちらと僕に目をくれながら言う。
「もしかして、勝手に決めたこと怒ってます?」
「それはもういい。…あー。どうやらくまが見つかって嬉しいらしいな、オレは」
 明後日の方を見ながら、今度は明らかに耳が赤い。
「…土産物。ちゃあんと、マカデミアナッツ入りのは避けてくるみ入りのチョコレートだったり、桃のジャムとクランチのピーナッツバターと一緒だったり…バカみてェに昔の好み、覚えてやがる…本気で子供だと思ってるらしいな」
「桃ジャムとピーナッツバター?」
「甘くないピーナッツバターと桃ジャムのサンドイッチが好きだったんだよ、小学校の頃。ホント、くだらねェコトばっか、覚えてやがる。くまもさぞかし大事に取って置いてくれたらしいな」
 ウンザリ。といった表情と声で。
「…しょうがねェから、預けたモンは取りに行く。八戒、メニュー何にする気だ?」
 ほとほとウンザリといった仕草で煙草をくわえる三蔵は、優しい諦め顔。
「…さあ?あなたが覚えてるんでしょう?理事の好みは」
 マルボロの煙が目に入ったのか、片目を眇めながら笑う。
「…まぁな。長い付き合いだからな」

「砂山とか、作り出すと結構真剣になるのは何でだろうな」
「大きさの限界に挑戦ですか?あれは水路作って、波に崩れるのを見守るまでが芸術ですから。ココロの奥底に眠る、アーティスト魂が揺さぶられるんですよ」
「マジかよ」
 部屋へ戻る道々、僕達は海を思った。
「花火は見たのに、夏の海には行きませんでしたね」
「電車乗り継げば、すぐなのにな」
「写真、きれいでしたね」
「青かったな」
 過ぎた夏を思い出しながら、逃してしまった楽しみを惜しむように。夏自体を惜しむように。
「…この辺の海じゃ、あんなに青くはないですよねえ?」
「空の色からして違うだろう。…でも今日は晴れてるな」
「………」
「………」

「行くか」
「行きましょうか」
 同時に言って目を合わせ、駅へと小走りで戻った。

 無計画に、行き当たりばったりに海へ。
 人波とは反対の方向へ向かう小さな電車は空いていて、どこか無性に楽しい気分にさせた。
「海は久しぶりだ。叔父貴の亡くなる前の夏以来だな」
「あの、フィルムで見た、鯨の親子を見た時の…?」
 懐かしいな、と、三蔵が言ったような気がした。微かに微笑んで。僕はそれがとても嬉しかった。
 民家の隙間をくぐるように、小さな電車が走る。車窓から見える家々は、古い映画を見ているような、なんだかそんな気にさせた。
 町中から、緑の多い方、緑の深い方へ。
 やがて崖の隙間を抜けて。

 ぱあっ、と。
 明るい日差しに視界が開け、柔らかな光の下で海が青銀色を見せていた。
「ここで降りてみましょう」
 乗り込む学生達とすれ違いながら。プラットホームに降りた瞬間に僕達を包んだ汐の香を吸い込むと、どうどう、という波と風の音が耳を鳴らした。
 駅のすぐ近くの車道を越えると、目の前が海だった。夏の終わった海はとても静かで、時折大きな犬を散歩させる人が行き交う。
「写真みたいな明るい青とは違う色ですね」
「ああ」
 思い付きの海行きが三蔵を失望させてしまったのではないかと、微かに気になった。
「柔らかな色だ。落ち着く」
「本当に?」
「ああ。何か、お前と来た海っぽい気がする」
 三蔵の言葉を、僕は暫し反芻する。
「僕っぽい?」
「違えよ。『お前と来た』っぽい。…そんな風に、きっと記憶に残るんだろ」
 『僕と来た』海を、何時か三蔵は思い出してくれるんだろうか。優しい思い出にしてくれるんだろうか。ふたりで一緒に思い出して笑い合いたいと、そう思った。
 砂浜に踏み出す靴が、埋もれる。
「三蔵!」
 遠いヨットを眺める三蔵に、僕は声を掛けると同時に板きれを放った。
「うわっ。何だ、コレ。流木か?」
「…砂山、作らないんですか?」
「オマエ…本気でオレに掘っくり返させる気か?」
「嫌ならいいんですよ。見てるだけで」
 返事を待たずに、僕は波のそばまで進むと砂を掘り始めた。
「よっ…と。板切れ一枚でどこまで出来ますかねえ…?」
 暫く呆れて見ていた三蔵が、にやりと笑うと何処かへ消え、すぐに戻って来る。
「人類だったらな、道具は選ぶもんなんだよ」
「…よく見つけましたね」
 流れ着いた壊れかけのバケツを、三蔵は自慢げにかざして見せた。

