STAY WITH ME 3 
--- 慢性的蜜月物語 13 --- 

















 夕日は沈み、空は透明なまま暮れて行く。
 宵の明星まで、手を伸ばせばもしかしたら届くかもしれない。
 そのくらいに透き通った夕空。
「トロトロしてるとマーケット間に合わねェぞ!」
「大丈夫ですよ。8時か9時まで開いてますから」
「それでも早く!」
「はいはい」
 インクを溶かしたような透明な夕暮れ、僕は自転車を漕ぐ。ハンドルには、前向きに浅く腰掛けた三蔵。
「前、全部は見えないんですからね。障害物があったら早めに言ってくださいよ!」
「判った、判った」
 足をぷらぷらとさせながら、三蔵が答える。
「免許の切符切られちゃうんですからね、お巡りさん見つけたらサッサと飛び降りてくださいよ?」
「いたら教えるから走って逃げろよ」
「ふたり乗りじゃ、絶対に追いつかれますもん。僕ひとりで逃げちゃいましょうか?」
「切符切られるの、漕いでるヤツだけなんだろ?」
「じゃ、運転交代」
「やーなこったー」
 憎たらしいことを言うのでわざと段差の有るところを選んで走る。
「この!痛ェよ!」
 楽しくなってスピードを上げる。
「こういう映画あったよな?ずっと逃亡してるヤツ」
「ニューマンとレッドフォードの…」
「『明日に向かって撃て!』!!」
 僕たちは同時に言った。
「僕の祖母が好きでしたよ、ポール・ニューマン。レッドフォードも好きだったみたいだけど」
「オレは叔父貴がキャサリン・ロスが好きだって言うから、再上映の度映画館付き合わされた」
「自転車の前に座ったキャサリン・ロスのスカートが、花みたいに広がるんですよね。三蔵もスカート履く?」
「莫迦、やめろ。俺はニューマンの役のがいい」
「じゃ、やっぱり交代してくださいね」
「後ろ向きで自転車漕ぐぞ?」
 牧草の坂道を転がり落ちる自転車の勢いで、僕たちはハミングしながら走った。

 マーケットに着いてもまだ僕たちははしゃいでいた。
「あれ、メシ食うシーン出て来たよな?ナニ食ってたっけ?」
「うー。覚えてないです。アメリカだから…豆?豆、食べます?」
「サンダンス・キッドは美食家なんだよ。もっとイイモノ食わせろ」
 いつの間にか三蔵はレッドフォードになってしまったらしい。サンダンス・キッドが本当に美食家だったかどうかは判らないけれど、目の前の人物はかなり無法者めいて来た。
 僕の持つカゴにポンポンとフルーツが投げ込まれる。オレンジにグレープフルーツに苺にキウイフルーツ…。バゲットにハムにスモークサーモンにチーズを幾つか。僕がペーストを手に取っていると「レバーペーストは嫌だ。アンチョビの方がまだいい」なんて、我が儘まで言い出す。
「なあ。牛タンシチューが食いたい」
 僕は呻く。
「あれ、時間かかりますよ。飢え死んじゃいますよ。待ち切れなくなっちゃいますよ」
「じゃ、明日の晩飯な」
 そう言うとタンを放り込み、とどめに牛乳の1リットルパックをどさんとカゴに突っ込む。三蔵はそのまま悪戯そうに、目を輝かせた。
「どうした、重たそうじゃねえか?後は俺にワイン買ってくれるんだろ?シャンパンにしてくれるんだったら、メシは時間のかからないものでも全然構わないんだがな。おい、先刻オレを振り回した勢いはどうしたんだよ。この荷物なんかオレより全然軽いだろうが?頑張らねェと……あんまりもたもたしてると、オレの気が変わるかもしれねェな…?」
 僕のきれいな無法者は、そう言うと嬉しげにワインコーナーまで僕を先導した。

