STAY WITH ME 3 
--- 慢性的蜜月物語 6 --- 



















「そんなに遅くならないようにする」

 その言葉が、どうにも頭から離れないままだった。

 別に特別なことを言った訳じゃない。
 「カラオケに行くけど、そんなには遅く帰らないよ。でも行って来ます」くらいの意味だ。もしくは「行っちゃうよ。とにかくオレは行くんだよ」という宣言。
 それがこんなにどきどきするくらいに聞こえるっていうのは…

「遅くならないように帰ってくるから、待ってて」
「本当はオマエのところにいるのが当然なんだけど」

 …って、遊びに行くことを、僕から認可貰う様なニュアンスを感じてしまったからなんだ。
 自意識過剰。
 きっとそういう状態なんだろうな、今の僕は。でも、そう聞こえたんだ。

  『ボクノダカラネ、
   キミハボクノダカラ、ハヤクカエッテクルンダヨ』

 そう思ってしまったんだ。

 食べ残しをスクレイパーでこそげる。熱い湯の桶にどんどん皿を入れて行く。泡のスポンジで汚れを落としたら、また熱い湯ですすぐ。熱湯から籠ごと引き上げた皿を、乾いた布巾できっちりと拭きあげる。
 夕食の始末で、僕と悟浄はそういう作業を数回繰り返していた。カップも皿も、拭くたびに「きゅ、きゅ」と音を立てる。かなり気分がいい。

 奥さんはプライベートルームでぎっくり腰のオーナーと共に夕食を摂って休んでいる。なにせ6ヶ月目の安定期ではあるが、身重な奥さんのこと…。
「オーナーが倒れて張り切ってる分、疲れも溜まっているだろうから」
 と、今日の片付けと戸締まりを悟浄が全部引き受けたのだ。…当然、僕も付き合わされるってことなんだけど。

 グラスは最後に熱湯に通して、布巾に伏せる。食器を全て仕舞い終える。使用済みの布巾は全て消毒液につけ込んだ。ドリンク類の在庫も確認、ゴミの始末オーケイ。火の元の始末も、メインエントランス以外の鍵は全て閉まっている。

 それらの全てを確認し終えて、僕たちはロビーのソファにひっくり返った。
「うああっ、やーっと終わったぜ。八戒お疲れサンっ」
「中々立ちっぱなしってのは重労働ですね。…奥さん疲れてそうだったんですか?」
「あー…。人妻だけどさ、あんよの綺麗な奥さんなんだわ。そーれがどうも足むくませてるみたいでさあ。勿体ない。ヒトのものとはいえ、実に勿体ねえ事態になっちゃってたんだわ」
 憎まれごとのひとつでも言ってやろうかと、最初は思った。でも悟浄の場合、正面切って文句を言っても受け流すだけだから…彼の善行を仄めかす。そうすると気の毒なくらいに嫌がるんだ。彼の場合。それで、全部冗談で済ませようとしてしまう。普段の、女の子に対する見え見えの優しさも、却って照れ隠しがそうさせているのかも知れない。
「…僕は、綺麗な足鑑賞し損ねてますからね。自分だけイイモン見てるんだから、ビールくらいはおごって下さいね」
「はいはい、ビールなんざーお安いもんでございますよ」
 悟浄はフットワークも軽く缶ビールを運んできた。冷蔵庫に入っていた半ダースのパックをそのまんまと、乾きもの。自分用に大きな灰皿。
「…結構いっぺんに持ってきましたねえ」
「ま、カラオケ組もまだまだ帰って来ねえだろ?それまでのんびりここで待とうや」
 僕たちはエントランスのドアと、壁に掛かった時計を見る。
 夕食が7時。三蔵と悟空と女の子達がカラオケに出掛けたのが8時。只今9時半。一応、戸締まりの問題があるので11時前には帰って来て貰うことにはなっているけれども、果たして何時頃になるのやら。