 大のオトナふたりが、真剣に砂を掘り、バケツで運んで山を作る。1メートルを超える高さの砂山に、遊んでいた子供達が喜んで寄って来た。
「もうすぐ汐が上げて来るから壊れちゃうよ」
 その言葉に完成を急ぎ、山の周囲に砂の塀と深いお堀を作る。益々喜んだ子供達が、大きな貝殻や流木でデコレイションする。
 何時の間にか陽が傾き、夕暮れの涼しい風が吹いて来た。
 砂山は立派な砂の城となり、波の浸食はすぐ側にまで来ていた。
「…じゃあ、行きますよ?」
 お掘りから伸びた水路の塞きを蹴り崩す。
 寄せては返す白波が、水路に一気に流れ込む。
 歓声が上がった。
 うち寄せる毎に砂を削って行く波に、三蔵も子供達も指を指して喜ぶ。溶けるように、飾り付けた巻き貝が落ち、流木が倒れ、やがて海に還って行った。

 大きな砂山が溶け切った頃には、すっかり日暮れの空になり、明るい満月が昇っていた。家路に向かう子供達の後ろ姿を見ながら、僕達はひとつ溜息をついた。
「結構堪能しましたね」
「オレにとっては、ここ数年分の海だったからな。泳ぎは出来なかったが、満足した」
「今泳いでも止めないですよ」
「抜かせ」
 三蔵はくるりと背を向ける。
「……来年だな」
「え…?」
「来年の夏は海だ!」
 後ろを向いたままの大声での約束は、どことなくくすぐったくて甘かった。

 とっぷり暮れた海に肌寒さを感じ、それでもまだそこから離れ難い思いにかられる。
 波から離れた所に引き上げられた大きな流木を見つけ、三蔵をそこに座らせると、僕は暖かい飲み物を買いに走った。少しだけ甘い紅茶を。
 蛍光灯の明るい駅前から海に戻ると、そこは真っ暗な闇で。ただ、どうどう、どうどう、と波の音だけが轟いていた。
「三蔵?」
 流木には暖かみさえ残っておらずに。
「……三蔵?」

 どうどう どうどうと

 海を渡る風は冷たく 砂山を飾り立てた巻き貝だけが
 また引き始めた汐に行きつ戻りつを繰り返し
 中空の青白い月に 内側の真珠質をぼうっと光らせて

 消えた砂の城と 青白い巻き貝
 満月の海は どうどう 濤々と 生き物のようにうねりを見せる
 巻き貝だけが また波に引かれて海へと還ろうと

「……三蔵!?」
 背筋の凍るような思いに、僕は波に向かって走り出そうとした。

 BOOOOOOOOM ! BOOOOOOOOM ! BOOOOOOOOM !

