眩暈ノ果テ - 1 - 
      金山寺。
 今代三蔵法師の愛弟子である育て子は、幼い内から恵まれた天分を発揮しているという。またその外見も、神々しいばかりの美しさだという。
 陽光を集めたような、金糸の髪。
 どんな宝玉にも負けない、紫暗の瞳。
 汚れを知らぬ新雪のような、透ける肌。
    お稚児さんだろ」

「生まれ素性の知れぬ者を身近に置きたがるとは、三蔵様も物好きなことだな」
「だから稚児なのだろうよ。ホラ、見てみろよ、アノ肌、アノ顔を」
「多少おツムの出来はいいらしいがな。大の大人を叩きのめしたとも聞いたが。所詮子供じゃないか。あの気の強そうな顔」
「鼻っ柱をへし折ってやりたいぜ。一体誰のお陰でここにいられると」
「三蔵法師の威を借る小僧。身の程をわきまえさせて」
「あのプライドの高そうな顔を」
 影で囁かれる悪意在る言葉が、言葉になった瞬間に形を持って膨張し始める。囁かれ続けては、澱のようによどみ膿み果てる。

「コラ、お前ら!何そんなところでサボってやがる!」
「し、師範代。只今掃除に参る所ですから」
 物陰に固まっていた僧徒達が、朱泱の言葉に慌てた様子で立ち去った。
「来客が近いってんで寺中てんてこ舞いだってのに、何ダベってやがる。……ン?」
 僧徒達のいた場所まで進んだ朱泱は、そこから寺院の奥庭と、そこで立ち働く江流が見えることに気付いた。
 江流は、井戸から水を汲み上げては、慎重な仕草で植栽の根本に柄杓で掛けて回っている。重い釣瓶を渾身の力で引き上げ、手桶に移し替える江流が腰を屈めた。釣瓶を引く途中にはね掛かったものか、濡れた衣類が華奢な子供の躯に張り付いている。
 汗が目に入ったのか袖で顔を拭うと、紅潮した江流の頬に乱れた金糸が映えて見えた。

    おい、江流」
「朱泱か。何の用だ?」
「何の用だはねーだろ。手伝ってやろうか」
「要らねーよ。水遣り3年っつってな……あ!てめェ」
 江流の手から奪われた手桶が大きく弧を描き、まき散らされた水に虹が映る。
「バカか!?葉が灼けるんだよ!お師匠様が折角丹精してんのに……ヤメロったら!!」
 江流が慌てて止める間もあればこそで、見る間に庭園が水浸しになって行く。
「ん     、こんくれえかな?こんだけ水遣りゃあ、今日はいいだろ?」
「傷んだり根腐れ起こしたら、てめェの所為だからな。てめェ、邪魔しに来たのかよ」
「はいはい、俺の所為だから。風邪ひくからサッサと着替えて来な。それとな、江流」
「あ!?」
 怒鳴りつつ振り返った江流は、朱泱の真剣な瞳に一瞬たじろいだ。
「バカな奴らが、くだんねえ嫌がらせすんのなんか、しょっちゅうだけどな。最近タチの悪ィ空気が流れてる。気ィ、つけろ。ひとりになるな」
「……」
「助けを呼ぶ声が人に聞き取れない場所に行くな」
「助けなんか、オレが呼ぶか!殴られたら絶対に殴り返す!」
「いいからッ!」
 朱泱が強く肩を掴むが、江流は反射的にその腕をはね除けた。
「いいから。たまにゃ大人しく、人の言うこと聞きな」
「聞くだけは聞いとく。要件はそれだけかよ」
「ああ」
 立ち去る江流の後ろ姿を見て、朱泱は深いため息をつく。
「失敗したか。ありゃ意地になっちまったかもなあ」
 苦い、苦いため息だった。
 先程の僧徒達の慌てた様子。その寸前までの、下卑た目つきと嗤い声。朱泱は江流を見た瞬間に、その理由が判った。判ってしまった自分が、酷く卑しいもののように感じられた。

      魔のように美しく、魔のように惹きつけられそうな    
 艶やかな金の髪は、容易に、それが乱される様を連想させる
 プライドの高そうな紫暗の瞳は、無理矢理ねじ伏せ濡れさせたくなる衝動を
 柔らかそうに透ける白い肌と未だか細い肢体は、押さえ付けたくなる欲動を   

