STAY WITH ME 12 
--- 青少年物思フ秋的物語 2 --- 


















 翌朝。
 自業自得の寝不足気味で重たい頭を抱えて、コーヒーを淹れた。
 こんなに起き上がるのが嫌な朝は久し振りだった。それでも朝はやって来るし、ガッコウが消えて無くなる訳でなし、三蔵のバイトは続く。
 冷蔵庫から卵を出すと、丁度三蔵の部屋から目覚まし時計の音が聞こえて来た。三度目のベルを聞いてから、ドアをノックして三蔵の部屋に入った。
 カーテンを勢い良く開けると、三蔵が枕にしがみついて眠るベッドに、朝日が射し込む。
「三蔵。朝ですよ。コーヒーがもうすぐ入りますよ。オレンジも絞ってあげましょうか。今朝は卵は何がいいですか?ベーコンエッグか、スクランブルエッグ?それともポーチドエッグにしましょうか?」
 甘やかすように声を掛け続けていると、漸く三蔵は枕から顔を上げた。
「コーヒーもオレンジも。目が醒めない。躯がぎしぎし言う。カフェインとビタミン、両方だ。肉っ気のあるものが食いたい」
「ベーコンエッグにソーセイジも付けますか。一体、昨日は何をやらされたんです?」
 呻るような三蔵の声に、つい好奇心が湧いた。
「……しょこせいり」
 結局、身内絡みのところで、お馴染みの作業をすることになったんだ。三蔵の思惑、徹底的に外れてるなあ。
「蔵にぎっしり本棚があってな。遺品整理なんだが、寄贈出来そうな貴重な資料と、処分する本を分類して。本の間の付箋紙だのメモだの栞だの、時折挟まってる写真だのも仕分けして。くくってある本の束をどかせば、手紙や日記は現れるは。資料の寄贈先の手配は面倒臭いは、それを持って行かなきゃならんだは。……何時迄かかるのやら、だ」
 ご愁傷様、だ。

「蜘蛛の巣払い除けながら作業して。どういう訳だか、俺が日記を預かることになってな」
 三蔵の視線の先を振り返った。デスクの上には、積み上がった古びたノートとノートパソ。
「大正生まれの爺さんの遺品の日記なんだが。何十年分の日記、……殆ど業務日誌並みにそっけないんだが、合間合間にドイツ語の詩が引用してあるんだ。その日の出来事が1、2行と、歓びや恋を謳った詩が書いてある。依頼人の婆さんに伝えたら、」
 そこまで言って三蔵は急に吹き出した。
 ゆっくり腕が上がって来たので、僕は躯を低く屈めた。三蔵の手が首を回り、僕の髪に入り込んでくしゃくしゃと掻き回す。
「……『それは私への恋文です』って。どうしても読みたいんだと。長年連れ添った照れ屋の夫からのラブレターを、漸く受け取れるんだと。そのラブレターの文字が、小さかったり薄く掠れてたりなもんだから、俺がパソコン入力するんだと」
「何十年分ものラブレターの清書、責任重大ですね」
 三蔵の手が僕の首筋に留まる。
「とんでもねえよな。今頃爺い、墓石の下で慌ててやがるぞ。こっそり隠してたロマンティックさがバレちまうんだからな。直に言っておけば、こんな目に遭わずに済んだのにな」
「何十年分もの気持ちですから。お婆さん、楽しみにしていらっしゃるでしょう」
「電話でせっついて来て、ウルサイ」
 楽しげに光が踊る紫色の瞳に近付き、ついばむようにキスを繰り返す。
「昔のヒトは、ロマンティックなことを、こっそりしたがったんだな」
「そういうのこそが、ロマンティストなんじゃありません?」
「こっちはいい迷惑だ」
 ひどい言葉を楽しそうに言う唇の、柔らかさが心地よかった。体温が、唇や、首にあてられた掌や、触れ合う胸から流れ込んで来るようだった。
 鼓動を感じられる首筋に唇を移すと、三蔵は小さく溜め息をついた。掌はうっとりと、僕の背を撫で続けている。
「……八戒?」
 パジャマのシャツのボタンをふたつばかり外したところで、三蔵の手が止まった。僕は襟元を押し開くように、鎖骨に唇を滑らせて食んだ。
「おい」
「はい?」
 躯の両脇に突いた僕の腕で、すっかり身動きの取れない状態になってから、三蔵は暴れ出した。
「コーヒーが入ったんだろう!?オレンジは!?」
「現在進行形でロマンティックなことしましょう。言葉も気持ちも、全部伝えますから」
「要らん!他人のロマンスで、今は腹一杯だ!」
 薄く長く続く鎖骨を舌でなぞって味わっているのに、僕の胸を押し返そうとする。
「八戒!」
 抵抗を表す三蔵の腕をシーツに押し付け、瞳をじっと見合わせた。
「はっか……」

