STAY WITH ME 10 
--- 雪花小片的物語 1 --- 


















「ナニコレ、邪魔」
「…え?」
 キッチンに置かれた椅子の脚に、足の指先をぶつけた悟浄が、涙を滲ませていた。
「ああ、邪魔と言えば、邪魔ですねえ。でも踏み台とかにもなるし」
「この高さの椅子を踏み台にってさ。天井裏にカップ麺のストックでもしてんの?ネズミに食われるぜ?」
「ネズミはいないと思いますけど…」

 キッチンの片隅、ほんの少しだけ足をはみ出させて、椅子が置いてある。
 木製の丸い座面、長い四本の脚。脚の中程には、横渡しの棒が2本。座ったときに足を引っかけるのに丁度いい。
 スツールと言った方が、イメージが近いだろうか。
 片足を引っかけ、もう片方の足を楽にぶらつかせることの出来る、背の高目な椅子。

 誰かが座るだけの、単なる椅子。
 ここにある必要は、ない。

 椅子にひょいと腰掛けて、悟浄が気付く。
「ああ」
 椅子の傍に置かれた、小さな硝子の灰皿。
「定位置な訳ね」
 読みかけのしおりの挟まった文庫本。
「ほんと、アンタ達って……」
 誰かが、ただ黙って腰を降ろす、それだけの為の椅子。
「………ヤメタ」
「自分から突っ込んで置いて、その言い種はないでしょう」
「いや、俺がバカだったって」
 ぷらぷらと、片足をぶらつかせながら悟浄はハイライトを取り出す。
「あ。灰落としたら、承知しませんからね」
「三蔵にもそう言ってんの?」
「当たり前です。キッチンにおいては、僕の言いつけが優先ですから」
「へーへー」

 紫煙が濃く漂う前に、換気扇のスウィッチを回す。ごく軽いモーター音。
 背中に気配を近く感じながら、正月らしいものを遂に食べ損ねたと訴える、大きな欠食児童の為に支度をする。
 薄目の吸い出汁に、そぎ切りの鶏肉を手綱にしたもの、結って切り揃えた三つ葉、彩りに小さな手鞠麩。毎年恒例の、大家さんの餅付きで付いたのし餅に焼き目を付ける。
 具はそれだけの、即席雑煮。
 先刻すれ違った悟空に、雑煮を作ると伝えたから、もしかしたらそろそろ…
「八戒ー。ね、ね、これ欲しい?」
 誰よりも軽快な足音で階段を駆け登る悟空が、元気に飛び込んで来る。
「お向かいさんが寄越してくれたんだけどさ!柚子!ナンカ大量になっちゃったんだって。家庭用のなんたらかんたらで土作ったら、すんげえ肥えたんだってさ。そんでタワワ!」
 手にした枝には、きれいな黄色の柚子がずっしりと揺れていた。
「……相変わらず、ナニがすげえのか判んねーよ、サル」
「家庭用の、コンポストで作った土が、ですかねえ…?」
 膨れる悟空は、それでも腕を突き出してくる。
「俺さ、柚子よりももっと食いでのあるものないの、って聞いたら、今度は里芋くれるって。だから柚子は八戒にやるから。でもって雑煮に柚子の皮の千切りって、合うよな?」
 にっこりと、期待に満ちた笑顔。
「雑煮、俺の分もある?今度里芋貰ってきたら、豚汁も作ってくれる?」

 特に用事もなく、ふらりと遊びに来た悟浄。珍しく、徒歩での散策の途中だったのだという。
「暇だったのよねえ。朝は車出したりもしたんだけどさ」
 お椀から、湯気と共に柚子の香りが、ふわりと上がる。
「…ああ。成人式」
「そ。振り袖姿をいちお、拝んで。会場まで車出してやって。…華やかっちゃー、華やかだったけどな。車に振り袖ムスメが3人載ってたから」
「豪華ですね。両手に花どころじゃない」
「両手と膝の上に花、だな」
 ぱくりと、悟浄は鶏肉を口に放り込んだ。
「…なんかさ、一々物言いがやらしいよな、エロ河童は」
 頬張った餅を、音を立てて呑み込んだ悟空が、箸で悟浄を指した。
「お迎えはいいんですか?女の子達、悟浄が来てくれたら喜ぶんじゃないですか?綺麗な着物姿の女の子、連れて歩くのもたまにはいいんじゃないですか?」
「冗談でショ?成人式なんてそのまま同窓会になだれ込むモンだし。第一、連れ歩くだけならまだしも、……振り袖だぜ?」
「はあ。」
「お前、女のキモノの着付けとか、直せる?」
 あ。
 着崩させることが前提なんだ。

