STAY WITH ME 5 
--- 花モ嵐モ舞吹雪的物語 1 --- 


















 ぼんやりとした日差しはグレイの雲から差し込む
 開き始めた桜の微かに紅を帯びた白に、薄墨色がよく似合う
 下草のやわらかな萌葱の中に、ちいさな花が顔を出す
 うめ、もも、さくらにじんちょうげ
 手を引かれながら、ひとつひとつその名を聞いた
 こぶし、もくれん、ゆきやなぎ
 指さしながら教えてくれた

「ほら、ラッパ水仙がいい匂い。元気がよさそうで、まるで悟空みたいね」

「なんなんだ、こいつは」
 三蔵が僕の部屋に入るなり呆れた声を出す。
 見下ろす視線の先には、こたつの天板に頬を張り付けた悟空がいる。悟空は病気の猫のようにじっとしたまま大きな瞳だけを動かし、横向きの視界に三蔵を入れる。今の悟空の世界は、まっすぐではないのだ。足下にあった筈の大地がどこかに行ってしまって、途方に暮れている。
「さんぞーお」
 何とも情け無い声を出す。
 ここの所、悟空は僕の部屋に入り浸りなのだ。耳もシッポも垂れたような状態でやって来ては、大人しくしている。ただじっと僕や三蔵の会話を聞いて、時折頷いてはため息をつく。
「さんぞーお」
 あんまりしょぼくれているので、ホットミルクや砂糖入りのミルクティーを淹れてやり、甘いお菓子を一緒に食べる。「面倒臭いヤツ」と言いながらも、三蔵は小マメにチョコボンボンや練り切りやクッキーやゼリービーンズを買って来る。
 甘い、甘いお菓子を食べて、僕と三蔵に交互にからかわれ、頭をぽんぽんと撫でられると、それでやっと悟空は元気になって家に帰る。

「さんぞーお。会いたかったあ」
「オマエな。オレに会いたくて、どうして八戒の部屋に来るんだ」
「だって、三蔵の部屋に行って、それで帰れって言われたら、俺、ショックで立ち直れないかもしんない…」
「…八戒なら絶対ェ言わねェからな。どーせオレは言うかもしれないからな」
「八戒にも会いたかった。三蔵にも会いたかった。大人しくしてるから気にしないでよ」
 三蔵が悟空の横に腰を下ろし、こたつに潜り込む。
「そんな辛気くさいツラ、いるだけで鬱陶しいんだよ。てめェいい加減飽きろ」
 煙草を取り出して言いながら、くしゃくしゃっと悟空の髪をかき乱す。いつ迄も頭を撫でられる感触に、悟空はやっと笑顔を取り戻す。
「うん。…えへへ。やっぱ優しいなあ、二人とも。うん、優しくして」
「いい年して、べちゃべちゃの甘ちゃんなコト言ってんじゃねェよ」
 ぺんっ、と軽く叩く音がした。こたつの天板に頬を押しつけたまま、それでも悟空は嬉しそうに笑っている。

「何か飲み物でも?」
「コーヒー」
「俺ホットミルク」
 キッチンに入ると、カウンターにマロングラッセがちょこんと置かれていた。

「あんなにしょげ返るとはな」
「仲の良い姉弟でしたからねえ…。年が離れてる分、花喃さんがうんと悟空の面倒見てたし、悟空も結構甘ったれでしたからねえ。生まれてからずっと一緒だった人が傍にいなくなるのって、やっぱりショックなんでしょうね」
「我が儘で甘ったれのガキ」
 マロングラッセを悟空の為に買って来た人が、さもウンザリという顔で言う。つい面白がってその顔を覗き込んだら、今度こそ厭そうな顔で煙草を深く吸い込んだ。

 花喃さんはもうすぐ花嫁になる。
「桜の花の咲く頃だよ」
 なんて悟空は言っていた。こんなにも桜が急に咲き出すだなんて、その時悟空は思いもしなかったんだろう。寒さが深まり、氷が張ったり、雪が降ったり。いつまでも冬が続くと信じていたみたいだった。
「桜の芽が膨らんで来ましたね」
 たまたま外で出会った時に僕がそう言ったら、きょとんとした顔から、見る間に茫然とした表情に変化して行った。
 丁度その頃から、結婚式前の打ち合わせや、御両家で顔を合わせたり、または独身の女友達と食事をしたりといった事柄で、本格的に花喃さんは忙しくなってしまったのだ。
「今日も姉ちゃん、家でご飯食わないんだ」
 天が落ちて来たって、こんなに重大な事柄はない、という顔をしないだろう。
 悟空にとっては、最初の別れへの予告なのだから。

