■■■
STAY WITH ME 5
--- 花モ嵐モ舞吹雪的物語 2 --- |
「よかったな。桜もまだまだ咲くしな。…いい天気になるといいな」
「きっと、悟空がてるてる坊主を沢山作ってたんですよ」
「本当にやりかねんな」
お気に入りのパンを買う為に、少し離れたマーケットまで遠出することにした。下手をすると顔にまで当たるみぞれの中を、僕たちは寄り添い気味に歩く。そんなことさえ嬉しい。
川沿いには柳が若葉を萌えさせている。ここの柳は枝垂れずに枝が空に向かって生えている。煉瓦や石造りの古い家屋が残る町並みに、妙に似合うそれは西洋の品種なんだろう。灰色にたれ込めた雲にも、銀色の若葉は負けずに輝く。
強い突風が起こり、僕は襟元を抑えた。
「…八戒」
三蔵の視線は川の向こう側だった。小さな赤い傘が飛ばされて、川沿いのフェンスの天辺にひっかかっている。それを途方に暮れたように眺めていた女の子の手がフェンスに掛けられ、よじ登り始める。
「危ねェな…」
言いながら三蔵は早足になる。10メートル先には橋が架けられている。女の子が傘に手を伸ばした瞬間、また風が吹く。
そこから先はスローモーションのように見えた。フェンスに絡む取っ手が風で外れ、それを掴んだ女の子ごと傘が舞い上がった。フェンスから落ちる躯。黄色いコート。くるくる回りながら飛ばされる赤い傘。深くて黒い川の水。冷たい、冷たい、みぞれの降る川の水。
三蔵がフェンスに手を掛けて飛び上がろうとした。
僕はそれを見た瞬間に、スキー場の光景を思い出した。
強盗と人質。僕の手をすり抜けた三蔵。ナイフ。雪。喪うかもしれないという…心臓が止まる思い。
三蔵の腕を掴んで止める。僕に邪魔されて、一瞬信じられないといった顔で振り向く三蔵に、笑顔で荷物を押し付けた。そしてそのままフェンスを駆け上る。
「はっかい!?」
川に飛び込む僕に、三蔵が叫んだ。
すいません
もうあんな思いするくらいだったら、自分がどうにかなった方がマシなんです
『ナンデ僕ノ目ノ前デ、ワザワザ危険ナコトシタンデス?』
あんなこと言ったのに、ごめんね
水が冷たそうだから、僕の心臓止まっちゃったらごめんね
今度は僕があなたの目の前でどうにかなるかもしれないですね
でも、あんなに小さな子、やっぱり放っておけなかったですね
僕もあなたも、目の前で何か起こったらどうしても動いちゃうタチなんですよ
ねえ、大好きですよ
あなたと同じことをしようとした僕を、許してくださいね
段々、動きにくくなって来たなあ…
腕が重たくて水をかくのが難しく感じられて。
三蔵、やっぱりごめんなさい
許して貰えないかもしれないなあ
躯の感覚が鈍くなって来たので、女の子を抱える腕に力を込め直した。
あなたのこと、全部好きですよ
あなたのすることも、したことも、全部愛してますよ
三蔵の姿をどうしても見たくなって、顔を上げた。
すぐ傍に沢山の物が突き出されているのが目に飛び込んで来た。傘の取っ手だった。何人もの人がフェンスを乗り越えて、護岸の淵から傘を差し出して叫んでいた。マフラーを垂らす人もいた。
「掴まれ」
「もうちょっとだ、頑張れ」
言われた通りに、傘に手を伸ばして掴んだ。言われた通りに、頑張ったら力が出た。
一旦傘を掴むと、後は引き寄せられ、引き上げられるばかりだった。僕の襟まで傘で引っ掛けて引っ張られたみたいだった。大勢の人の喜びの声が上がる。僕がコンクリにへたり込む傍で、女の子は躯を横にされて水を吐かされている。
「水も殆ど飲んでないようだ。救急車がすぐに来る。オマエもそれまで我慢しろ」
肩に手を置かれ、すぐ傍から三蔵の声がする。それが嬉しくて、見上げて破顔した。途端に三蔵の顔が泣きそうにゆがむ。
「すいませんでした。心配させてごめんなさい」
言ってみたけど、殆ど声が出て来ない。それどころかガチガチと歯がなって視界が揺れる程だ。体中にも震えが走る。水の中の方が暖かかった。
「救急車より、風呂がイイです」
それでもなんとか言うと、頭を叩かれた。
「バカか?手の怪我あるだろ。川の中で一瞬血が飛沫いたんだよ!今は血が止まってるけど、躯が暖まったらまた出血するぞ!」
言われて右手を見ると、ギザギザの傷口が見えた。
…縫わないといけないかもしれない。飛沫く程に出血しちゃったのか…そういえば頭がガンガンするのって、貧血なのかなあ?寒いせいなのかなあ…。