「そんなに遅くならないようにする」
 また三蔵の言葉が頭に浮かぶ。

 天候のこと、ゲレンデのこと、スノボをやりたがっていた悟空のこと、オーナーのぎっくり腰のこと…。ビールを飲みつつ、笑いながら話す。ハイライトの残骸と、空缶の数が段々増えてくる。
 悟浄はハイライトのパッケージを軽くふると、飛び出した煙草をくわえる。そしてライターの上下を三本の指で挟むように持つと、手首をくるりと返した。かしんとジッポの蓋が弾かれたように開いて、それと殆ど同時に火がつく。
「…これ、練習したんだよなー。中坊の頃」
 僕が、にやりと眺めているのに気付いた悟浄が言う。手を伸ばして、ライターを受け取る。
「…僕も練習しましたよ。やっぱりそれくらいの頃」
 僕も同じようにくるりと手首を返して火をつける。これを流暢に出来るように練習した頃を思い出す。
「前は吸ってたの?」
 悟浄がパッケージから一本煙草を飛び出させ僕の方に向けて来たので、抜き取り火をつける。ゆっくりと吸い込むと…久しぶりの煙草はかなりきつい。
「もう、吸えませんねえ。悟浄のはきついし。僕は軽目のメンソールをたまに貰い煙草するくらいでしたから」
「ナニ?女の?」
「…ええ」

 僕は祖母に育てられた。愛情深い祖母だった。充分可愛がられて育った。そして充分放任もして貰った。世間一般の「反抗期」の時期になった時、祖母は僕にアルバイトの許可をくれた。

「私はお前を可愛がることは出来るが、男の子が大人になる時に乗り越える『父親』になることは出来ない。お前を信頼するから、自分で大人の世界も見ておいで。色んな人と付き合っておいで。自分の信頼するに足る人に出会えるようにおなり」

 僕はといえば、その頃は家でも学校でも優等生だった。優等生の上っ面の下で、穏やかな生活にどんどん冷めて行く自分に気付き、密やかな苛立ちが溜まった、かなりひねくれた子供になりかけだった。祖母には、まさしく僕の反抗期を見抜かれていた。
 ひょろひょろと背ばかり伸びた僕は、一見年齢不詳なのを良いことに年齢を偽って夜のアルバイトを捜した。今思うとかなりストレートな反応だけど、子供の枠にはめられたままでいることだけは嫌だったのだ。バーの店員として雇われたことを報告した時にも、祖母は苦笑はしたものの止めることはしなかった。
 15歳の僕は、昼間の自分と、夜の自分に満足していた。

 バーでは色んな大人を見た。マジメな人。酔っぱらい。嘘つき。泣き虫。虚栄心の強い人。優しい人。「乗り越えるべき父親」の代わりになるような人には出会えなかったけれど、沢山の女の人と出会った。陽気な女や、執念深い女。計算高い女や、可愛らしい女。

 そんな中で、悲しくて疲れた女の人達が一番優しいことを知った。
 年齢を偽っても、僕が若いということはひと目で解ってしまう。それをからかったり、羨んだりしながらも「可哀想だ」と言ったのは、悲しい女の人だった。傷の付きやすい心を憐れんだのも、疲れた女の人達だった。
 僕もそんな女の人達には優しくした。慰めが必要だと思ったら、慰めてあげた。慰めてあげながらも、慰めて貰っていたのだと思う。だから僕は、愛情を覚える前に、慰める為に躯を重ねることを覚えた。欲望よりも、ツールとしての自分の肉体の価値を知った。

「…優しいから彼女たちを慰めてあげたんじゃなくて、単に『水をくれ』と言われて、手渡す…みたいな。僕は女の人とはそういう付き合いしかしたことがないんですよ。…でも『父親』みたいな対象には出会えなかったけれど、女の人達のお陰で、僕は大人になったのかも知れませんね」
「…女に敵うヤツなんかいねーよ」
 ハイライト一本分の時間、僕はぽつぽつと自分の話をした。雪に閉じこめられた世界は、時計の秒針の音しかしない。