「何年もしねえうちに、アイツに運命狂わされるヤツが出てくるだろうよ」
 自嘲混じりに呟くと、朱泱は歩き出した。自分の忠告で、江流がマトモに自衛に気を配るとは思えない。かくなる上は、光明三蔵の口から言い聞かせて貰うしかない。
「やだねえ、オトコってのは。ブラ下がってるモンの所為で、簡単に狂っちまうんだからよ」
 自分の足取りを妙に重いものに感じながら、それでも朱泱は光明の元へと向かった。

「あの子は嫉視を浴び易い子ですから」
 光明三蔵は、静かに語り出した。 
「あの子自身には何の咎もないのに。三蔵法師の養い子であることも妬みの原因のひとつですから、私の存在すらあの子の為にはなっていない。虎の子を猫の子と間違えるような輩が、間違いをしでかさないとよいのですが」
 薄暗い室内に光明と朱泱は座していた。ぼんやりとした明かりが、ふたりの顔の半分に陰影を付ける。
「あの子は。江流は、惹き付ける子です。一度目が行ってしまうと、中々離れることが出来ない。強烈な悪意があの子を襲うこともあるでしょう。江流の本質が顕れるには、幼な過ぎて未だ時が足りず、ただ『違う』ということだけが周囲にはありありと判る」
「『違う』、ですか。普通のガキみたいな所もあるんですがね。そう、時折。妙に触れ難いと思う時がありますね」
 それと同時に、触れて引き寄せたくなる欲求を。
 狂おしさの混じる欲望を。
 在ってはならぬ自分の感情に、朱泱の唇が微かに自嘲に歪む。

「美しいものを、我がものにしたいと願うことはありますか」
 光明の声が、急に大きく響いたように感じられた。
「我がものにならぬのなら、壊してしまいたいと思いますか」
 返す言葉が見つからずに、朱泱は握りしめた自分の拳を見つめる。

「穢してしまえば、少しは自分に近いものになるのではないかと」

「それすらも出来ずに、ただ目を離すことも叶わず」

「狂おしく、心を占める面積が増えて行くばかり」
 光明の声が朱泱の中に響き渡り、韻々と消えない。息苦しさに思わず朱泱は叫びだしそうになった。

「誰にも、穢させない。そんなことを、わたしは許さない。江流を穢そうとする人間を。穢される江流を」
「!?」
 光明は、微笑んでいた。
 朱泱の初めて見る、蕩けそうな微笑みだった。
「判っているのです。自分の中にも、江流を壊してしまいかねない衝動があることを。三蔵法師にあるまじき、執着心を。ただ、それ以上にあの子を護りたい。あの子が全きままで育つことを、願います」
 捕らえ所のない穏やかな春の日差しにも似た笑顔の、別の一面。最高僧光明三蔵法師の中に、人として当然の喜怒哀楽のあることを改めて気付く。
 普段表に出さない、冥い感情、深い悦び、激しいまでの望みが     光明の中に確かに存在することを、またそれを、小さな切欠で噴出させることを光明が恐れていないことを朱泱は知った。
「朱泱。思い上がりかもしれませんが、わたしは信じているのです」
 うっとり、とでも形容したくなるような声がする。
「血縁を持たぬわたしがあの子を守り育てるうちに、親子の情愛に近いものを感じるようになりました。育み、成長を楽しみにする。大きな歓びをあの子はわたしに与えてくれた。あの子にとっても、わたしは親のようなものでしょう。あの子にとって、唯一の存在であることでしょう。だから思うのです。今はまだ、あの子はわたしのものなのだと」
 自分自身の言葉に後押しされるように、おののくように、声が震える。
「いつかわたしの許から旅立つ日までは、あの子はわたしのものでいてくれると」