 ちゅ。

 唇に、音を立てて接吻けた。
「帰ったら。ロマンティックしてくれます?」
「……多分、今日も遅くなる。ってか、戻ったら入力開始だ」
 また狭量な思いが胸に湧き上がった。
「あ、……っ、んんっ!」
 抑え付けた腕に力を籠めて、薄手のシャツの布地越しに、三蔵の胸の飾りを唇で探り、弄んだ。濡れた布地が尖りを透かすことを確かめてから、最後にきつく歯を立てた。
「じゃ。僕、オレンジ絞って来ます」
 立ち上がると三蔵のベッドが軋む音を立てた。見下ろす三蔵は、乱れた着衣、乱れた吐息、乱れたシーツ。上気した顔で、僕を睨み付ける。
 大変可愛らしい。
 殊更にっこり微笑んでからキッチンへと向かう僕の背に、小声の悪態がぶつけられた。
「何怒っていやがる。発情期のサド!」
 可愛らしい。実に可愛らしい。先延べになったロマンティックが、とても楽しみだ。
 それから数日間の三蔵の生活は、午前学校、午後書庫整理、夜は遅くまで入力作業と、中々ハードなもののようだった。休日も朝から一日仕事だというので、仕事場の近くにコンビニもないという三蔵の為に、梅干しと鮭のお握りと固ゆで卵という“とにかく腹が膨れれば!”な、お弁当を持たせたくらいだ。
 ところが、その簡易弁当が、朱泱さんといかいう社長さんのお気に召したらしい。

「ぺりぺり卵の殻を剥がしながら、アルミホイルに包んだ塩にくっつけては、喜んでた。遠足みたいだなあとか、言ってたな」
 ゆで卵を持って行った日の、夜だった。夕飯を共に食べながら、三蔵はバイトの話しばかりする。
「へえ。朱泱さんも召し上がるんだったら、もっと数を多く持って行けばよかったですね」
「握り飯も、握り具合、塩具合が丁度イイって誉めてた。梅干し食いながら、疲れた時にはアルカリ性食品がいいんだとか、なんとか……」
「おや、お恥ずかしい。もっといいモノ握ればよかった」
「……八戒。お前、まだナンカ怒ってやがるな」
 怒ってません、怒ってません。ただちょっと、面白くないだけです。

「昔、光明叔父が大量に持って来たゆで卵を、朱泱も食ったらしいんだ」
 ほおら、始まっちゃった。
「建築現場から遺跡が発掘されちまったって、うちの大学の考古学チームが召集されたらしいんだな。朱泱は単にそこで発掘バイトしたってだけなんだが。真夏にずっと地面睨んで、土をスコップで掘り返したり、刷毛で払ったり……。襟首がじりじり日焼けしたとか。そこに叔父貴が、差し入れにゆで卵を持って行ったらしい。光明叔父は理事に誘われて見学に行っただけだそうだがな」
「差し入れ。真夏にゆで卵の。それはまた喉が詰まりそうな」
「……その頃の俺が、ゆで卵を作りたがったんだろうよ。多分5、6歳の頃だと思うんだが。また叔父貴が、作りたいだけ作らせてくれる人だったからな」
 小さな三蔵が、椅子の上に立ち上がって、大鍋に向かっている図が、思い浮かんだ。傍らには、はらはらしながらも嬉しそうに見守る、光明さん。
 何十個ものゆで卵を見て、大笑いする観世理事。
 まだ学生だった頃の、朱泱さん。