 三蔵はボトル2本を抱え込て上機嫌だった。
 ヴーヴ・クリコとテタンジェを両手に持つ三蔵に、片方は断念してもらい、スパークリングワインのカヴァを追加する。果物を絞ってカヴァのカクテルでも作ろう。
 行きはよいよい帰りは怖いの見本で、上り坂、ワインを抱えた三蔵と大量の食料品が引っ掛かったハンドルは、滅多やたらと重たかった。渾身の力で漕ぐ僕に、三蔵は時折意地悪そうな笑顔を見せる。
「頑張れ」
「もうちょっとだ」
 返事も出来ないくらいに必死になっているのに、こんなに嬉しいのは何故だろう。

 脈絡もなく、先刻とはまた別な映画音楽が思い浮かんだ。
 歌いながら、傘を差して、タップダンスを踊る男。大好きな人を家まで送り届けて、幸せな気分で、天にも昇りそうなタップを踏んでいた。雨音も、水たまりに踏み込み跳ねる水音も、全てが天上から聞こえる音楽みたいに感じられる…そういうタップと歌。
 今、雨が降ってる訳ではないけれども、多分その男に負けず劣らず僕は幸せを感じてるんだろう。自転車のチェーンの音も、三蔵の腕から聞こえる瓶の触れ合う音も、自分の必死な呼吸音も。全てが僕の耳をくすぐる音楽みたいだ。それであの歌を歌い出したくなってるんだろう。
「見えてきたぞ」
 灯りを点けたままにしていた、部屋の窓が見えた。

「腹減った!」
 帰宅後の僕たちの第一声。
 真っ先にワインを冷蔵庫に寝かせ、牛乳をドアポケットに突っ込む。オレンジとグレープフルーツを籐カゴに放り込み、苺とキウイを洗って、ボウルに入れて冷やす。オニオンスライスを水にさらし、トレイにチーズを切って並べ、レタスとスモークサーモンを皿に盛る。
 後は、食べる時に好きな厚さでバゲットとハムを切って焼けばいい。そこまで整えたところで、髪を拭きながら、三蔵がバスルームのドアから出て来た。白のコットンシャツに、滴がぽたりと落ちる。
「交代」
 三蔵と僕は空で手をパンと合わせる。
「じゃ、適当に皿やグラスお願いします。ワインクーラーはもう充分水吸ってますから」
 シンクに置いてある、素焼きのクーラーを指さして言った。
 入れ替わりで入るバスルームは、まだ三蔵のシャンプーの残り香がある。思いっきり捻ったコック、勢いよく溢れるシャワー。その水音に、やっぱり先刻の歌を思い浮かべる。

  ♪ I'm singin' in the rain.

 僕は歌いながら、タップの代わりにタイルをノックした。

 髪をがしがしと拭いて、バスルームから出る。
 キッチンはペンダントライトに照らされるだけで、無人。冷蔵庫を見ると、フルーツもシャンパンも消えている。ドアの隙間から灯りの見える三蔵の部屋をノックして開けると。
「よう、ジーン・ケリー」
 床に広げられたクロスに、ワインクーラーと皿が並んでいる。フルートグラスとカトラリーは僕が磨いたばかりなのでぴかぴかだ。カゴに盛られたフルーツとナイフ。オレンジと銀色のナイフって、並ぶときれいだな。ふと、そんなことを思う。
「上機嫌だったな。♪ドゥディドゥ ドゥ…」
「ははは…。聞こえてました?」
 三蔵は、定席のカウチに転がっていた。寒いんじゃないかと思うのに、三蔵はいつでも裸足が好きらしい。クッションに身を凭れさせ、いつものように胸元には本を伏せ、片足だけだらりと垂らしている。
 近寄りざまに、床に降りている方の脚先を掴む。
「冷たいですよ。寒いんじゃないですか?」
「この方が気持ちいいんだよ。それより肝心のシャンパンがまだ冷えない」
「冷えるまでまた冷蔵庫に入れておきますか?」
「そのまま置いておけ。間違っても冷凍庫なんかに入れんなよ。クーラーに放っておけばゆっくり冷えるんだから」
 寝そべったままで腕を伸ばしてくるので、僕は引き寄せられる。カウチに浅く座って三蔵に向かってかがみ込むと、肩から首に腕が回った。
「折角のシャンパン抜きで食事を始める気はないからな。…だからそれまでこうしてよう」
 上を向いた三蔵の顎のラインに唇を落とす。
「止まらなくなるかも、ですよ?」
「あんまりオマエがもたもたしてるから。風呂で呑気に鼻歌なんか歌ってやがるから。…オレの気が変わったんだよ」
 じれったげに、僕の唇を三蔵が欲しがった。
「かなりの速攻でシャワー浴びて来たんですけど」
 ゆっくりと接吻ける。忘れかけの空腹を思い出したように、甘噛みする。甘い吐息ごと味わう。
 三蔵の上から本が滑り落ちた。
「…知ってる」

