三蔵は新聞に顔を向けたままでコーヒーカップに手を伸ばした。ほろ苦い湯気に鼻腔をくすぐられ、ふと思い付いて側に立ったままだった八戒に声を掛ける。
「スコッチがあった筈だ。あれひと垂らし」
「ひと垂らしですね」
「おれに注文つけるか」
「いえいえ。確認です、単なる確認」
三蔵が手に持ったままだったカップに、八戒はスコッチを少し入れた。
視線を新聞に向けたまま芳香に甘美さが混じった液体をゆっくりと含み、三蔵の表情が微かにほころんだ。その数ミリの口角の動きを見て、更に八戒は微笑む。
「…なんだ?」
「何でもありませんよ。…いい香りですね」
「ああ」
三蔵に「ひと垂らし」を強調した八戒が、自分のカップには少し多めにスコッチを垂らす。
「おい…」
「だから先刻のは確認だって言ったじゃないですか。確認だって。たまにはね、香りを楽しむのもいいでしょう」
嬉しげに笑う八戒は、カップを持ったままで三蔵の後ろへ行き、髪の中に指を差し入れた。
「おい、まだオレの髪にこだわってんのか!」
心底呆れた口調の三蔵をよそに、豊かな金糸をまさぐり手触りを楽しむ。すくい取り指を滑らせると、はらはらと光が実体化したかのように落ちて行った。
「美味しいコーヒー。甘い香り。芳しいあなたの髪。楽しまない方が罪でしょう」
「オレを弄んでやがんのか。いい度胸だな。オレがたった今撃たないのは、単に両手がふさがってるからってだけだぞ」
「とっくにあなたに射抜かれてるんですけどね。心臓あたり」
「いけしゃあしゃあってコトバ、知ってるか」
「いけしゃあしゃあもヌケヌケも、どうやら環境によって鍛錬されるみたいですね」
「個人の資質だろうが」
「…ああ、香りを聞くときは、静かにね」
「ワガママ」
「あなたが言うんですか」
八戒は三蔵の髪に顔を埋めながら、楽しそうに笑った。笑いながら髪に接吻けた。
煙を避けて僅かに上体を逸らした八戒は、それでも三蔵の髪に指を挿し入れたままだった。部屋の灯りに青白く反射する紫煙が、揺らぎながら天井に溜まって行く。
「本当に煙たくって…でもマルボロって甘い香りしますね。ちょっと甘ったるい感じ」
「おい。本当に起きあがるぞ」
「駄目。もうちょっとだけね。こういう風な怠惰な姿も、たまにはいいでしょう?」
「ワガママな悪趣味だ。…おい、灰皿」
「はい」
八戒が持つ灰皿に、寝そべりながら掌を上に向けて灰を落とす。
「…ああ、本当に怠惰な図。堕落した姿」
「オマエの望みだろ」
「そう。たまにはね。僕の膝の上の怠惰で甘ったるい香りをさせた三蔵。堕落した姿さえ、きれいですよ」
嬉しげな八戒の声に三蔵は鼻にしわを寄せた。八戒はそれを見て、また嬉しげに髪を掻き回す。
「怠惰できれいな三蔵、万歳。…そう、ほんのたまにはね」