 朱泱さんは、三蔵の叔父の光明さんを知っていた。
 光明さんも、理事も、朱泱さんも、揃って観世理事のお父君についていた同門だった。年代は違うものの、同窓として理事宅にはちょこちょこと顔を出していたらしい。長期休暇には日本に戻っていた三蔵も、光明さんのお供で理事のお宅にはお邪魔していたから、何度かは朱泱さんとも顔を合わせた筈だと言っていた。酒を呑みながら、論客が集う家。理事のお宅は、そんな場所だったらしい。
 三蔵は今、理事以外の人の口に語られる光明さんの人となりに、熱中している。
「その頃の叔父貴の年代にもう追い付いてしまったと、朱泱が笑っていた。そして俺が、その当時の朱泱の年代なんだと。おかしなものだと笑っていた。こっちの方こそ、おかしいと思ってるがな」
 昔の光明さんが笑った他愛のない出来事や、仕事上直面した悩み事など、酒を呑みつつ聞いた話、見た出来事を、朱泱さんは三蔵に語ってくれる。光明さんの歳に追い付いてやっと理解出来たことも、朱泱さんにはあるのだと。
 多分、朱泱さんが昔語りをしてくれるのは、優しさと懐かしさの綯い交ぜになった、柔らかな気持ちからなのだろう。
 三蔵にとっては、時間を越えたプレゼントのようなものなのだろう。
 どんなに些細なことも、掌の上に零れ落ちてくる砂金の粒のように輝いているのだろう。

 いっそ。
 時間を越えて、みんな若い時代に揃って出逢うことが出来たら。
 へとへとになるまで躯を苛めても、また朝になれば元気に起きあがれるような頃に。
 笑ったり。
 泣いたり。
 怒ったり。
 色んな事に精神がぐらぐら揺れるような、そんな時に出逢えたらいいのにね。
 同じもの見て、同じ音楽聞いて、同じものにときめいたり悩んだり。
 どんな話が出来るんだろう。
 どんな答えが導かれるんだろう。

「日記の入力、進んでますか?」
「ああ。相当進んだ。面白いぞ。新婚の内は奥さん宛にゲーテやリルケだったのが、息子が育って来る頃には、人生訓なのか漢詩交じりだ。……それをまた朱泱が、佐藤春夫の訳を注記しろだの、こっちのは井伏訳がメジャーだろとか、一々口出しして来やがる」
 途端に、疎外感や羨望で胸の中に黒雲が湧き出す。
「どうした、八戒?」
「何でもありませんよ。食器、僕が全部片付けます」
「済まんな。俺は部屋に戻るが」
「ええ」
 パソコンの電源は入りっぱなしだ。
「後でお茶を持って行きますよ」
「ああ」
 部屋に戻りかけた三蔵が、自室のドアの前から引き返して来た。
「おい」
 僕の前髪を掻き上げるようにして、額に触れた。
「体調悪いか?」
 真面目な顔で、僕を覗き込む。
『三蔵欠乏症で、死にそうなんです。助けて下さい』
 そうも口に出せずに。
「別に何ともありません」
 ただ微笑むと、三蔵がゆっくり僕から躯を離した。
『先生、死んでしまいそうなんです。特効薬をください』
 額の温もりが離れて行く。
「目ェ瞑れ」
 急に言われて目を見瞠ると、三蔵は小さく舌打ちをした。