救急車が近付くサイレンの音が聞こえて来る。
ずぶ濡れのコートを引っ剥がされ、三蔵のコートを着せ掛けられたけど、遠慮しようという気も起こらなかった。寒さに震える手を伸ばすと、三蔵が強く、強く握りしめてくれた。
「…でもアレですよね。図書館で本を借りてなくてよかった。うっかり一緒に飛び込んだりしてたら弁償しなくちゃいけないところだったし」
そう言うと、また叩かれた。
「祝儀袋も、煙草も無事だったし」
連続で叩かれる。
「…あなたがあの水に飛び込むことを思ったら、自分がそうした方がマシだったんですよ。見てるのが怖かったから、僕は逃げたんです」
今度は拳で胸を殴られる。
「あなたを喪うくらいだったら、自分が死ぬ方がラクだと思ったんです。卑怯だけど。…人を好きになると、耐え難いことが増え過ぎるみたいだ。どんどん自分が卑怯になって行く」
三蔵は僕の胸を叩き続ける。
「ねえ?それでもあなたのことが好きなんです。卑怯でもあなたのことが好きなんです。赦してくれますか?」
どん。僕の胸に拳を当てる。
「あなたに出会えた人生が、とても嬉しいんです。卑怯で残酷な僕を、赦してくれますか」
僕の胸に額を押し付ける。
「…ハァ…」
三蔵は顔を上げると、震える息で深呼吸した。
「…赦したりなんか、しない。絶対一生赦さない。…それでも、オマエに出逢えた人生を愛しく思うよ。…オマエを好きになってよかったよ…」
「きれいですねえ」
「動くな。首絞めんぞ」
包帯だらけの右手を「はーい」のポーズに挙げた。
動かすと傷口が痛むので、ネクタイを三蔵に締めて貰った。ええと、シャツの袖口のボタンも実は頼んだりした。手を濡らせないので、髪を洗って貰ったし、洗い物も全部やってくれた。
「期間限定、激甘やかし」
…だとのことだけど、利子が高く付きそうだ。
教会で挙げる結婚式は、華やかで厳かだった。赤い絨毯の上をドレスの裾を長く引く花喃さんは、とても美しかった。高窓のステンドグラスがきらきらと輝き、新郎新婦の上に光を投げかける。
神父が聖書を読み上げ、オルガンが響き、聖歌隊が賛美歌を歌った。
式が終わり、ライスシャワーの中、花喃さんは女友達にブーケを投げた。うっすらとピンクがかったばらの可愛らしいブーケを、女の子達が嬉しそうに囲む。
明るい芝生の上に真っ白なテーブルを置いたガーデンパーティーは、とても楽しく進んだ。小さなシューを積み上げたケーキは上手に出来上がっていて、とても美味しいと伝えると花喃さんは嬉しそうに微笑む。
「これからは自力で頑張るわよ」
とても自信ありげに言い、そしてこっそり「でも時々助けてね」と続けた。
悟空は少しだけ切なそうに、それでも嬉しそうにそれを見る。
「なあ?俺の姉ちゃんだもん、きれいだろ?…ヘンなこと、言ってねーよな、ふたり共!」
優しい笑顔の唇を、少しだけ悪戯そうに引き上げる。
ガーデンを縁取る桜の花が、光りながら揺れる。
「佳き日に」
「佳き日に」
「ふうっ!つっかれたーーー!!」
悟空はネクタイとジャケットを放り投げた。
「これ!この子はお行儀悪いよ!」
「なーんだよ、かーちゃんもとーちゃんも緊張しまくってたクセに!」
「そりゃ、当たり前でしょ。娘の結婚式なんて始めてなんだから」
「なんだよそれ。…ところでなんかない?腹減っちゃった」
「お前、あれだけ食ってたじゃないか…」
「小腹膨らます程度だよ」
テーブルについた悟空は、中央に置かれた花瓶を見る。ほんのりピンクのばらの花束。
『私のブーケとお揃いの花なの。暫く私の代わりに飾っておいてね』
昨晩、そう言って花喃が活けて行ったのだ。
「…替わりだってさ。莫迦言ってら」
今まで座る人のあった、テーブルの空席が目に入る。カラッポの椅子。
「…ああ、本当にいなくなっちゃったんだなあ…」
今まで留めておいた涙が、とうとう流れ出た。
「おや?なんだい、この子は。おかしな子だね。今日はおめでたい日だよ」
笑いながら、悟空の髪を撫でる手に涙が落ちる。
「アレだな。今日は全員揃って花粉症アレルギーが目に来たな。母さん、ビール出してくれ」
鼻をすすり上げながら、新聞をめくる音がした。
座る人のいなくなった椅子を、愛しく眺めながら。
愛はいつまでも絶えることはない。
(コリント人への第一の手紙 第13章)