STAY WITH ME 10 
--- 雪花小片的物語 3 --- 


















「抜かった」
 試験最終日の朝、三蔵が赤い顔で呟いた。
「頭痛、悪寒、全身の倦怠感。……風邪だ。」

 試験期間の後半、今になって思えば三蔵の食が落ちていたような気がする。毎朝の電車でも、講堂でも、咳をする人は多かったし。
 そんなことを思いながら、僕は三蔵に咥えさせていた体温計の目盛りを計った。
「38度3分。…どうします?」
「行く。今日の試験ふたつで仕舞いだ。レポートも提出したい」
「途中でぶっ倒れないでくださいね」
「多分な」
「マスク、してくださいね」
「……人に伝染さない為にな」
「当たり前です。試験でもなかったら、世間の迷惑ですから、外出なんてボコる所です」
「帰ったら、オマエに伝染して快癒してやる」
「はいはい。試験終わったら、幾らでも伝染されますから。さ、ガッコ行くなら、さっさと行きましょう」
 普段よりもゆっくりなペースで、駅まで歩いた。
 僕と三蔵の試験の時間割は、終了時間が一限違っていた。三蔵の方が先に終わる筈だったけど、そのままひとりで帰れるのか、少し不安だった。
「多分な。多分。最悪タクシー拾う」
 別れ際の後ろ姿が、ゆらりと傾いでいたので、不安が軽くなるどころではなかった。

 試験中も、人の咳が気になった。
 高い天井に響く、咳。
 あ。
 誰かが鼻をかんだ。
 どこかに、辛そうな咳をしている人がいるなあ。
 今日さえ乗り切ったら、家でゆっくり休んでくれるといいなあ。
 よく干した布団で、栄養摂ってたっぷり眠って欲しいなあ。
 今、目の前にいない人のことを考えながらも、要領のいい僕は、ソツなく、解答用紙を文字で埋めて行った。

 試験官の終了の合図もそこそこに、僕は教室を飛び出した。廊下を早足で駆けながら、携帯の電源を入れ、メールをチェックする。
 案の定。
『保険管理センターでねる』
 三蔵らしくない誤字だ。
 もう一通、悟浄から。
『三チャンが廊下に落ちてたから、ホケカンに持って行ってやった。後で感謝するように』
 …『連れて行った』じゃない辺り、悟浄の場合、本当に荷物扱いで持ち上げて行った可能性もある。面白がって、お姫様抱っこしたという可能性も。

 別棟の保健管理センターに向かえに行くと、三蔵はベッドから身を起こして窓の外を眺めていた。
「三蔵、あなた寝てないで大丈夫なんですか?」
「今横になったら、起きあがれなくなる。それより、レポートだ。レポートを提出しに行きたい」
「僕が持って行きましょうか…」
「いや。自分で行く」
 急に、強い口調で三蔵は言った。
「手渡しだ。何が何でも手渡す。……連れて行け」
「………。」
 発熱で染まった頬に、瞳が潤んで光っている。
 この三蔵が持って行ったレポートだったら、白紙で出しても優が取れるのかもしれない。
 立ち上がってもふらつく三蔵に、肩を貸した。
「で。どこまで連れて行けばいいんです?」
「F棟4階」
 寄りにも依って、敷地の一番離れた所に立っている棟だ。しかも4階。
「エレベータとか、なかったですよね」
「公共の建物とか、団地とか。4階、5階建ての多い理由を知ってるか?その階数までは、エレベータ設置義務がない。6階建てからは、エレベータがないと建てられない。エレベータは、設置だけでなく、継続したメンテが不可欠だ。昇降機のメンテ会社は優良安定企業だぜ……ナニしてる?」
「判りません?」
 僕は三蔵の前に回って、しゃがみ込んで背を向けた。
「さっさと負ぶさっちゃってください」
「俺は負ぶさらないぞ」
「そんなこと言ってると、日が暮れますよ。冬は日が暮れるのが早いですよ。第一、提出刻限過ぎたら、レポート受け取って貰えなくなりますよ」
「レポートは絶対に受け取らせるが、それでも負ぶさらないぞ」
「我が侭言ってると、抱っこしますよ」
「八戒、てめェもか!貴様等揃いも揃って、ナニ言ってやがる!?これ以上、俺に醜態晒させる気か!?」
 ……やっぱり、悟浄、抱っこしたんだなあ。
 ふうん。悟浄に抱っこされたんだあ。
 僕は、瞬間に湧いた凶暴な気分を、三蔵をからかうことにすり替えることにした。
「じゃ、自分で選んで下さい。大人しくおんぶされるのと、お姫様抱っこされるの。若しくは、自力で這っていって、階段の途中で力尽きて、通りすがりの親切な人にホケカンに連れ戻されるのとか。エレベータを夢見ながら行き倒れて、誰にも発見されないとか」
「………。」