「なあ」
 新しい冷えたビールを開けながら、悟浄が僕を見ないまま言った。
「お前、三蔵を…抱きてえの?」
「ははは。ストレートですね。…うううううん、どうでしょ?」
 僕はソファに寄り掛かり思いっきり伸びをした。

  大事な、大事な人
  とても綺麗な人
  僕が傍にいることを望む人
  僕も傍にいてくれることを願う人

  …僕の、只ひとりの人

「…優しく、優しくしたいんですよ。大事に守りたいんですよ。…傷付けるようなことは…したく、ありません」
「でも、お前。本当に……惚れてるんだろ?」
 僕は顔を上げて、正面から悟浄の目を見た。言い出しにくそうな彼の顔。でも真剣な表情。
「ええ、惚れてます。男ですけど。世界中でたったひとりの、僕の大事な人です」
「そ…っか。いや、前に煽るようなコト言っちまったけど。マジそうか」
 悟浄は、うんうんとひとりで頷いている。
「今まで結構冗談で紛らわせようかとも思ってたんだがな。でも惚れちまったもんは、惚れちまったんだ。相手が男だろーが女だろーが、同じだーな」
 悟浄はビールを一気に空けると、深呼吸をした。僕も、気付くと掌が少し汗ばんでいた。…そういえば、三蔵本人以外の人に、はっきりと自分の胸の内を伝えたのは初めてだった。カミングアウトという奴だ。そんなことを思い付いて、ふうっと大きく息を吐いた。

「…そう。大事にしたくて、どっかに大切にしまって置きたくて。誰にも渡したくない、僕のものだって…そう思って…」
「じゃ、尚更さ!…アレじゃんか。独占欲とかってさ、抱きたいって思いに通じるんじゃねーの?」
「そうかもしれませんけど。今のところ…えー…キスくらいしかしてませんし。非道いことはしたくない、です」
「俺さあ。俺が欲張りなだけなのかもしれないけどさあ。抱きたくなんねえ?ってか、抱いてもいいんじゃねえ?非道いとか、非道くないとか、自分で決めちまわねえでさ、三蔵に当たってみろよ」

 三蔵を抱きしめて、接吻ける。ひたすら優しさを与えることが喜びだった。彼もそれを受け取り、そしてまた愛情が返って来る。子供のように、まっすぐな愛情と情愛。
 彼にそれ以上を望んでいいんだろうか。

「本当に…。悟浄も観世理事も、揃って人のことを煽ろうとするんですからねえ。優しいんだか、面白がってるんだか、判ったもんじゃないですよ…」
「……まーな。俺も他人のことにヘンに口突っ込み過ぎだあな」
 悟浄はくわえ煙草で、がしがしと頭を掻く。最近知った、彼の癖だ。まだるっこしさに苛立ったり、照れ隠しする時の、彼の癖だ。

 真剣に人のことを心配してくれてる時に出る、彼の癖。
 僕は、悟浄が本心から優しい人間だということを知ってる。彼が、他人の痛みを感じることの出来る人だということを、判ってる。
「…嘘ですよ。ありがとう、悟浄。心配してくれて。…ちゃんと真面目に考えますよ」
「……だから、考える、ってアタリがなあ…違うと…」
「え?」
 膝の間に頭を抱え込んでしまった悟浄に話しかけようとした時、エントランスのドアのカウベルの音がした。

「たっだいまー!寒かったー」
 嬌声と共に帰って来た女の子達の後から、悟空と三蔵が入って来た。まだ10時を回ったばかりだ。
「お帰りなさい。結構早いですね。天気どうです?」
「そう!それそれ!!止んで来たんだぜえ!俺、明日はスノボする!!」
 カラオケで発声練習して来たせいか、悟空も女の子達も声がワントーン高いままだ。一番後から室内に入って来た三蔵が、ジャケットを脱いでいた。それを受け取ろうと手を差し出すと、彼は僕の目を見る。
「…ただいま」
「お帰りなさい、三蔵」
 三蔵の瞳が、悪戯そうに輝く。

