◇ Pieces 2 ◇


−ORDINARY DAYS−




「個人的にちょっとした旅に出ますが、江流も一緒に来ますか?」
「勿論行きます!」

 師である光明に問われて江流は慌てて、余り嬉しそうになり過ぎないように返事をする。
 第三十代東亜光明三蔵法師サマをお伴もなしに旅になど出せようはずもない。誰かが付いて行くというのならば喜んで自分がお供をしたい。大体、この方は他人には妙にマメなのにご自分に関しては結構無頓着なのだ。自分がお守りしなくては。
 普段の職務の旅行は役職の上の者が従うので、江流がついて行けないことが多い。庇護者のいない江流に付け込もうとする輩も多くいる。しかし自分がお師匠様のご旅行について行けるのだと思うとそんなくだらないことなどすっかり忘れ果ててしまう。

「まあ、物見遊山と思ってくれていいですよ。仕度の手伝いをしてくれますか」
「はい!」

 江流の、自分で思っているよりずっと元気一杯な返事に思わず顔をほころばす光明。時折見せる子供らしさがなんとも愛しいと思う。自分のことは慕ってくれているが、他に対する態度はえらく無愛想なのだ。恐らく、ぶっきらぼうさと舌鋒の鋭さ、喧嘩っ早さはうちの山門随一だろう。古くから自分を知る人間にはよくからかわれるのだ。「若い頃の光明を見るようだ」と…。

「ま、昔のことです。昔の」
「お師匠様、何か言われましたか?」

 先を歩いていた江流に振り向かれてにっこりと首を振る。そして今度は口の中で言う。

「全部昔のことです」




 江流は初めて海を見た。

「なんて広い…」

 驚きにまともに口も利けない様子を光明はにこやかに眺める。ぐねぐねと続く山道を登りきったところで、急に目の前に海が開けるのだ。自分も初めてここに来た時にはその光景には驚嘆を覚えた。昔のことであるが。

「きれいでしょう」
「…はい」

 砂漠の中に点々とする交易都市、その中の囲われた寺院の限られた世界しか知らぬ自分が、江流には酷くちっぽけに感じられた。つい先日師と交わした会話が蘇る。

「自分の道を探しもしないのでは…」

 確かに自分は世間知らずも甚だしいのだろう。広がる海から来る風に髪を弄られて実感する。名を呼ばれて光明の指し示す方角を見ると島があった。狭い砂浜から細い橋が続いている。

「あそこです。もう一息だから頑張って歩きましょう」


 緑深い山の様に見えた島が近付くにつれ細部まで見えてくる。
…ナンなのだ、この断崖絶壁は…
 江流の顔がひきつってくる。ぐるぐると鳶が飛びまわる。すぐ真横をかするように巨大な翼が通り過ぎ、驚いて見ていると海面近くに浮かんできた魚を猛禽の足で掴み攫って行くところだった。鳶ってコワイ…。
 そして切り立った崖。そこかしこに走る亀裂。自分の踏みしめている大岩は…振り返り見上げると、崖の上部に色の変わった部分があった。何十メートルも落ちてきた岩盤。それなのに、この巨大さ。周囲にもごろごろしている。

「…お師匠様、ここ、もしかして危険なのでは…」
「ちょっとね」

 慌てて声の方向を見ると光明は別の大岩を乗り越えてどんどん先へと進む所だった。

「よっこらしょ、と」
「お、お師匠様、待って…危ないですーーー!」

 大岩は続く。小岩もある。剥落してきたらしい礫がそこいら中にある。亀裂を飛び越え、江流がひたすら光明の後を追って柵にしがみつきながら橋を渡っていると「あ、間に合わない」と声がする。と。
 大波が足元をさらい、濡れるどころか体ごと持って行かれそうになる。