「この至上の歓びがわたしを正気に止めるのです。それだけが、わたしと『彼ら』とを区切るのです。……わたしは、わたしのものを穢されることを望みません。」
 障子越しに羽ばたく鳥が、薄暗い室内に影を過ぎらせた。
 それを合図にに、朱泱の耳にさざめきのように音が届き出した。遠い話し声や、風に揺れる葉ずれの音。廊下を通る足音や虫の音鳥の声。
 打ちのめされたように、朱泱は呻きを漏らす。
「アイツは。アイツは、何者なんです?人を惹き付け、巻き込み、狂わせる。     正気の沙汰じゃねえ」
「ええ、正気の沙汰ではありませんね。でもそれがあの子です。強烈に人の心をかき乱し、動かすことが出来るのが、あの子の力です」
 光明がふと力を抜いたような気がした。
 先程まで部屋に張り詰めていた異常な緊張感が消える。穏やかな笑顔は、たった今垣間見た光明三蔵の暗い情熱も、神聖ですらあった告白も、幻のように覆い隠す。
「江流には、わたしからも言って聞かせましょう。卑怯な輩に付き合ってやるよりも、付け入る隙を与えない方が得策なのだと」
「ええ。ヨロシクお願いしますぜ。江流のヤツ、俺なんかが何言ったって聞きゃしねえ」
 朱泱は立ち上がり、障子に手を掛けた。
「朱泱」
 振り返る朱泱の面の半分に日が射し、濃い影を落とす。まっすぐに向けられた光明の瞳が、日差しに硝子のように透き通った。
「あなたにとっての江流は……何者なのです?」
 答えられずに眼を逸らし、朱泱は黙って光明の部屋を辞した。

 道場へ向かう途中で朱泱は、大僧正に呼び止められた。
「朱泱。三日後の大法要だが」
「先代三蔵法師のご命日の、大勢のお偉いさん方が集まるという?」
「表向きはな。まあ、先代三蔵法師のご供養ということになってはおるが」
「はァ?」
 朱泱に比べれば小柄な大僧正は、感情の表れぬ顔を彼方へ向けながら語った。
「あれであの方は我が儘でな。先代三蔵法師のご供養を名目に桃源郷の仏教界重鎮が集結しては…光明三蔵殿を説き伏せようとなさる。     長安に戻られよと」

 光明三蔵は、元は長安で三仏神にお仕えしていたのだと、大僧正が言った。
 桃源郷を統べるシステムの最頂点にある長安斜陽殿には、常に三蔵法師が存在する。神々の声を直に聞き、自身、神に最も近い存在であると言われる三蔵法師は、システムとしての桃源郷仏教界のシンボルでもある。
 栄誉と権力。
 それらは全て長安に在らねばならない。

「歴代三蔵法師には漂泊を好むお方も多かったが、それとて長安を拠点としての漂泊を繰り返していたに過ぎぬ。三蔵法師が十年以上も身を寄せ続けるこの金山寺は、前代未聞であり、また鄙びた地にあるとはいえ、長安というシステムを脅かす存在にもなり兼ねぬのだ」
「ヘッ。お偉いさんの心配しそうなこってすな。光明様の最もお嫌いそうな考えじゃねェですか」
「五つの天地開元経文のうち、二つを光明三蔵殿がお守りしておるからな。もうひと方三蔵法師がこの金山寺に立ち寄り、そのまま長安に戻らねばどうなる」
 眼鏡のレンズが陽光を反射し、大僧正の瞳が隠れた。
「三対二が、二対三に。力の分散はもとより、力の均衡の破れることを恐れるのは、長安としては当然のことであるからな」
「はあ」
 そこまでして、何故光明三蔵は金山寺に在り続けるのか。
 朱泱の脳裏に、明るい色の髪と紫玉の瞳が一瞬過ぎる。
「あの方にはあの方のお考えがおありなのだ。……と言うよりもやはり、我が儘を通されたいのだろう。お若い頃から飄々としているようで頑固な方であったしな。今でも長安が煩くなる度に、やれ北方まで行きたいだの、天竺まで見聞を広めに行きたいだの、南下して海路で外つ国へ行きたいだの。無茶を申される」
「そいつぁまた、三蔵法師の身分では、無茶と言うか駄々と言うか」
「本当になさりたいのかも知れぬ。そろそろあの子も大きく育って、長旅も出来ようからな」
 風が緑を揺らして朱泱と大僧正の間を通り抜け、ふたりは揃ってその行方を目で追う。