 僕の背で、三蔵は大人しくなった。
 ずしりとした熱が、僕の背を、肩を覆う。首に回された腕は力無く垂れ下がり、肩口にうなだれた顔から、尚熱い吐息が首をくすぐった。
「三蔵?」
「ん。」
「怒ってます?」
「いや」
「……恥ずかしかったですか?」
「別に」
 負ぶさる人を揺らさぬように注意して、出来るだけ早足で歩いた。
「そう言えば、先刻。ベッドから窓の外見てましたよね。何か見えました?」
「ああ。…あそこだ」
 顔を起こして、三蔵が指を差した。
 中庭の植栽が茂る中、真冬の薔薇が咲いていた。黒々とした木の枝に、小さな赤い薔薇の花が、ひとつ、ふたつ…。
「あの向こう、非常階段の影…」
「?」
「……何でもない」
 言葉を途切らせ、三蔵はまた僕の肩に顔を伏せた。首に回る三蔵の腕が、ほんの少しだけきつくなったような気がした。

 階段を昇る。
 一段一段、確実に。
 足を踏み外さないように気を付けて、階段を昇る。
 どうしても上がってしまう息を誤魔化すように、公共の建物のバリアフリー化の遅れだとか、有酸素運動の継続の方法だとかを、話した。
 ぐったりと力を抜きながら、三蔵は僕の話に時折頷いたり、小さく笑ったりした。
 4階の目標の研究室の前まで来た時、三蔵は僕に、ここで下ろせ、と言った。
 廊下に自分の足で降り立った瞬間、三蔵はふらつきながら咳き込んだ。肩を支えようとした僕に、素早く掌を向けて、動きを制する。
 ドアをノックし、応えを待って入室する。ドアの閉じる瞬間、また三蔵が盛大に咳き込む声が聞こえた。
 
 ものの一分もしない内に、三蔵は部屋から退出して来た。
「失礼しました」
 低い声で言いかけ、またドアの閉まり際に咳き込む。
「三蔵、辛いんじゃないですか?」
 近寄り、肩に手を掛けた僕を、三蔵が振り返った。
 にやり。
 とても、嬉しそうな。悪い顔。
 ふらつく足で、可能な限りの足早で、部屋から離れる。
「……くっくっく。思いっ切り咳吹きかけてやった。ざまあ見ろ。レポートも、ヤツのデスクも、ウィルスだらけだ。研究室にも充満させてやった。採点しながら、苦しみやがれ」
「さんぞう…」
「アノ野郎、提出期限ぎりぎりになって、レポート形式変更なんかしやがった。手書き以外不可の分際で、掲示板の目立たない所に張り出しやがって」
「三蔵……」
「学生何十人分かの呪いだ。受け取りやがれ。くっくっく……」
 かなり熱が回ってしまっているのだろうと。
 そう受け取ることにした。

 三蔵を背負って、階段をゆっくりと降りた。
 ゆら、ゆら。
 どうしても揺れてしまう躯を、出来るだけ抑えながら降りた。
 途中まで質の悪い笑いを浮かべていた三蔵は、僕の背に揺られる内に、また静かになった。眠っているのかと思うと、時折首を傾げて、見知った人間から顔を隠す。
 僕の首筋や耳元に掛かる吐息は熱く、肩から垂れ下がる腕は、柔らかに重い。
「三蔵?辛い?」
「いや」
 熱い頬が、触れる。
 キャンパスを出て、真っ先に呼び止めたタクシーは、扉が開いた瞬間、籠もっていた煙草の匂いが拡散し、瞬時に三蔵が身を捩った。
「三蔵。電車で帰りましょうか」
 軽く揺すり上げて、三蔵の躯を背負い直した。
「……うん」
 人波よりも、少しゆっくりと。
 急いで部屋に帰って、休ませてあげたい気持ちと、この瞬間、僕に頼り切った存在である三蔵が嬉しい気持ちと。
 背の重みが、大事で大事で。
 うんと優しくしてあげたい気持ちと。
 心配をかけさせる人が、可愛らしくてしょうがない気持ちと。

 プラットホームで電車を待つ間に、三蔵がひと言だけ言った。
「…八戒。ごめん」
 いつもより素直な三蔵が可愛いと思う、なんてことを言える筈もなく。
「こちらこそ」
 聞こえないように、囁いた。



















 続く 







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