 窓の外では電線が、北風に笛の音を鳴らす。
「じゃ。今日はもう運転はしないんですね」
 怠惰にこたつに潜り込みながら、雑煮をふうふうと吹き冷ます。
 籠には蜜柑と、きれいな柚子の、明るい黄色に葉の緑。
 冬の日差しは、深く差し込み部屋を照らす。
 昼日中から、大の男がぐうたらとだらしのない。
「…日本酒、行っちゃいます?」
 怠惰な気分を満喫する気、充分に、悟浄はにやりと笑って「いいねえ」と言った。

 こたつでは、悟浄と悟空が交互に大根をすりおろしている。喧嘩まじりで、仲がいい。
 僕はキッチンで厚焼き卵を焼き、なめこをさっと湯がき、しらすを冷蔵庫から出す。
 今日は日本酒一本勝負的、和モノおつまみ大根編。
 脈絡もなくそんな言葉を思い付き、にんにくバターで炒めようかと手に取ったあさりを、拍子に切った大根とあさり鍋にしたら美味しそうだと、お品書き変更。
 まだ昼間なのに、本当にお正月が抜けていないみたいだ。

 当然という顔で、悟空が自分のグラスを差し出す。
「今日だけですよ。本当にね」
「うん。今日だけ、今日だけ。臨機応変、臨機応変」
 暖かな部屋でこたつに入った悟空は、美味しそうに冷酒に口を付けた。
「珍しいじゃん、サルが四文字熟語使うとは。…にしてもなあ。食い物のラインナップが、ここまで酒呑み仕様じゃ、呑めって言われてるのも同じだと思うしなあ」
「ええ。自分でもそういう気がします」
 笑い合うと鍋から立ち上る湯気が僕の眼鏡を曇らせ、また三人で声をあげて笑った。

 年末年始に三蔵が観世理事宅から持ち帰った日本酒は、贈答用とあって流石に旨い。
『特になんもしてねえよ。たまたま昔から縁があったって、だけ』
 正月に挨拶に伺った時に、理事は手を振って否定していたけれど、お酒の入った立派な桐箱ののし紙に、建築会社だの不動産大手だのの名前が多かったのは…やはり動く金額の大きさか。
 …うちの大学、僕の在学中には、移転とかしないで欲しいなあ。
 のんびりと冷酒のグラスを傾けながら、そんなことをつらつら思う。
「三蔵」
 ふっくらと酒蒸しになったあさりと、味のしみた大根を突っつきながら、急に悟浄が声を出した。
「今日も理事んトコだって?親戚巡りとか言ってたっけ?」
「ええ…。三蔵の、じゃなくて、理事の、親戚の皆さんがお食事会なさるんだそうですよ」
「何で理事の親戚の食事会に…」
「『若くて見目イイ飾りが欲しい』って、理事は仰ってましたけど」
「………。」
 悟浄が鼻白んだ表情を浮かべる。
「…理事の、お父様の教え子が、三蔵の叔父さんだったそうですよ。よく理事のお宅と行き来があったそうですから、光明さんの養い子の三蔵に会いたい方や、三蔵自身と面識のある方も、多いんじゃないですか」
「…へえ」
「子供の頃からの三蔵を知っている方も、いらっしゃるのかもしれませんね」
「……へえ」
 自分の知らない三蔵を、知ってる誰かがいるのかもしれない。
 それは少し淋しいような気もするけれど、三蔵にそういう人達がいてくれると思えるのは、なんだか暖かな気持ちも湧いてくる。
 三蔵は、理事の所で楽しい時間を過ごしているのだろう。
 ほんの少し照れながら、仏頂面で相対しながら。

