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STAY WITH ME 8
--- 愛シ可愛イヤ子守唄的物語 2 --- |
理事の家のキッチンは、明るく広々と使い易そうなものだった。
…まあ、あまり使用してはいないらしい。
三蔵が理事の目の前の高さまで上げた器には、オニオングラタン。たっぷりすり下ろしたチーズに、飴色になるまで炒めたオニオンが隠れている。
「だって時間かかんだろ、オニオンが甘くなるまで炒めるの。…煙草吸いながら炒めると、オマエも光明もぷりぷり怒ったじゃないか」
「吸わなきゃいいんじゃねェか」
「…コレ炒める間、オマエもちゃんと我慢したのか?三蔵」
「……吸いたくなったら交替した」
「殆ど八戒がやってたってことだろ、それ?」
「オレはちゃんとやった!」
とても賑やかな、日曜日の午後。僕達は明るいキッチンで過ごしていた。
理事が手にしたグラスの涼やかな氷の音を時折耳にしながら、僕はもう一品の支度をしていた。またしてもオニオンと、トマト、チョリソーとサラミ、モッツァレラ、オニオンとマヨネーズ、ガーリックスライスを大量。
「そうそう、辛いのもにんにくもたっぷり」
「…尽く々く生臭えよな…」
「美味いモンは美味いんだよ」
「具」の準備を全て整え、僕は既に計量してある粉に向かった。大きなボウルに、粉と、イースト、塩、オリーブオイル、ぬるま湯を加えて混ぜる。
「……もしかして、こねるのやりたいんですか?」
僕の手許を、理事と三蔵の二人はじっと見つめていた。
「ストレス解消にいいですよ、生地こねるのは。こねて貰えるんだったら、その間にサラダも作れるし」
「八戒、ストレスなんざ、この観世理事にあると思ってるのか?…まあ、ちょっと面白そうだが…しょうがない、三蔵に譲ってやるよ」
「…しょうがないってーのは何だ。しょうがないってーのは!」
「爪伸ばしてるから料理には不向きなんだよなあ。爪の間に食材が入ったり、万が一折れたりすると食い物に混入するしなあ」
「…判った。オレがやる」
ボウルを抑える僕に三蔵が問う。
「とにかく混ぜればいいんだな?」
「そうですね、混ぜて混ぜて混ぜて混ぜて…粘りが出てまとまってきたら、後はテーブルに叩き付けるだけですから」
三蔵が、袖をまくり上げた腕を振り回した。
「フン…やってやるか!人生初の、手作りピザだ!のめすぞ!」
軽率だった。
タマネギを舐めてはいけない。
30個のタマネギを、横に薄くスライスし飴色になるまで炒める。まずスライスしたタマネギが、ボウルに山になった。取り敢えず火を通そうと、大鍋に蓋をして軽く蒸したがその嵩は一向に減りそうにない。そこで一旦小分けにして炒めることにした。
「……無謀だったか」
「過去を悔やむよりも、取り敢えず今目の前にあるタマネギの山に取りかかりましょう」
僕が鍋を掻き回す様子を、マルボロをくわえた三蔵が椅子に座って見ていた。灰を落とされそうで、鍋から離れた場所に僕が置いた椅子だ。
料理の際には、三蔵は余り役に立たない。タマネギをスライスする段階から、ゴーグルが欲しいとか、オレは目がヨワイとか、スタンスが逃げ腰だった。
…我が儘を許し過ぎたツケが来たのか。
「…まだ全然匂いが甘くないな」
「まだまだですね」
僕が必死に鍋をかき混ぜ続けるのを見るのに飽きたのか、三蔵は僕の料理の本をぱらぱらと捲り始めた。
「…炒めたタマネギ、カレーに入れても美味いな。あ、コレ美味そうだ」
「…カレーね、カレー。コレが無事出来上がったら、今度作りますよ。……ところで煙草吸い終わったら、かき混ぜ役交替の約束でしょう?」
「今日天気いいから、キッチンって暑いんだよな。火のそば、もっと暑い しな」
「……三蔵」
「睨むなよ。判ったから、今から手ェ洗うから」
漸く透明になったタマネギ軍団を、木べらで休むことなくかき混ぜ続ける。弱火でじっくり、飴色になるまで。しかし絶対に焦がしてはいけない……。
「……腕が疲れた」
「筋肉付けられますよ。無事出来上がりの暁には、美味しいオニオングラタンと、…そうですね、鳥挽肉のキーマカレーとかどうです?あとその本に「デリー」のカシミールカレーの作り方、載ってたでしょう?」
「先刻写真見たのそれだ。…そろそろ腹が減ったんだが」
「晩飯の時間はまだです。第一あなたのくまの為じゃないですか」