「今日は何だったんだ?」
「ああ、婚約者の方と、ウェディングドレスのお直しですって。色んな打ち合わせで土日は全部お留守みたいですね。お友達の所に泊まりに行ったり…だから本当に淋しいんですよ、悟空は」
「あれだろ、自分でケーキ作ったりするんだろ?ご苦労なこったな」
「式には僕たちも呼ばれてるんですからね。ケーキは頑張って貰わないとね。流石にこれは手伝えないですからね。…ところで三蔵、スーツとか持ってます?僕、一張羅なんですよね」
「ネクタイ貸してやるから、それでめかせ」

 よく晴れた午前中のことだった。食事の片付けも終わり、のんびりと自室のベッドの上で本を読んでいた僕は、どかどかという階段を駆け登る音に目を剥いた。
「また悟空ですね…」
 言い終わる前に、三蔵の部屋のドアが思いっ切り勢いよく音を立てる。
「…どうしました…?」
 部屋をそろそろと覗き込むと、カウチに転がり、本を持った手をホールドアップの形にしたままの三蔵の胴体に、悟空がしがみついているのが見えた。
「今度は一体何なんだ?」
 憮然とした三蔵が抑えた声で問うが、悟空は無言のままだ。本の背で突っつくと、ぶんぶんと頭を振る。そのままことんと首を倒して、三蔵の心臓辺りに耳をくっつけたまま動かなくなる。
「…おい」
 ため息をひとつ付いた三蔵は、諦めた顔で僕に目で合図する。頷いて部屋を出る間際、もう一度ため息をついたのが聞こえた。
「しがみつかれると重てェんだよ。もうちょっと力抜かないと、今すぐ蹴り飛ばすぞ」
 機嫌の悪そうな、優しい声も。その声を背に、僕は階下へ向かった。

「八戒くん…」
 純白のレースに縁取られた花喃さんが、ゆっくりと振り向く。
 身に沿ったシンプルなドレスは、ウェストの華奢な線を引き立たせていた。裾にゆくに従い、なだらかなカーヴで後ろに広がる。サテンの光沢に、広く刳った胸元と肩口と手首のレースが華やかだ。ネックレスも何もない首筋が白くほっそり際だつ。その上の輝く様な、少しだけ照れた微笑み。それを囲むヴェールは、部屋中に春の香気を呼び込むかの様だった。

「さっき届いたの。…どうかな」
「とても綺麗ですよ。なんだか違う人みたいです。…あ、ヘンな意味じゃなくて」
「いいのよ、別に。馬子にも衣装って、たった今母さんにも言われたばっかりなんだから」
 ヴェールの裾を引きながら、花喃さんが近付いた。
「…悟空には逃げられちゃった」
 淋しそうな微笑み。
 大家さんと、花嫁衣装を見に来た近所のおばさん達が、笑い出す。
「あの子はお姉ちゃんっ子だからねえ」
「あんまり綺麗なんでびっくりしたんでしょうよ」
 部屋中に満ちる華やかさ、賑やかさ。
「悟空なら三蔵の所にちゃんといますから。…どっかその辺に散歩にでも連れ出してみますよ。悟空も、花喃さんの笑顔を曇らせるつもりなんかないんですから。安心してくださいね」
 純白の花嫁は、僅かにほっとした表情を見せる。じんわりと涙の浮かぶ瞳で、優しくけなげに微笑む。
「ありがとうね。本当にありがとうね、八戒くん」
 おばさんのうちのひとりが、慌ててハンカチを出す。
「駄目だよ、花嫁さんが泣いたりしたら。まだお式当日って訳でもないんだからね。ほら、今から泣いてたら、結婚式に雨が降っちまうよ」
 そう言って、涙のにじむ目で大家さん達も笑う。晴れやかで、華やかで、賑々しい、ほんの少しだけ塩味の笑い声を聞きながら、僕は部屋に戻った。

 公園は明るい日差しに満ちていた。
 芝生がそろそろ青さを取り戻している。そこかしこにタンポポやホトケノザの小さな花が見える。レンギョウの黄色い花が、花壇のパンジーと張り合って咲いている。きらきらと輝く池には、ニセアカシアが濃い影を落とし、肉桂によく似た香りを漂わせていた。
 三蔵は芝生に転がって本を広げている。そのすぐ脇の、触れるか触れないかの位置に悟空が座る。ぎりぎり触って、重たくなくて、暖かさを感じられる距離。遠慮と甘えのバランスの微妙さに、却って悟空の気持ちの落ち込み具合が現れている。
「はい」
 二人を置いて買いに行った紅茶缶を手渡すと、両手で受け取る。
「アッタカイ」
 ようやく口を利いた悟空に、三蔵は「フン」と鼻で返事をして振り返る。
「オレのは?」
 起きあがる三蔵にも紅茶缶を手渡し、3人で並んで座った。