 ジーンズのヒップポケットの、携帯のバイブだった。
『八戒。何処まで行く気だ』
    三蔵」
 へたり込みそうな僕に気付いたのか、畳みかけるように三蔵の声が続く。
『…莫迦!ナニ、魂抜け出したような声出してる!?』
「三蔵」
『ここだ、莫迦!!』
 振り向けば、ほんの10メートルほど離れた場所で携帯のイルミネイション画面が青白く輝き、でもそれに照らされる三蔵の瞳は、焦慮と怒りのブレンドされた、活き活きとしたものだった。
「さんぞう」
『莫迦莫迦莫迦莫迦莫迦莫迦莫迦……』
 歩み寄る間、三蔵はずっと「莫迦」を繰り返していた。僕も三蔵の名前だけしか口から出て来なかったから、しょうがない。
「……このばかっ!」
 パタンと、音をさせて携帯を畳むと、一際大きな声で三蔵が言った。
「何処まで行く気だ!?何でヒト捜すのに、海ン中捜そうとする!?オレは泳がんとハッキリ言ったろうが!?」
 腕を伸ばし、三蔵の冷えた躯を引き寄せ、抱き締めても悪口雑言が続く。
「子供じゃねえんだよ!オレがどーしてこんな真っ黒い海に入って行くと思うんだ!?莫迦だ、莫迦!本当に莫迦!!」
 どんなに罵られても、僕は三蔵に回した腕を離さなかった。
 三蔵も、僕の背に叩き付けた拳をそのままきつく押し付けて来た。

 紅茶の缶のプルトップを引くと柔らかな香りと湯気が立ち登り、僕達は鼻先をそこへ突っ込んだ。冷えた指先まで、じわりと温まってくる。

「…ホットのジンジャーティが冬場に売ってればな」
「いいですね。ジンジャーとシナモンとナツメッグ入りの激甘インド風ミルクティ」
「冬の海で売れるぞ」
「コストパフォーマンス悪いんですかねえ…」
「スコッチたっぷりアイリッシュコーヒーか、なみなみブランデー入り紅茶でもいい」
「パブ風熱いビールもよさそうです」

 流木に並んで座る僕達は、他愛もないことを言いながら紅茶を飲んだ。熱望する品ではないけれど、甘い缶紅茶は充分に躯を温めてくれた。
「…風が冷たくて、真っ暗だった」
 ぽつりと囁くような声。
「誰もいない海は真っ黒な水がうねるだけで、月明かりの波頭だけ光ってた。本当に暗かった。自分ひとりが、満月に照らされてる気がした」
 ぴたりとくっつけた三蔵の側の腕の、今ある体温が嬉しかった。
「……ひとりで待ってるのが、急に腹立たしくなった」
「それで?」
「ただ座ってるだけだと、どんどん冷えるし」
「…それで?」
「歩き回ってたら、オマエが戻って来た」
「わざわざ…」
 僕は振り向いて指を指した。
 駅側から砂浜に降りる、コンクリ打ちっ放しの階段。階段を降りてすぐが砂浜だった。
 僕は先刻、浜に降りると急いで三蔵の待つ筈の場所へ向かった。
 そして実際に三蔵のいた場所は、階段の側のコンクリ壁際。
 急ぐ僕の視界に入るとは、到底思えない場所。
「…あんな所選んで?歩き回ってた?本当に?」
 暖かな紅茶の缶を両手に包み込む三蔵は、月を見上げた。
「立ち止まっていたかもしれんな」
「どこで?」
「壁際ぎりぎり」
「…貼り付くみたいに?」
「そうだったかもな…」
 人に冷や汗をかかせておいて、きれいな顔でにやりと笑う。
「…そうですね。何せマカデミアナッツが食えなくて、桃ジャムとピーナッツバターサンドが好物で、どうやらヌガーも大好きで、クッキーズの詰まったポットを見た瞬間に喜色満面になって、海で砂山が崩れるのを子供と一緒になって喜んで…。そういう方ですもんねえ」
「おい…誰が喜色満面したよ?」
「旅先まで持って行きたがったティディベアを、ハタチ過ぎてから取り返そうとするくらいに、縫いぐるみもお好きな方ですもんねえ。そりゃあ、隠れん坊遊びも楽しくてしょうがないでしょうねえ」
「回りくどい怒り方、ヤメロ」
「怒ってませんよ。単に事実を羅列しただけですし」
「怒ってんじゃねえか」
「…じゃ、機嫌取ってください。『大喜びの僕と来た』海を覚えていて欲しいですから」
 甘い香りの湯気の中、三蔵は一瞬眼を丸くした。
 ちっ。
 軽い舌打ちの音と共に、「メンドウクサイヤツ」と呟いて。

 紅茶味よりも、甘い甘いキス。






















 続く 







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イメージロケ現場: 江ノ電の鎌倉高校前か七里ヶ浜あたり