STAY WITH ME 10 
--- 雪花小片的物語 5 --- 


















 周囲が明るくなり、小鳥の囀りが聞こえる。
 暗闇の中の新聞配達の、自転車のスタンドを立てたり、上げたりの音を、つい今しがた聞いたばかりだと思っていたのに。ついうとうとしてしまっていたらしい。
 立ち上がって、カーテンの隙間から外を覗いた。
「朝ですねえ…」
「朝だ」
 独り言に応えが返され、ベッドを振り返った。三蔵は目を瞑ったままだった。
「おはようございます。…気分は?」
「良好とは言えないがな。昨日みたいな、がんがん来る頭痛がない」
 三蔵の髪を掻き上げ、額同士をくっつけてみた。
「…熱、かなり下がったみたいですね」
「オマエ、これで本当に判るのか?」
 長い睫毛が上がって、紫暗色の瞳が現れた。
「昨日は凄く熱かったんですよ。触れると痛いみたいな熱さ」
「そうか」
「そうですよ」
 目を見合わせるのが楽しくて、しばらく額を着けたままでいた。

「何か飲みます?それとも、何か食べられそうですか?」
「冷たい水がいい」
 三蔵はまだ躯の節々が痛むらしく、身を起こす時には眉のラインが辛そうだったけれど、それでも今度はひとりでグラスの水を飲み干した。
「ああ。」
 氷の音を立てながら、気持ちよさそうに、空のグラスに額を押し付ける。

 起き上がったついでに、一晩汗を吸った衣服を取り替えさせた。暖かな部屋で、お湯で絞ったタオルで躯を拭われ、乾いた衣類に着替えさせられながら、三蔵は気分がよさそうだった。
「昔の王様みたいですね。シャツのボタン留め係とか、靴下履かせ係とかが決まってるような」
「…鬱陶しそうだな…。ま、オマエは差し詰め下僕か」
「貴族のお仕事だったんですよ」
「こんなに嬉しそうに、ヒトのことを着替えさせるヤツは、下僕だ、下僕」
 少し体調が戻ると、すぐこれだ。
「さて、と…」
 着替えの終わった三蔵は、ベッドに手を突いて立ち上がった。
「どうしました?」
「トイレ」
 三蔵の肩を支えようとした腕を、勢い良く振り払われた。
「莫迦!トイレだ、トイレ!」
「下僕ですから」
「莫迦、来んな!」
「ちゃあんと、お支えタテマツって、お見守りモウシアゲますよ?」
「絶対ェ、来んなよ!?来たらブッ殺す!!」
 三蔵は、眉をつり上げて、僕の方を向いたまま後ずさりで部屋を出ると、洗面室に飛び込んでドアを勢い良く締めた。ご丁寧に、鍵を掛けた後にドアが開かないかノブを回して確認している。
 僕は、三蔵の行動のひとつひとつに声を上げて笑い、笑顔が納まらぬままでシーツを取り替えた。ぴんと伸びたシーツでベッドメイキングし、丸めたシーツを腕に、ベッドに座った。
 乾いたシーツが、滑らせた掌に快かった。 
 ゆっくりと、転がる。
 ひんやりと、清潔な布地が頬に触れる。
 気持ちの良さに、目蓋が落ちた。

 ベッドの軋む音に、三蔵が戻ったのだと思った。
 額から目蓋にかけて撫でられ、目を開けたくなくなった。
 抱えたシーツの感触が腕から離され、肩まで温もりが引き上げられた。
 三蔵の柔らかい声がしたけど、何を言ったのか判らなかった。
 僕の胴に腕が回り、熱い掌の感触を素肌に感じた。
「早く熱が下がるといいですね」
 口に出せたか出せなかったのか、それも判らなかった。

 ぼんやりとし過ぎて、どれだけの間天井を見上げていたのか自分でも判らないような、目覚め。
「……思いっ切り、昼間ですね」
 何時間眠り込んでしまったのだろう。中々迂闊なことをしてしまったものだと、起き上がろうとして、自分の腹の上にあるものに気付いた。
 僕のシャツを引っ張り上げて、服の中に突っ込んである、三蔵の掌。
 掌から遡って見れば、昨晩とは比べものにならない、穏やかな寝息を立る三蔵。試験中には、少し濃くなっていた目蓋の影の色が、淡くなっていた。
 そっと触れてみると、頬や首筋は、まだ熱を持っているようだった。
「……ン?」
「おはようございます」
 枕に肘を突いて間近から見下ろすと、三蔵は、僕の胴に回した自分の手に気付いた。
「甘えられてるみたいで、ちょっと嬉しいです」
「…オレより体温低くて、掌に気持ちよかったんだよ」
 不機嫌そうに言いかけたのに、途中から、にやりと悪いことを思い付いた顔になる。
「低体温の、人体枕、な」
「…ちょっ…!」
 僕のシャツを盛大に捲り上げて、胴体にぺたりと頬を押し付ける。
「冷た過ぎなくて、乾いてて、適度に柔らかい。…病人相手に、動悸上げてんじゃねえよ、莫迦」
「そんなコト言われてもですね…!」
 熱い掌、熱い頬、熱い吐息を僕の素肌に触れさせながら、質の悪い病人は、至極嬉しそうに片方の唇の端をつり上げた。
 忍耐もそろそろ限界なのだけど。
 そう思って、三蔵の頬を捉えようと手を延ばした瞬間に、彼は力を抜いて長く息を吐いた。
「…気持ちいい。今なら何か食えそうだ。ひんやりしたモノ、あるか?」
「アイス!ヨーグルトも買ってあります。プリンも作りましょうか?冷たいのはすぐには無理ですけど、後で食べられるように…」
 息急き切っていうと三蔵は、面白そうな目つきで僕を見上げた。
 僕のお腹の上から。
「…何だよ。切り替え早えな。そんなに急にオフクロみたいになられると、オモシロクねえな。しょうがないからアイスでも食うか。アイス、アイス。さっさと持って来い」
 充分にオモシロがる上目遣いで、