「…お師匠様」
「今日は満月で大潮だったかな。潮もどんどん満ちてくるから早く行きましょう」

 江流は光明が嬉しそうにも見えるのに呆れると共に驚きを感じる。普段からにこやかな人ではあるが、はしゃぐことなど皆無な人だ。ひたすら穏やかで春の日溜りのような落ち付きを持っている人なのに…。
 ここが特別な場所なのか。まるで誰かが待っていてくれているような顔にも見える。余程、この島がお好きなのだ。否、お好きだったのだろうか…?一体何が目的の旅なのか聞いても、ただ笑うばかりで今まで答えてもらえなかったのだ。自分の知らない師の一面を垣間見て、嬉しさと共に寂しさも感じる。

「ここですよ、江流」
「ここは…」
「お墓です。私の古い友人がふたり、ここに眠っているんですよ」

 光明は穏やかな笑顔で、古びた石を見つめていた。しばらく無言で眺めると、墓石の前に跪き手を合わせる。…長い時間。江流が知る限り、光明が墓参りに海辺へ旅したことなどない。それだけ長い間来ることが叶わなかったのだろう。何年分、十何年分、もしかしたら何十年分もの話を墓の下の人達と交わしているのだろうか。
 江流が共に跪きながら見る光明の笑顔は切なそうにも、幸せそうにも見えた。


「時間というものは本当に優しいものです。どんなに悲しい想い出も、辛い出来事も記憶の底で安らいで行きますから」

 日向の岩に並んで座って、光明は煙管に火を移す。それは光明がまだ江流と幾つも変わらないような年代のことだったという。この島の小さな寺にいたのだと。同じ年代の友人と時を過ごしていたのだと。そして寺に出入りする若い村の娘とも懇意になり…友人は仏門の徒にあるべからざる感情に苦しんだのだと。教義を取るか、彼女を取るかの板ばさみで悩む彼の相談にものり、彼女にも相談を持ちかけられた。しかし…

「彼女は待ちきれなかったのでしょうね」

 煙管から立ち上る煙はすぐに海風にかき消される。光明は目を細めて煙ごしに光る海を見つめる。
 彼女は彼を焦らせようと光明を誘惑した。嫉妬に燃える彼は光明と諍う。そして刃物を持ち出したのだ…。凶刃は光明ではなく、光明を庇った彼女を襲った。そしてその友人はその場で崖から身を投じたのだ…。

「よくある三角関係ですね。でも、もっと違う結果が幾らでも選べたでしょうにね」

 優しい笑顔で話す内容に、江流は言葉を返せない。自分の知らない光明の過去も驚きではあるが、そんなにも悲しい過去をどうして笑顔で話せるのだろう。あんなにも優しい顔で。

「どうしてもね、ここに来たいと思っていたんですよ。江流を連れて」

 急に自分の名を出されて驚く。

「とても、とても大事な友人だったんです。ふたりとも。だからどうしても江流を見て欲しかったんです。一緒に来てくれてありがとう、江流」

 今はない、ふたりの友人に。絶望のどん底まで落ちた自分が、今は穏やかに笑えるのだと。大事に思う人物が出来たと。我が子とも思える程に、また愛情を持って生きているのだと。それがこの子である、と。
 血の涙を流すかとも思えた記憶よりも、信じ合って笑っていた時間のほうが今鮮やかに蘇る。
 伝えたい。若い時間を共に過ごした友人に。そして…自分の惹かれた女性に。

「そして江流、あなたにもここを見て欲しかったし。ほら、あそこ」

 光明の指す方を見ると青く光る背中の小鳥が翻る所だった。

「あれはイソヒヨドリ、あっちはアオサギ。キセキレイにアカエリカイツブリ。ユリカモメにセグロカモメ、オオセグロカモメ…。あ、あれも」

 嬉しそうに、目に入るものを全て数えて江流に教えようとする。江流が慌てて見まわすと、純白の鳥が海の上をくるりと回る所だった。そのままひらひらと飛んだかと思うと、急に海に飛び込み潜ってしまった。そしてまた海面から飛び出し空を目指す。海に潜って餌を取る鳥がいるとは、本で読んだことがあったが…。なんて小さな鳥が、なんて素早く…。
 真っ白な鳥は、光る海が映って青に染まっている。