 知ってたのに、何度でも思う。三蔵はきれいだ。
 接吻ける度に揺れる目蓋とか。それと一緒に震える睫毛とか。
 キスの合間にため息の様な吐息を吐く唇だとか。
 乱れて目元を隠してしまう、髪の香りだとか。
 髪をかき上げると、白い額。血の色を透かす頬と耳朶。

 首筋に顔を埋めて接吻ける。ちらりと見えた僕の付けた痕。そこまでゆっくりと降りて行く。鎖骨が一際浮き上がった。また唇に戻って…彼のシャツのボタンを外した。
「ん…」
 三蔵が何か言いかけるが、僕は聞かない。唇を塞ぎ続ける。彼の舌を絡め取る。
 胸元に指を這わせると、紅を刷いたような目蓋を開いた。ゆっくりと鎖骨に沿って触れ、胸の筋肉を確かめるように撫でる。胸の突起を探り、指の腹で転がす。
 ずっと開かれていた三蔵の眼が顰められたので、僕はそこに唇で触れたくなった。
「はっ…かい」
 三蔵が僕の名を呼ぶ。僕の肩にかけられた指に力が入る。
 ほんの少しだけ、爪が立てられる。
 歯を。僅かに立てると、反射的に三蔵は膝を曲げて躯に引き付けようとした。それが僕の躯を押しのけようとしたみたいに感じられて、思わず彼の躯を押さえ込む腕の力が強くなる。

 何度も、何度も呼ばれる、僕の名前。
 何度聞こえても、その度心地よい、ため息混じりの声。
 何度でも呼んで。

 僕の手はとても勤勉に三蔵の上を這う。接吻けた胸の桜色も、もうひとつのそれも。腋から肋に沿って。背中の跳ねる筋肉に沿って。唇と指で、三蔵を全部覚え込みたい。この人の肌に僕のことを覚え込ませたい。そう思いながら。
 ジーンズの引っ掛かる腰骨の内側まで唇をずらした。僕の肩にはきっと爪の痕が付いている。舌でなぞると震えと共に甘い声が上がった。あんまりそれが切なげだったので、顔を覗き込む。
「八戒…。…オレも」
 三蔵は躯を起こして、とてもゆっくりと僕の胸元に手を伸ばす。震えがちな指で、僕のボタンをひとつひとつ外して行く。それがとても真剣な表情だったので、僕はカウチに背を預けた。僕の胸元にかがみ込む三蔵の髪を、そっと撫でる。僕の手が知ってる限りの優しさをこめて撫でる。
 僕のシャツを開いて、接吻ける。
 僕の躯をまたいで。唇から、頬から、目蓋から。前髪を後ろに撫でつけるようにして、額に。眉に沿ってこめかみに、耳に。顎から首筋にかけて、鎖骨まで辿って。吐息混じりの唇が僕をくすぐる。
 唇が降りて行く。
 三蔵はカウチから降りて、先刻僕が歯を立てたのと同じ所に接吻けた。同じように歯を立てる。目を瞑り、真剣な顔で舌を動かし続ける。長い睫毛が、一生懸命な子供みたいだ。そのまま鳩尾まで唇をずらし、臍まで行き…。

  この後、どーすりゃいいんだ?