「子供の頃の三蔵って。アレだよな、アレ」
 珍しくゆっくりと卵焼きを食べていた悟空が、考え込みながら言う。
「あの、おばさんセレクトとやらの、着せ替えの頃の」
「あ?何だそりゃ」
 僕と悟空は、以前見た三蔵の子供の頃の写真やフィルムのことを悟浄に話した。
 焼き増ししてもらったDVDディスクは、三蔵に取り上げられてしまってもうないけれど、僕達の目には、幼い頃の三蔵が焼き付いている。
 生真面目な、幸せそうな子供の顔が。
 幼い頃の、七五三や古いドレスの三蔵の映像のことを言うと、悟浄は肩をひくつかせつつ、複雑そうな声をあげた。
「……そんなモノ着せられて、映像撮られて、それをヒトに見せられて……。あいつアレで、結構可哀想な育ち、してねえ?」
「同情を禁じ得ないというか、何と言うか」
 笑われながらの、僕達の同情なんて、三蔵はいらないんだろうなあ。
「…なあ」
 笑いすぎで滲んだ涙を拭きながら、悟空が言った。
「三蔵、何時に帰って来る?俺、すぐ三蔵に会いたい」
「そろそろ戻る予定ですよ。…ほら、丁度聞こえてきたみたいですよ」
 階段を登る足音に、悟空はぱっと顔を上げると、部屋を飛び出した。

オレを階段から突き落とす気か、この、バカ猿ーっ!
「痛えーッ!」

「………」
「………」
「今、弾けるような音しませんでした?壁に掌を叩き付けるような、……頭を叩いた音?」
「ああ。それにしちゃ、響いたけどな」
 理事の許で楽しい時間を過ごして来た筈の三蔵が、足を踏みならして自室に向かい、キッチンを通って部屋に入って来た。
 怒っている。
「胸くそ悪い!」
「…三蔵?」
「思い返しても、胸くそ悪い!」
「お帰りなさい」
「ただいまだ、八戒。あれ以上堪えられん、胸くそ悪い!」
 真っ赤な顔をした三蔵が、こたつにすぽんと入り込む。僕の手渡した冷酒のグラスを、何も言わずに一息で飲み干す。
「……ふ     っ」
「三蔵、落ち着きました?何があったんです?」
「ババァの親戚のヤツ等だよ。ヤツ等やっぱり全員血縁だ。ババァの拡大再生産だ」
 酷い言い方のような、そこはかとなく想像がつくような。
「最初はよかったんだよ。叔父貴の恩師とかいたし、オレも叔父貴の昔の話し聞けるのは嬉しかったし」
「はあ」
「酒が進んで来るうちに、オレの赤ん坊の頃を知ってるヤツが話を始めて」
「ああ」
「おむつ換えてやっただの、風呂に入れてやっただの。嘘だか本当だか判りゃしねえこと、言い出して」
「…はあ」
「『カワイカッタのよね、パルキーサイズで』なんて、何故にんまり笑いながら言う!?『そうだった、そうだった』なんて、合いの手が沢山入る!?」
「それは…」
「庭で転んでべーべー泣いてただの、オレの夜泣きで叔父貴が寝不足になっただの、でっかいティディベアにつぶされて死にそうになってただの、」
「何と言うか…」
 三蔵が突きだした空のグラスに、冷酒を満たす。
「自分で覚えてもいないことを、延々酒のつまみに話されて」
 ぐい、と。
 また一息に飲み干す。
「そのうち…七五三の話になって。実際にオレの七五三に全部付き合ったヤツもいたんだが」
 普通、5歳だけですもんねえ。
 七五三全部やる子供は少ないでしょうし、それに付き合う方も少ないでしょうねえ。
 グラスにまた酒を注ぐ。
「3つの時は赤のぽっくりだっただの、7つの時の簪が桔梗の花だったの…。ヤツ等全員が、オレの着物の色柄を知ってやがる」
「それって…」
「ババァだよ、ババァ。あいつ、前もって全員に……映像見せてたんだよ。オレがこの世から抹消したいと思ってるDVDディスクの存在、知られてやがる!それどころかコピー持ってるヤツまでいやがる!」
「お気の毒としか…」
「何の為だか判るか!?オモシロいからだよ!酒の肴に面白いからなんだよ!オレの過去を、酒呑みながら笑うつまみにしてやがんだよ!!」
 僕と悟浄、悟空は、目を見合わせた。
 つい先程まで、酒を呑みつつ話していたのは。
 悪いとは思いつつ、笑ってしまっていたのは。

「人を…人を笑いモノにして楽しむようなヤツ等…!オレも年の始めから笑いモノにされに行っちまったとはな…」
 もう何杯目だかわからないコップ酒を飲み干しながら、三蔵は呟き続ける。
 先刻の僕達のハナシは、永遠に秘密にしておいた方がよさそうだ。
 僕は、こっそりそう結論付けて、これから長く呑むのであろう三蔵の為の、つまみの支度に席を立った。

 キッチンの片隅の誰も座っていない椅子に向かって、漸く、僕はひとり微笑った。






















 続く 







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