  『ホラ、チャントカエッテキタロウ?
   オマエノトコロニ、チャントモドッテキタロウ?』

 そんな声が聞こえた気がして。
 そして僕はどうしようもなく気付いてしまった。この人を何処にもやりたくなくて、僕だけのものにしたい自分に。今までこの人と一緒に過ごしていた女の子達や、悟空にすら嫉妬しかけてる自分に。
 今みたいな顔を僕以外の人間にも見せるんだろうかと思った瞬間に、ちくんと痛んだ自分の心に。

「…八戒、どうした?」
 三蔵が僕の顔を覗き込んだ。近付く顔の、目や、唇や、顎のラインに急に意識が囚われる。
 うわっ、どうしよう。…人前なのに、接吻けたくなってしまった。というか、余計に見せつけるように、接吻けたい衝動にかられてしまった。

「な、何でもありません。じゃ、僕は向こうで用事が…」
 急に顔を赤らめて去る八戒を、三蔵は首を傾げて見送る。
 そしてそれを見た悟浄は、新たなビールを開けてひとりごちた。
「ナニ?あれは。もしかして俺はまた余計な心配してただけか?」
 ちょっとした安堵感と、同時に面白くなさも感じた悟浄は、急に人の悪い笑みを浮かべた。
「…じゃあ、真剣に煽ってやろうじゃんか」

「ああ、危なかった…」

 僕は頭を冷やそうと、ひとり、風呂に入っていた。
 悟浄が電話で言っていた、家族用のこぢんまりした露天風呂だ。お客さんの利用は時間ごとに割り当てられていて、今日の分の予約は済んでいた。黙って入ってしまったが、その辺は「従業員」の役得だ。掃除も済ませてあったが、綺麗に使えば大丈夫だろう。
 岩で囲まれた小さな露天風呂。元々周囲の建物とは離れているし、竹垣と四阿の簾で囲まれていて人目を気にする必要がない。竹垣の内側には、雪に埋もれ掛けた小さな植え込み。熊笹の緑と万両の赤が、雪の色に映えていた。

 熱い湯と、しんと冷えた空気が気持ちいい。僕はゆっくりと手足を伸ばした。
「悟浄に言ったばかりで、我ながら恥ずかしいですねえ」
 口に出して言ってみる。大事に、大切に、優しく。その気持ちには全く嘘はない。なのに同時に激しい独占欲と所有欲を感じてしまった。そして僕にはその権利がある筈だと思ってしまった。
「なんだか、醜いですよねえ。…恥ずかしいくらいに」

 悟浄はなんと言った?「非道いも非道くないも、自分で決めずに三蔵に当たれ」だったか?彼は僕の欲望を肯定したのか。僕が自分ひとりで納得してないで、ちゃんと三蔵にぶつかれと言ったのか。
「でもねえ。それにしても…醜い感情だなあ…」
 僕は自分自身にうんざりした気分になる。熊笹に積もっていた雪を掴んで、自分の頭の上に載せる。少しはコレで冷えないもんかと思って。

「なんだ?オマエ寒くないのか?」
 急に間近に三蔵の声を聞いて、僕は飛び上がった。
「ひとりで抜け駆けしやがったな?悟浄に聞かなかったら、露天風呂があることすら知らないままだったじゃねェか。オマエがひとりで風呂に行ったみたいだって聞いて…、あ、雲が切れて星も見えるな。…牡牛座だ。『星は、すばる』って奴か」

 ……ごじょう
 絶対に許さないですからね

 僕の内心を知らぬ佳人は、お湯をかぶりながら嬉しそうに星を数える。

「もう双子座も昇ってるんだな。いつでも一緒のカストルとポルックスか。…少し羨ましいかもな。八戒、どっちが兄でどっちが弟だったか知らねェか?」
















 続く 







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