…とでも言いたげに、唇を付けたままで僕を見上げた。
 床に跪いた彼の肢体が、どうしようもなく僕を誘う。

「三蔵。も、駄目」
 僕は彼の躯をかっさらうと、すぐ傍らのベッドに放り上げた。
「も、止まりませんから」
 手荒く落っことされた三蔵が、文句ありげに僕を見る。
「も、止められませんから」
 唇を塞がれたまま、文句ありげに笑う。
 長いキスをして、唇を離す。
「…好きですよ。あなたのことが」
 僕の声音を、気持ちよさそうに聞くあなた。
「世界中の誰より」
 喉を撫でられた猫みたいな目をするあなた。
「…ねえ、愛してますよ」
 陶然とした唇が、言葉を紡ぐ。陶然とした声で。
「…ああ。オレも」

 世界中に、この部屋しか存在しないような。
 僕とあなたしか存在しないような。
 あなたの声だけが、天上の音楽のように。

「待て」
 三蔵のシャツを開こうとした僕の手が、掴まれた。
「…まさか、ここまで来て…?」
 貧血寸前の気分で、その手を感じる。
「違ぇよ」
 僕を押しのけて起き上がると、腕に絡んでいたシャツを自分で脱ぎ、ぽいと投げ捨てた。
「邪魔。オマエのも邪魔」
 袖を引っ張られたので僕も脱ぎ捨てる。三蔵はそのままジーンズのボタンを外そうとしていた。
「…見てんなよ。電気消せ。オマエのがスイッチに近い」
「全然真っ暗より、少しは見ていたい気もするんですけど」
「オマエ…。じゃ、デスクのライトだけなら許可する。とにかくサッサと消せ!」
「はいはい」
 無法者の機嫌を損ねないように、僕は慌てて動いた。三蔵はジーンズも放り投げる。
「寒い」
 潜り込んだ毛布から顔を半分だけ出して、ジーンズを脱いでる途中の僕を睨み付ける。
「寒いんだから、早く来て暖めろ。それと、あんまりじろじろ見るな。あと、オレは緊張してるんだからそんなに無茶苦茶にはすんなよ。とにかく、初心者に無体な要求もするな。あとはな、あとは…」
 僕は今までの人生の最高スピードでジーンズを脱ぐと、毛布に滑り込んだ。そのまま滑らかな躯を抱きしめる。強く強く抱きしめる。
「はいはい、それでストップ。…も、判ったから。全部判ったから。…愛してるから」
 毛布の暗がりは、とてもとても暖かく感じられた。
 フルートグラスの中で、ヴーヴ・クリコが細やかな泡を上らせる。一列になってきれいに上がるそれを灯りに透かす。
「美味い」
 三蔵はグラスを空けると、僕に差し出す。
「お代わり」
 要求のまま、注いでやる。
「…苺も」
 ボトルをベッドの脇に置いてボウルを取りに行く。流石にだるいと言う三蔵は、ベッドに座ったまま僕を待つ。開いた口に苺を放り込む。三蔵は苺を飲み込むと、またグラスに口を付ける。
「ん。…美味い」
「美味しくて、いい香りですね」
 薄暗く、熱気の残る部屋で、冷えたシャンパンをふたりで飲む。それは、今までで一番美味しく、とても甘いワイン。
「動けねェ…。でもちょっと腹減った」
 動物みたいなくしゃくしゃの髪を撫でる。
「軽く食べますか?バゲット切りますから適当にそれに何か乗っけて。それとも果物だけにします?」
「食べられる。でもオレンジも欲しい」
 気怠げに注文して、またシャンパンを空ける。
「…怠いけど…。オマエいつもより優しくしようとしてる?いつも優しいけど。甘やかそうとしてるのか?…いつも甘やかしてくれるけど」
 グラスを満たし、反対の手にチーズとサーモンを乗せたバゲットを手渡してやる。
「そりゃ、もう。これ以上ないくらいに甘やかしたい気分ですから」
「そうか」
 そのまま食べ出す三蔵の隣に座る。
「ん…。甘やかして貰うの、気持ちいい」
「幸せ?」
「ん…。幸せ」
 気怠く、満足した動物みたいに。

 そのまま、満足した動物みたいに、僕たちは眠った。
 世界中で一番満足した動物みたいに。


















 続く 







《HOME》 《NOVELS TOP》 《BOX SEATS》 《SERIES STORIES》 《83 PROJECT》 《NEXT》
シャンパンもー氷できんきんに冷やすもんだと思うんですがー
それだとサッサと冷えちゃうからお話が続けられなくてー
…すいませーん