 ちゅ。

「今度ゆっくり遊んでやる。それまでこれで我慢してろ」
 唇を押さえて立ちすくんでいるうちに、三蔵はドアの向こうに消えてしまった。
「いつかの仕返しですか……?」
 それでも特効薬を処方して貰った僕は生き返り、ひとりで長い夜を過ごしては、三蔵を見送る朝を続けた。
 へこたれても起きあがって、またすぐにへこたれる、朝と夜。
 笑ったり。
 泣いたり。
 怒ったり。
 色んな事に精神がぐらつかせられる、そんな日々を繰り返した。
 目覚まし時計の電子音に、ぼんやりとした考え事を破られた。
 一時間だ。
 三蔵を起こさねば。
 ブランケットにくるまって、横向きの躯を自分で抱くようにして眠る三蔵に、そっと手を掛けた。触れるだけ、揺らさずに。
「三蔵。三蔵、時間です」
 ブルーベリーの香りがまだ残っている。小さな声で言ったのに、紫暗の瞳はすぐに開かれた。
「悪いな。……さあ、戻って作業続けるか」
 自分に向かって声を掛けて、立ち上がる姿が、揺らいでいる。僕は手伝うことも、引き留めることも出来ずに、ただその姿を見送る。
「おやすみなさい」
 それぞれのベッドに引き取ることなど、ありふれたことなのに。
 穏やかになり切れないまま、僕は先に休んだ。

 なんて、変わらぬ日々。
 朝目覚め、今度は僕が一足先に大学の授業を受けに。
 三蔵は少し遅れてから、直接事務所に向かうのだという。僕がコーヒーを淹れている時に、歯ブラシを咥えた三蔵が、くぐもった声でそう言った。
「あれ。もう書庫の整理は終わったんですか?」
「ん。後は稀覯本の類いを、それぞれの引取先に持って行くくらいだ」
「それと日記の清書と」
「そっちもかなり進んでる!……最後の方は、文字数が少なくてな。進みが早い。ドイツ語フランス語でも、漢文でもなく、自作の俳句で季節の移り変わりばかり歌ってる」
 言葉が途切れた。三蔵が動かす歯ブラシの、軽い音だけがキッチンにこもった。
「午後、大学にも行く。理事にも本を預けるから」
「そうですか。お昼はご一緒出来そうですか?」
「車で何カ所も回るから、渋滞次第で時間は全くあてにならん」
 また、天使が通る。
 かたかたと、窓硝子が鳴った。今日は風が強いようだった。
「夕食、何か暖まるもの作っておきますよ。すぐに温め直せるようなもの」
「済まん」
 口を濯ぎに、三蔵が洗面室へ消えた。

 駅へと向かう道すがら、また枯葉の舞う乾いた音を聞いていた。
 かさかさかさ。
 遠い囁き声のように続く。
 ばらばらに大学へ向かうことも、昼食を別々に取ることも、よくあることだ。
 ただ。

『朱泱』

 懐かしい想いの滲む声音は、愛おしむ声音によく似ている。
 それだけのこと。
『理事に掴まった。寿司が出る。お前も来い』
 昼休みに届いた三蔵からのメールだ。
 学内にはいるらしい。
「寿司かよ。あ、先刻、駅前の寿司屋の出前来てたな。豪勢じゃん。行かねえの?」
 学食のラーメンをすすっていた悟浄が、僕の手を引っ張って携帯を覗き込んだ。
「食欲ないからいいです。……悟浄、代打で如何です?」
「いーよ。アノ社長も来てんだろ?年末は引越しが多いから、今顔を見せるとヤバい」
 パンもキュウリも乾き気味で、そのくせトマトの水気ばかりがべちゃべちゃなサンドイッチを摘んでぷらぷらさせていた僕に、悟浄は酷い顔をして見せた。
「八戒。お前今何のバイトしてんの?」
「たまに英翻訳の下訳する程度ですけど」
「お前も社長ンとこ行って、仕事貰って来たら?下手すりゃ嫌ってほど回ってくるぜ?」
「そこそこ、マイペースにこなしてるんです。遠慮しますよ」

 行ける筈がない。
 三蔵と、朱泱さんと、観世理事。
 そんな中に、入って行ける筈が、ない。















 続く 







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