「あれは、コアジサシ。ねえ?きれいでしょう」
「…はい」
「生きているものは強くて美しいでしょう」
「…はい」
「私が初めて江流の声を聞き、江流を抱き上げた時にもそう思ったんですよ。」

 江流は目を見瞠る。そんな江流の顔を見てまた光明は嬉しげに笑う。ちっぽけな赤ん坊がどれだけの重みに感じられたものか。自分の死にかけていた感情をその訴える泣き声で無理矢理生き返らせたものだったか。その暴力的なまでの力で、どれだけ今自分が幸せを感じているのかを、伝えることが出来るのだろうか、と…。

「なんせ、一度は死んでやろうかとも思いましたからねえ」

 爆弾のような発言に度胆を抜かれる。

「一旦破門されましたから。おおごとになったし。友人と同じ崖から落ちて死んでやろうかと思って。」

 にこやかな顔で、ほらここに、と自分たちの足元を指されて思わず後ずさる。

「でも諭されました。当時の和尚に。自分の今生は終ったと思って、新たに生き直しなさいと」
「俺はその和尚様にお礼を言わないといけませんね。その方のお陰でお師匠様に出会えたし、生き延びることが出来たんですから」
「ああ、いい考えですね」

 賛成してからふたり同時に「もしかするともうお墓の下にいらっしゃるのでは…」と言いかけてぶつかりあう。不謹慎な笑顔を見せ合って、それでも心から「ありがとうございました」と声に出してみる。空に向かって。


「ところで、実際問題としてかなり波が上がって来ているように見えるんですけど…」

 道を戻ろうとして江流が声をかける。久々のこの地に光明はきょろきょろと辺り中を見まわしながら進もうとするので、注意を促したかったのだ。

「そうですね、足場が無くなりかけてますし、急がないと…ほら、江流滑るから足元気を付けて」
「俺なんかよりお師匠様、前見てください、前…!」

 案の定、後ろを見ながら進もうとした光明はバランスを崩す。自分より重たい人間を支えようとした江流も一緒に…。へたり込んでずぶ濡れになったふたりに、更に波が襲い掛かる。日も暮れかけて、元の場所に戻るのが大変危険な行為に思えてくる。

「面倒臭いけど、やっぱりご挨拶に行かないといけないみたいですね。逃げ出そうと思ったんですけどねえ。やはり御仏のご意志には逆らえないなあ。さっきお話した寺に行きましょう。こっちが近道なんですよ。江流、さっさと上がっていらっしゃい」

 そう言うと光明は崖の真上を見上げる。同じ方向を江流が見ると、確かに煮炊きの煙らしきものが登っている。ここまで近くに来てご挨拶を端折る気だったか…、それだけの恩人のいる(いた?)寺なのに。…しかも登る気か?この崖を…!?まさかと止めようとする間もあればこそである。

「お師匠様、待ってください。!お墓に足をかけんでくださいーーー!」
「大丈夫。崩れないし、怒らないから。私の友人はそんなに吝嗇じゃありませんよ、江流。第一、ここが崩れたらお墓が埋もれてしまって困る」
 崖を登ることと、墓を踏み台にしたことを同時に返事され、悩む。そういう問題…なのだろうか。