  ―――― 僕の鳩尾を、舐めた。
 銀色のスプーンに少しずつ乗せたバニラアイスクリームを、三蔵の唇に運んだ。
「喉が気持ちいい。 ―――― 後は自分で食うからスプーン寄越せ」
「駄目です。これが一番、看病で楽しい所なんですから」
「じゃあ、ひと口でもっと沢山食わせろ」
「先刻、散々僕を煽って焦らしたの、どなたでしたっけ?」
「誰だ?そんなことするヤツ、いるのか?」
「ワルイヒトって、いるもんなんですよねえ」
 三蔵の口元まで持って行ったスプーンを、僕は自分でぱくりと咥えた。
「風邪が伝染るぞ」
「いや、もう確実に伝染ってるでしょう」
「オレが治るまで待てよ…」
「努力はしましょう。見越して非常食は買い込んでありますけどね」
「賢明だな」
 アイスクリームを交互に食べながら、買い込んだ物を数え上げた。
 レトルトのお粥、火に掛けるだけの冷凍うどん、電子レンジで温めるだけの茶碗蒸し…。
「賢明だが。それはオマエが寝込んだ時用の、オレが看病する場合の食料だな?」
 スプーンから口を離した三蔵が、不服そうに言った。
「そうですけど…?」
 三蔵の口の端についたクリームを、親指で拭って舐めた。
「料理に期待しろと言う気もないが、賢明に過ぎる恋人を持つのも、不愉快なモンだな」
 指を舐めたままで、動けなくなった。
「どうした?間抜けなカオして?」
 慌ててスプーンにすくったアイスクリームは山盛りになったけど、三蔵は気にした様子もなくそれを口に入れた。
 僕は、口を開けば甘い気持ちが暴走しそうで、何も言えなくなってしまっていた。

 新しい保冷枕に、三蔵は気持ちよさそうに懐いた。
「随分とラクになって来た」
 襟元まで毛布をたくし込んでやると、まだ紅い頬を見せて、口に出した。
「昨日。」
 うとうとと、あっと言う間に眠た気な目になる。
「ホケカンの窓から外を見ていた。中庭のばらに隠れて、非常階段の下に、人がいるのに気付いた」
 半ば閉ざした瞳は、柔らかい色合いだった。
「ふたりで何か話してるようだった。ぼんやり見てるうちに…」
 毛布から出た片腕が首に巻き付き、僕は引き寄せられた。
 額に、頬に、唇に。
 花びらのように軽い唇が、触れた。
「……見ていて、きれいだと思った。我ながら熱の所為かとも思ったが、それでもやっぱり、優しい光景で、きれいだと感じた」
 またすっぽりと毛布の中に潜り込み、向こうを向いて目を瞑る。
「あれを恋人というのなら……悪いもんじゃない」
 それ切り黙ってしまうから、目元の染まり具合が熱によるものかどうなのか、僕にはもう皆目見当も付かなくなった。

 ひとり、キッチンでスープを作り始めた。
 飲みやすくて栄養のある、ジャガイモのスープ。タマネギと一緒に皮ごと茹でたジャガイモを、そのままポテトマッシャーで潰して、漉して牛乳で飲みやすい濃度にして、塩胡椒で味を調える。後は、温めて飲む寸前に生クリームで風味を付けるだけ。
 ジャガイモをごしごし洗ってスープストックの鍋に放り込み、タマネギを荒くスライスしているうちに、視界が揺らいだ。
「みじん切りでもないのに、やですねえ」
 僕の目の潤みも、頬が熱く感じられるのも、タマネギとスープの鍋の所為なのか、最後のキスがとどめとなって、三蔵の風邪が伝染った所為なのか。
「レトルトだけじゃ、三蔵が飽きちゃうかもしれませんしね。スープ温めるくらいなら、面倒臭がらないでしょうし」
 震えるくらいに、幸福な気持ちがわき上がった。

 恋人

 三蔵の声が、何度も何度も耳に蘇った。















 続く 







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