 空気はまだ冷えているけれど、日差しが暖かい。悟空が芝生を撫でた。
「ここ、姉ちゃんと一緒によく来たんだ。縄跳びとかフリスビーとか、インラインスケートもここでやった。あそこのユキヤナギの所で」
 悟空の指さす方向で、真っ白な花にたわむ柔らかな枝が風に揺れた。そのすぐ傍で、小さな子が自転車の練習をしている。補助輪を外してふらふらと進む小さな子と、それに付いて走るお兄ちゃんらしき子供が見えた。
「ユキヤナギって名前も、姉ちゃんが教えてくれた。椿とサザンカの区別も姉ちゃんが教えてくれた。コブシとモクレンも、中々俺が覚えられないから、何度も教えてくれた」
 悟空が虚空に握り拳を出し、ゆっくりと指を開いた。
「『小っちゃい子が手をぱあっと開いた時みたいなのが、コブシだよ』って。…俺もう、コブシの花よりでっかい手になっちゃったんだなあ…」
 自分の掌を眺めながら、大きなため息をつく。
「…ねえ、みんな淋しくないのかなあ。淋しいって思っちゃいけないのかなあ。姉ちゃん、うちからいなくなっちゃうんだぜ?」
 三蔵は、ぱらぱらとめくっていた本を取り上げると、それを軽く悟空の頭に当てる。撫でる替わりにこづく三蔵に、悟空は身をすり寄せながら「痛ぇよ」と文句を言う。
「ねえ、悟空。みんな淋しいんですよ?置いて行かれる悟空達だけじゃなくて、置いて行く花喃さんも淋しいんですよ?悟空がそんなに淋しがったら、余計に置いて行く花喃さんが淋しくなるじゃないですか」
「…だって、行っちゃうの、姉ちゃんの方なんだもん…」
「悟空の傍から花喃さんがいなくなるだけじゃなくて、花喃さんも悟空のいない場所に行っちゃうんですよ?淋しいって思ってるんですよ?…ねえ、スネてたって、止められるものじゃないでしょう?今まで傍にいてくれたのに、最後まで心配掛けたまんまでいいんですか?」
「…だって、俺欲張りなんだもん…」
 がしゃんと音がして、ユキヤナギの傍で自転車が転んだ。お兄ちゃんが駆け寄って泥をはたいてやると、また練習が始まる。
「先刻、花喃さんのウェディングドレス姿見ましたよ。よく似合って、とても綺麗でしたね。なんだかいつもの花喃さんじゃないみたいでした」
「……」
「あんなに綺麗な花嫁姿だったのに、悟空のこと心配して泣いちゃってましたよ」
「……俺だって泣きてえんだもん。それだけは我慢してんだもん」

 それまで黙っていた三蔵が、こんこんこん!と連続で悟空の頭を叩いた。
「おい、我慢すんなら根性入れて我慢しろ。中途半端な我慢なんざ、鬱陶しいだけだ。本気で止めたきゃ、死にもの狂いで挙式を止めめてみせろ。それが出来ねェんなら、何が何でも笑って送り出せ」
「さ、三蔵…?」
「一生邪魔しまくるか、一生祝福し続けるか、どっちかたった今決めろ。…てめェに一生邪魔する根性あるなら、それもまた一興だろう」
「三蔵…さん?」
 三蔵は真剣に悟空に向かっている。
「結婚式取りやめさせて、今泣かせて。その後一生てめェが面倒見て幸せにしてやるってんなら、それもひとつの選択肢だ」
「…姉ちゃんに泣いて欲しくないもん」
「相手の男が結婚後に泣かせるってこともあり得るぞ」
「それは駄目だけど!それでも…それでも、俺、姉ちゃん泣かせるのやだもん…」
 とうとう、悟空が唇をへの字に曲げた。三蔵は悟空の頭に本を置いたまま、ふっと和らいだ顔をした。
「じゃ、今笑ってやるんだな」
「うう。三蔵って意地悪だよな」
「判ってんならオレに甘えんな」
「だって優しい意地悪なんだもん」
「バカじゃねェのか」
 悟空が芝生の上で大の字にひっくり返った。少し霞んだ空は、それでも眩しかった。
「…俺も姉ちゃんに優しくする。今まで優しくして貰って来たんだもんな。ちゃんとお返ししないとな」
「そうそう。で、万が一泣いて戻って来たら、その時はスポイルしちゃうくらいに優しくして、今度こそ手放さない様にすればいいんですから!」
「…八戒。それいかにもオマエってカンジだな…」
「…三蔵に言われると傷つくんですけど。先刻の論法、何ですか、アレ」
 悟空は転がったまま笑い出す。
「ふたり共、縁起でもねーよ。…頼むから、それ、姉ちゃん達の前で言うなよな!あれで姉ちゃん、怒ると怖いんだから」

 揺れるユキヤナギの傍、自転車がふらふらと走り続け、笑い声が聞こえて来た。





















 続く 







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