 冷や汗をかきつつ登りきった崖の、すぐ近くにその寺はあった。かなり古びて小さな寺。しかし植栽の手入れも掃除も行き届いている。そして想像に反して…。

「お久しぶりにございます」
「なんと久しいことよ、光明。いや、今は光明三蔵法師どのであったか。ご立派になられたことじゃ」

 当時の住職は今だ現役でかくしゃくたる様子だった。びしょ濡れで泥だらけのふたりを見て楽しげに目を細める。

「昔のように笑っておるな。善哉、善哉」

 照れくさげに光明が笑って答える。

「はい。その節、和尚様がお留め下さり、お陰様で生きております。こちらに控えておりますのが私の弟子の江流でございます。さあ、ご挨拶なさい」

 前に出された江流が名乗り挨拶をすると、丁寧な返礼を受ける。

「そうか、そなたも弟子を取り、育てておるか」

 住職はとても、嬉しそうに笑いかける。

 ああ、お師匠様と同じ笑顔だ…
 江流はそれに気付き、穏やかな人達の遥かな過去を思い返す。時間というのは優しいものだという、光明の言葉と共に。


 質素ながらも心づくしの食事で、光明と住職はささやかに再開を祝う祝杯をあげる。江流も呆れながらも伴酌に預かるが、すぐに顔が赤くなり大人ふたりにからかわれる。笑われても楽しいこともあるのだと、江流は初めて知る。いつか自分もこの方達のように飲み語り明かせる友が出来るだろうか。

「安心しなさい。いつかいい友人が出来ますよ。私も江流と飲み明かせる日が近そうで楽しみですよ」

 本当にそうだろうか。そんな日が訪れるのだろうか。それは、とても楽しみで…
 開け放つ窓から覗く満月の光りを浴びながら江流は眠りにつく。

「まだ幼いのう」
「ええ。それだけに楽しみでしょうがありません。どんどん伸びやかに育っていって欲しいものです」
「そうか」
「この子には自分の持てるもの全てをやれるものならやりたいと思っています」
「そうか」
「優しい、優しい子です。どんなに辛いことも、悲しいことも、逃げ出さない強さを持った子です」 

 住職は光明をじっと見つめる。

「わしも歳じゃ。この次に合間見えることは叶うまい。間に合ううちに会いに来てくれて嬉しい。ありがとう、光明」
「はい…。遅くなりました。私は…ここに来る強さもこの江流に貰いました」
「そう…。そなたによく似た強いよい子じゃ」

 そう言うと、手を伸ばし、くしゃりと光明の髪を撫でる。

「そなたの育てた弟子に会わせてくれて、幸せじゃよ。ありがとう光明」
「はい。やっとご恩を返せました」

 月が沈むまで、大人ふたりはゆっくりと杯を交わしていた。


 翌朝、まだ日の登りきらぬ時間に出立になった。清しい空気が朝霧と共に潮と濃い緑の香りを連れてくる。光明は惜しむかのようにゆっくりと山門を眺め、やがて背を向けた。

「さあ、行こうか、江流」
「そなたら、昨日は裏の崖から登って来たのか?今年はあそこにハヤブサが巣をかけていたはずじゃが」
「ああ、そう言えば下に鳩の頭が落ちていました」
「ああ、やはり」
「ハヤブサは食べる時に頭落とすんですよ。江流気付かなかった?落っこってたでしょう」

 …気付きませんでした。

「突付かれなくってよかったですよ。さすがに危ない」
「そなた昔からやんちゃ坊主だったが…今でも変わらんか」

 笑い合う光明と住職。…そして…


「行ってしまったか、光明。そして江流」

 ひとり残された住職は静かに独語する。
 御仏よ。どうかあの者達に御加護を。
 あの子達がどうか健やかに、心穏やかに過ごせますよう、お守りください。人生の厳しさを避けることは不可能とは判っているけれど、どうぞあの子達が立ち直れないような出来事に出逢わずに済みますように。

「いや…」

 何があっても立ち直れる強さを、お見守りください。そう、思い直す。

「あ、来たか」

 弾丸のようなスピードの物体が近付くので、崖下に向かって声をかけてやる。

「ハヤブサが来たぞ。頭だけは庇うのじゃ!」

 お師匠様!という悲鳴が聞こえたが、住職は笑っていた。
 気を付けてお帰り、と。












to be continue

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