「てめェ、その話題から離れろ」
「本当に我が儘なんだから…。あ、じゃあちょっと待っててください」
僕は自室から薄い文庫本を持って来た。
「交替する間、これ朗読してください」
木べらを握り締めていた左手首を振りながら、三蔵はぱらっと頁を繰った。
「そう、その最初の短編の、第一章目だけでいいですから。そこが一番好きなんです」
『こんな夢を見た。』から始まる、百年待った女と只一度接吻する男の話を、三蔵は淡々と朗読した。
百年待っていてくれと、懇願する言葉を三蔵の唇が紡ぐのを、僕は手は動かしながらじっと見ていた。声が、鼓膜を振るわせる単なる空気の振動だなんて、信じられないくらいに心に染み込んだ。
「……読んだぞ」
「ええ」
「交替するか?」
「ええ」
思案するような表情の後、三蔵も自室から文庫を取り出して来た。古本屋の値段が奥付に書き込んである、恐竜の絵の表紙のレイ・ブラッドベリ。
「それのな、…『霧笛』がいい」
ブラッドベリの『霧笛』は、僕も別の文庫で持っていた。それも古本で、本を捲ると頁が取れそうな年代物だった。
百万年の時を待った、孤独な恐竜の物語だ。くまを持ち出した僕に、三蔵は年数で勝とうとしたんだろうか。…そうでもないか。静かで少し悲しい物語だった。僕の本とは訳者が違うせいか、結末が違っていたような気がする。
僕が読み終わると、読後感を味わう余韻もなくもう一編をねだられた。今度のは『ティラノサウルス・レックス』…最後まで明るい短編だ。
「よし。じゃあ次は…」
木べらを機嫌良く振り回して言い出す三蔵に、僕は慌てて待ったを掛けた。
「交替!交替ですってば!」
時ならぬ朗読会は、その辺の文庫本から実用書から、手当たり次第に選ばれた。
三蔵の『スノーボードレッスン』を、僕が抑揚、感情たっぷりに読むと彼が笑い転げ、僕のクッキングブックは関西弁で読み上げられた。あんまり僕が喜んだので、三蔵は最後にはフランス訛の関西弁でミートローフの作り方まで披露してくれた。
「…う、胡散臭いですよ〜〜〜」
涙が流れそうなくらいだったが、丁度、腹筋が限界に来た頃には、全てのタマネギがきれいな飴色になっていた。キッチンに差し込む日差しが午後遅いものになり、甘い香りが空腹感を刺激する。
僕達は出来立ての飴色オニオンでスープを作り、早めの夕食に飲んだ。
「苦労の甲斐あって、満足の出来ですね」
「ああ。でもストック作るにも限界があるって今日は知ったな」
「まあ、楽しかったですし」
「まあな」
ぱりっと焼き直したベーグルにカッテージチーズとサーモンを挟み、オリーブオイルと黒胡椒と塩を少し掛けたベーグルサンドと、アスパラガスとコーンのサラダを僕達は食べた。珍しく家事労働に携わったのだからと主張する三蔵は、翌朝の分のパンまで食べ尽くしそうな勢いだった。
「…叔父貴にくっついて海外を行ったり来たりして、そんな中でも時折ババァは遊びに来てくれてた。ババァが一時期留学してて、比較的近くに住んでたこともあったからだが、それ以外でもちょこちょこ顔出してたってのは…」
神妙な顔で三蔵が呟く。
「学会やら研究会やらのお陰か…?」
「理事、何か色んな所のオブザーバーとかしてるみたいですしね」
「なんたら姉妹みたいな訳判んなさだな」
「ああ…。あの人達の本業も判らないですよね…」
暫く沈黙のまま、ただ咀嚼の為だけに口が動く。ぷすり、と三蔵がアスパラガスにフォークを刺した。
「…それでも。今日みたいにキッチンで騒げるような客は、アイツだけだったからな。叔父貴と、ババァと、オレと…散々キッチンに籠もった挙げ句に、メインディッシュ焦がして、デリバリのピザ頼んだりしてな」
「海にも一緒に行ったんでしょう?」
「…そうだな。昔は3人一緒に海に行って、今年はババァはオレの知らないヤツ等と一緒、オレはオマエとふたり」
アスパラガスを口に放り込む。
「バラバラになっちまったみたいだけど、それでも互いに笑って過ごせてりゃ、それが一番だな。タマには食事も一緒にする羽目にもなるしな」
フン、と鼻で笑いながら、それでも機嫌良さそうな三蔵は、もうひとつベーグルを囓る。
「海にも誘えばいいじゃないですか、来年の夏」
「冗談…。ババァのビキニ、生で見ろってか?しかも沖縄がいいとか、バリがいいとか、ゴネやがるぞキット」
三蔵が目を剥いた。
