STAY WITH ME 10 
--- 雪花小片的物語 4 --- 


















 眠ってしまった三蔵を背に、僕は電車の外を眺めていた。
 いつもと変わらぬ光景が、扉の分厚い硝子の向こうで後ろに飛び去り、薄曇りの空の所々からは、淡い陽光が筋をなしていた。
 暖房の効いた電車の中、頬に触れる三蔵の髪が日差しに透けて綺麗だった。

 電車を降りた瞬間、冷えた空気に三蔵は身じろぎをした。
 起こしてしまうのが可哀想で、改札口で少し手間取った。
「あの」
「はい?」
 小さな声を掛けた駅員さんは、三蔵を背負う僕を見て、目を丸くした。
「定期券、僕のコートの内ポケットに入ってます。手が離せないので、確かめて頂けます?こっちの人のは、右のポケットに…」
 かなり真剣に言ってみたつもりだけれど、駅員さんは小さく吹き出した。そして急に鹿爪らしい顔に戻ると、低い声で言った。
「毎朝通る人の顔くらい、覚えてるから。今日は特別。御大事に」
 通りなさいと、身振りで示す。
 大したことじゃないけれど、会釈しながら何となく嬉しかった。大学の駅でも、実はそうして通して貰ったし。
 駅前を、時折人に振り返られながら歩いていると、三蔵が咳をした。
「もうすぐ、うちですよ」
 小さく、呟いてみた。

「…あ?着いたのか?」
 鍵を探る動きに、三蔵が目覚め、僕の背から降りた。
「熱上がってるみたいですね。水分沢山摂りましょう。食べ物、摂れそうですか?果物は?アイスやヨーグルトなら?」
 部屋に戻る間中言い続ける僕に、三蔵は厭そうな顔をした。
「 ―――― オマエ。妙に嬉しそうだな」
 肩に掴まらないと階段も昇れない癖に、洞察力は曇ってない。

 三蔵は自分の部屋に入ると、鈍い仕草でコートを床に落とし、歩きながら片方ずつ靴を脱いだ。そのままベッドに潜り込もうとするのを、無理矢理止めさせる。
「寒い」
 僕が巻き付けた毛布の中から顔だけを出し、そのまま横になろうとする。
 慌てて彼のクロゼットから、清潔な衣類を引っぱり出した。
「着替えた方が、楽になりますから。イイコですから、言うこと聞いて下さい」
 勝手にシャツの前を開いていると、三蔵はのろのろと自分でジーンズのボタンを外し始めた。熱の所為で指先に力が入らないらしく、その作業も、途中から僕がかっさらった。
「…ヤらしいこと、するなよ」
 減らず口にも、力がない。
 とは言っても。
 毛布を力無く握り、しっとりと汗ばむ素肌に、真新しいシャツを羽織っただけ。
 僕が引き抜き掛けてるジーンズが、片足にまだまとわりついている。
 着替える途中で乱れた髪が、紅潮した頬にかかり、半ば閉ざした瞳は視線が定まらない。
「肝に銘じます」
 シャツのボタンを留めようと立ち上がった時、三蔵が僕の顔を見上げた。
 潤みきった、瞳。
「…八戒、喉、乾いた」
「後で飲み物を持って来ますから」
 普段よりも紅く染まった唇が、僕の名を紡いだ。
 何となく正視出来ずに、シャツのボタンに集中しようと屈み込む僕の、肩に。かくん、と首を曲げて、三蔵は額を押し付けた。
「八戒。……すまない」

 先刻、おんぶをするしないで、この人のことをからかった罰がくだったんだろうなあ。
 つい余分なことを考えてしまう、僕の方こそすいませんという気持ちと。
 熱い吐息の掛かる距離で、掠れた声で名を呼ばれても、触れちゃいけないと思う気持ちと。

