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STAY WITH ME 3
--- 慢性的蜜月物語 2 --- |
数年前の春に見た光景を思い出した。気の早い桜がほころび、散る。大学の入学式で、全員が講堂に集まり、学長や理事達の祝辞が始まり…。
そんな中でも三蔵は目立っていた。
美貌に振り向く学生も多かった。多くの視線の中心で、誰にも目を向けず、誰からも声をかけられるのを憚られるような雰囲気だった。
偶々、僕は隣に座っていて…。真横の人物の顔をマジマジと見るわけにも行かず、それでも椅子から立ち上がったり座ったりという合間に、視線が向かうのが避けられなかった。
そうだ、あの日初めて三蔵を見た。観世理事も…。
「…おい!焦げかけ!!」
「あっ…と。うーん、きつね色というには濃くなってしまいましたね。たぬき色くらいかな」
「大丈夫、食える。もうこたつに持って行っていいんだろ?」
「バター先に塗っててくださいね。熱々のうちに塗らないと」
僕たちはキッチンで昼食の準備をしていたのだ。ちょっと可愛らしくホットケーキと、オプションでボイルしたソーセイジ・絞り立てのオレンジジュース。紅茶の蒸らし時間を知らせる砂時計が、もうすぐ落ち切る。
僕は手早くフライパンを洗うと、ティーセットを載せたトレイを運んだ。
「あいつにはイロイロ酷ェ目に合わされてんだよ。それこそ子供の頃から」
紅茶をお代わりしながら三蔵は言う。ホットケーキはあっという間に無くなった。上品な食べ方なのに、素早い。和食の時でも流麗な箸捌きで大皿から大量ゲットして行くし。
「オレの両親が、小さい頃事故で死んでな。で、母方の光明叔父がオレを引き取ったんだ。…まあ、ややこしい家系でな。一族から浮き気味だったのが、母と叔父だったんだ」
あの億ションの持ち主…。ややこしい家系の一族…。なんだか凄そうですねえ。
「叔父の昔からの親友とかで、子供の頃からよく会ってたんだ、理事とは。叔父とひっついて日本と海外行ったり来たりしてたから、進学に当たって帰国子女枠で理事の所に放り込まれた、って関係か」
「はあ、帰国子女…。美女理事。…三蔵の叔父って、ナニモノだったんですか…」
「いや、まあ…貿易とか…イロイロ…。昔はそう誉められたもんじゃない仕事もしていたそうだけど…。オレを引き取ってからは、海外に学校作る働きかけとかしてたんだが、その前はちょっと…」
謎だ。三蔵を育てた人物。…そして理事。一体幾つなんだろう。
式が進み、多くの理事や議員の祝辞が終わりかけていた頃、講堂の後ろから観世理事がまっすぐ進んで来たのだった。ハイヒールの音が高く鳴り、教授達の席のど真ん中を過ぎ、そのまま演台へと向かう。高まるざわめき。
観世理事は祝辞を述べる議員のマイクを横取り、講堂を見回した。艶やかなロングヘアーと、式典に相応しい黒のフォーマル。重々しい講堂の緞帳が、ライトを浴びる彼女を引き立てていた。
…そしてルージュとヒールと同じ色が彼女から滴っていた。
「途中から失礼。理事の観世だ。諸君らが勉学と遊びに勤しむことを期待する。以上、私からの式辞終わり。以下呼び出し」
それまで凛とした声だった理事が、叫んだ。
「三蔵!」
急に騒然とした雰囲気になった席で、僕の隣の人物が立ち上がる。血の気が引いて真っ白な顔。理事がまっすぐに駆け寄る。
「三蔵。事故った。…奴は病院だ」
周囲の学生のざわめきに、その声はかき消される寸前だった。近くで見る理事は、髪にもフォーマルにも、赤いものがついていた。出口に向かうふたりに、視線が集中した。
「式典を続ける。静粛に。静粛に!」
スピーカーの声はむなしく響く。
「何、アレ?…若い愛人?」
彼女が血塗れなのが見えなかったのか、少し離れた席の学生がふざけた事を言った。
「オラ、静粛にっつってんのが、聞こえねーの?」
三蔵とはまた違って目立つ、空席の向こう側の学生…。深紅に染めた髪を後ろでまとめた学生が、よく通る声でぴしゃりと言い放つ。血相を変えた相手に、続ける。
「オレ、この娘口説いてる最中なのよ。静かにしてくんないと、ムード出ないでしょ」
隣の女の子の肩に手をかけたままで、にやりと笑ったのは、悟浄だった。
そうか、悟浄にはこれで最初から好感持ってたんだった。悪目立ちし過ぎだったけど。
そして、車窓に映る三蔵の顔に、また別の記憶が蘇って来る。
式典の数日後だった。丁度これと同じ電車で三蔵を見たのだった。理事の許へ向かう途中だったのだろう。
三蔵は、喪服だった。
空席の目立つ真っ昼間の電車内で、只ひとり立っていた。
無表情なままで、涙だけが流れていた。
「都会の人情は冷たい」とはよく言うが、誰も三蔵を注視しない。
それは冷たさではなく、思いやりだった。涙を流す見知らぬ人への、最大限の思いやりだった。邪魔しないことが。
三蔵はガラスに向かいながら、涙を流し続ける。
僕は、車内の誰もが気にしながら見ない振りをしている三蔵が、気になった。先日の蒼白な顔を思い出していた。
ドアが開き、三蔵は降りた。そのまま、ぐらりと傾きかける彼に、僕は思わず駆け寄った。学校のひとつ手前の駅だったが、そんなことはどうでもよかった。
倒れる寸前の彼の腕を、ぎりぎりで掴む。
無表情な彼は、呆然と「すいません」と声を出した。僕の方を見ていたけど、誰も見ていないような顔だった。
胸が掻きむしられるようだった。
僕は何もいわずに、三蔵の腕を取ったまま歩き出し、改札口を通り抜ける。三蔵は呆然としたままついて来る。そのまましばらく歩いて、小さな公園のベンチに彼を座らせた。
「ここ。茂みがあって誰からも見えませんから!僕は読書中ですから!」
ベンチの端と端に座って、僕は躯を背ける。読み終わって鞄に入れっぱなしになっていた文庫本を広げる。
三蔵は暫く中空を見たまま涙を流していたが、やがて両手を顔の目の前に持って行き、嗚咽を漏らした。
低く堪えた嗚咽。
それは長く止むことはなかった。
目線は活字を追いながら、僕は全身で隣の人物の慟哭を感じていた。
『三蔵!』
先日聞いた彼の名を、繰り返し心の中で呼んでいた。泣いている人の心に届けばいいのに、と思いながら、何度も何度も読んでいた。
「このベンチだった。ここでオレはやっと泣くことが出来た。知ってる人の前では泣けなくて、たったひとりでも泣けなくて、あの時オレは途方に暮れた様な気分だった。そのまま悲しさで押し潰されそうだった」
もう片方の手も差し出してくるから、僕はその手を取る。
「あの日、何も言えなかった。…何日もして大学で出逢ってからも、オマエはずっと知らん振りしててくれた。今まで何も言えなかった。…ずっと言いたかった…」
繋いだ手に、力がこもる。
僕もそれに応えて握り返す。
「…ありがとう。あれからずっと思ってた。あの時泣けなかったら、ずっとずっと泣けないままだったと思う。オマエがオレを救ってくれた」
引き寄せられて、首に腕が掛かった。
ぎゅうっ
思いっきり力を込められる。
「…ありがとう、な…」
笑い声で三蔵は言った。僕はあの時の声が届いていたのかもしれないと、思った。