「そんなのは御免被る。……そうだな。アイツ誘うんだったら、老後だな、老後。老後に沖縄でも何でも一緒に行ってやるさ」
滑らかになるまでこねた生地を包んで、冷蔵庫で少し寝かせる。その隙にテーブルの上を片付け、トッピングの追加の準備をして、ビールでひとまず乾杯をした。
「滅多に遊びに来てくれない冷たい三蔵にかんぱーい」
「…人を人非人みたいな言い方するな。てめェがそうだから足が遠のくんだよ」
「理事もたまには遊びにいらしてください」
「バカ、八戒!本当に入り浸りされても知らんぞ!?」
「ふっふっふ。呼ばれたからには遊びに行くに吝かでない」
「八戒!?」
騒々しく、賑やかな日曜日の午後。
明るい秋の空。風は少しずつ涼しくなって行く。
この時間もいつか記憶の中のひとつになるのなら、優しいセピア色になればいい。
明るく暖かなセピアの色に染まればいい。
微笑みながら思い出せる、長い時間の積み重ねのうちのひとつになればいい。
「…八戒、ピザ、3枚分だよな?」
「ええ。それぞれ自分の好きなトッピングに出来ればと思って…」
「オレは、これがいい」
三蔵はストッカーから缶詰を探し出していた。たれ味の焼き鳥の缶詰。
「これとマヨネーズ」
「…三蔵、まだマヨネーズ好きか?」
「ああ」
「オマエ、やっぱりガキの頃から味覚変わってないだろう?」
「日本のマヨネーズは特に味が濃厚で美味いんだよ!」
「ああ、はいはい」
「こら真面目に聞けーッ!」
発酵の済んだ生地を天板に伸ばしトマトソースを薄く広げ、…三蔵はマヨネーズ和えのオニオンスライスをたっぷりと敷いた。
「…だからっ!オニオンとマヨネーズは合うんだったら合うんだよ!」
その上に焼き鳥をばらまくと、またマヨネーズをチューブからたっぷり絞り出し、チーズを乗せる。
「照り焼きバーガーとか食うだろ!?たれの甘い味とマヨネーズのコンビネーションは、保証済みなんだよっ!日本中が知ってるだろ!?」
三蔵のマヨネーズの絞りっぷりに、観世理事と僕は引き続き笑い続けながら、各々、自分の好みのトッピングを乗せた。
真っ先にトッピングの完成した、三蔵のピザとオニオングラタンを温めたオーヴンに入れる。
理事のトッピングは、ソースも唐辛子たっぷりでサラミ、チョリソー&にんにくの完全ビール仕様、僕のは、ごくシンプルなバジル、トマト、モッツァレラのマルゲリータ。
キッチンに立ちこめた、こんがりとしたチーズのいい香り。
酷く幸福なまま、焼き上がったピザに更にレタスとマヨネーズを追加した三蔵に…僕達は腹がよじれるまで笑った。
「……本当に寝ちゃいましたねえ」
「自分には?安眠出来て!頼り甲斐のある!?しかもアッタカイ!!別の抱っこ枕が出来たから、だからもう要らねえって!?このオレサマにくれてやるってか!?」
憮然としたまま僕を見る理事に、頬が熱くなるのを抑えられないまま、ついつい苦笑した。
「ガキのまんまのクセして、随分と生意気になったもんだよ。あぁ!?」
「り、理事。僕を睨まないでください」
「いや、この場合、どー考えてもオマエの所為だろう」
「あ、あー…」
その時、三蔵がころんと寝返りを打った。
くしゃくしゃの前髪が乱れて額がまるっきり露わになっている。ティディベアを抱いたままの、薄く開いた唇と濃い睫毛の落ちた寝顔は、幼い頃の三蔵の寝顔を思わせた。
「おい八戒、八つ当たりだから諦めるんだな」
「え…?」
「おやすみーっ」
「あ!ああッ!?」
理事はベッドにのしかかると、くまの反対側、即ち三蔵にくっついてオヤスミポーズになってしまった。片目を瞑るとひらひらと掌を振り、先刻三蔵がくまにしていたのと同じように、その手をぱたんと落として三蔵の胴に回した。
「…あなた方、来客残して非道いんじゃないですか?」
くつくつと笑い声を上げていた理事の呼吸が、やがて静かになる。
僕は深い溜息をひとつついて…灯りを落として部屋を出た。
「…おやおや」
妬けちゃうなあと、また溜息をひとつ。
ダイニングの灯りも落とし、再び理事の寝室へ向かい…。くまを除けてベッドの隙間に潜り込んでやろうかと一瞬考えはしたものの。
ふたりと一匹の寝顔に負けて、僕はクッションを抱えてベッドの足下に寄り掛かって目蓋を閉じた。
寝息に紛れて誰かの満足げな溜息が聞こえたけれど、それが三蔵のものか理事のものかは判らなかった。もしかしたらくまの声かもしれないと、寝惚けた頭で思い付き…。