 胸が苦しい程だった。

 ベッドに横になった三蔵に声を掛けて、買い物に出た。
 イオン飲料、アイスクリーム、ヨーグルト、葛湯、桃缶…
 高熱が辛そうなので解熱剤は呑ませたけれども、買い込んだ物を食べられるのか、暫くは怪しいところだ。それでも何か急かされるような気分で、買い物かごに色んな物を放り込んだ。
 物音を立てない様にして部屋に戻る。
 買い込んだ物を冷蔵庫に仕舞っている最中に、呼ばれたような気がして、三蔵の部屋のドアを開けた。
 夕方近くの薄暗い室内に、ベッドの端から髪の毛だけが覗く。瞑った目と、少し早い呼吸を確かめながら、窓のカーテンを静かに閉じようとした。
「……はっかい?」
「起こしちゃいましたか?」
「いや…。帰ってたんだな」
 薄らと開いた瞳が、またすぐに閉ざされようとした。
「三蔵、目覚めたついでです。水分摂りましょう。ポカリ飲めます?」
 紅い顔が、目を瞑ったまま頷く。
 急いでボトルごとのポカリとグラスを持って来ると、三蔵の上体をゆっくりと起こさせた。
 躯を動かす度に、三蔵の眉が顰められる。身を起こし終わると、安堵の息を吐く。グラスを持たせた指も、支えた躯も震えている。
 少しでも震えを抑えさせたくて、手近にあった上着を引き寄せ、背をくるんだ。
「無理にじゃなくていいです。でも、汗をかいた方が熱が下がりますから、出来るだけ飲んで下さいね。ゆっくりでいいですから」
 高熱で辛そうな姿を見るうちに、僕の声は懇願の色を帯びていたのかもしれない。三蔵はひと口、ひと口、グラスの中身を空けて行った。
 時間をかけてイオン飲料を飲み干した三蔵を、また横たえて毛布でしっかりとくるみ込んだ。
 閉ざし掛けのカーテンを、完全に閉め切ろうとした時、三蔵がまた薄らと目を開けた。
「暗い方が、眠り易いですよね?」
 唇が、微かに開いたけれども、声は聞こえなかった。
「……熱計りたいんですけど、体温計見るのに、デスクの明かりだけ点けておいていいですか?」
 また薄らと目蓋を上げた三蔵の瞳が、どこか安心したような表情を浮かべていたような気がしたのは、錯覚かもしれない。

 母屋で借りた保冷枕をタオルでぐるぐる巻きにした。それを三蔵の頭に宛って、今度は、自分の部屋のオイルヒーターを、三蔵の部屋に持ち込む。
 濡れたタオルで三蔵の額や首筋を拭っている途中で、彼はふたつのヒーターに気がついた。
「オマエが寒くなるだけだろ」
「安心してください。僕も暖かい部屋にいることにしますから」
「心配なんざ……」
 してねえよ。か、するか。か…?
 それすら言い終えられずに、また眠りに落ちる。

 三蔵が眠りに落ちると、僕は自分の栄養補給に、大急ぎでキッチンに向かった。
 食パンを立ったままで口に押し込み、お湯で溶くだけのスープをマグカップに入れ、洗っただけのトマトにかじり付く。
 読みかけの文庫とスープのカップを持って三蔵の部屋に戻ると、デスクにそれを置いた。
 苦しそうな声がして、三蔵が寝返りを打つ。
 枕元に立って額の汗を拭うと、三蔵は微かに目を開けた。
「大丈夫ですよ」
 声をかけられると、こくん、と、頷き、また眠る。

 三蔵を看ながらスープを飲み終え、急いで空になったカップを濯いでコーヒーを淹れ、部屋に戻った。少しの間も、三蔵をひとりにするのが嫌だった。
 三蔵のデスクに座り、文庫のページを捲る度に、三蔵に目を遣る。
 早い息遣いの時もあれば、目蓋をきつく閉ざしている時もあった。かと思うと、ぼんやりと目を開けていることもあった。

「喉、乾きました?」

「汗拭きましょうか?」

 低く声を掛けると、必ず三蔵は僕を見て。
 ほんの微かな吐息を吐く。

 僕は声にならない声を聞く。
 『はっかい』
 いつもよりも、甘えた声。

 僕はまた、胸が苦しくなった。
















 続く 







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