「長安としては、二巻の経文の守り人たる光明三蔵殿の行方が知れぬようになるよりはと、金山寺滞在をしぶしぶと認める形だったのだが。また何やら状勢が変化したらしい。今度の長安は強硬手段を取るやも知れぬ。重鎮連中は三百名の法力僧を従えて長安を発ったそうだ」
 金山寺の、法力僧はおろか、全僧徒の数を大きく上回る。
「光明様をお守りしろと?」
「何が起こるのか判らぬ、としか言えぬ。我らは光明三蔵殿の御意志を尊重するのみ」
 些か茫然とする朱泱をよそに、大僧正は歩き出した。
「申し伝えたぞ」
「伝えたぞ、ってなあ……」
 大僧正の後ろ姿を見送りながら、朱泱は頭をがしがしと掻いた。
「三百の、僧兵ねえ。人遣いの荒い言いっぱなし大僧正に、笑顔の我が儘三蔵法師、色気づいた僧徒に……。なんて寺だよ、ここは」
 その中心にいるのが、江流だ。
 江流の周囲に起こる奔流に、既に金山寺全体が飲み込まれつつあることを、朱泱は悟った。

 表面だけは穏やかに日常が過ぎる。
 光明は変わらぬ日々の勤行をこなし、江流は身の回りの世話を続け、大僧正は法要の為の準備を進め、朱泱は法力僧を鍛錬する。
 変わらぬ日常の影で、不安が波紋のように拡がって行った。
「三百の僧兵が金山寺を目指している」
「金山寺に何かが起きる」

 物陰に僧徒が集まっていた。
「大法要にかこつけ、法力僧が金山寺を取り囲むのだそうだ」
「一体何が起こるというんだ。ここは三蔵法師のいる寺だぞ!?守られて当然じゃないのか」
「しかし、光明三蔵様以外に、それだけの僧兵が長安からやって来る理由もないだろう」
「金山寺は、長安に逆らったのか……?!」
 僧徒達は目を見合わせた。
 既に法力僧達の鍛錬は、寺を防衛する為の配置訓練など、緊張感を隠そうともしないものになっていた。それと同時に法要の準備は進み、下山の許可など下りようもない。
「逃げるか?」
「今逃げても連れ戻されるさ。挙げ句破門で、金山寺が存続することになったら、この後どこの寺にも行き場が無くなる」
「では。法要の前の晩、法力僧が到着して抱囲される直前に、夜隠に乗じて逃れるのは?法力僧が金山寺を襲えば、そのまま逃げる。何事も起こらなければ法要の最中に、何食わぬ顔で戻ればいい。どうせ俺達は下っ端で、当日は裏方で走り回るだけだからな。バレやしない」
「上手く行くのか?」
 密やかに脱走を計画する中、ひとりの僧が思い出したように言った。
「もしここを逃げるとしたら。やっておきたい仕事がひとつあるな」
「ああ。アレか?」
「お仕置きは大事だろう、生意気な子供を躾るのには?僧兵が上がるようじゃ、どうせこの寺も長くはないさ。その前に……」
「ここを見捨てる前に……」
 下卑た笑いが続き、僧達は更に相談を続けた。

「お師匠様、お呼びと伺いましたが」
 大法要の前日の晩、江流は光明の部屋に呼ばれた。嵐が近付き、山の木々が風に音を立てていた。江流の髪に残る水滴に、光明は目を留める。
「風の強い雨ですね。それとも傘に穴でも開いてましたか?」
 笑いを含む声に、江流は慌てたように頭を振るい水滴を飛ばした。光明からの呼び出しに、自室から飛び出した江流は、傘をさそうとも思わなかった。
「お師匠様がお急ぎだと思ったんですよ。お話って、明日のお支度のことですか?」
 微かに照れた江流の顔に、光明はまた新たに笑い声を上げた。
「ああ、すいませんね。明日のことですが。またぞろ、長安が煩くなって来たらしいですね。物々しい集団でお出でみたいですが、何があろうとわたしは長安に戻るつもりはありません。それをあちらに判って貰おうと思います。     江流、明日はずっと私の隣にいなさい」
「はあ。オレなんかが隣にいることで、何のデモンストレーションになると仰るんです?」
「あなたと一緒に『そう言えば先代は、長く外つ国へ憧れていらしたなあ』とでも呟けば、向こうも慌てて考えを変えてくれるんじゃないかと思いますよ。親子揃って国外逃亡されるよりは、金山寺の方が居場所を把握し易いだろうと」
「それは駆け引きというか、脅迫ですね」
 江流は、度重なる長安からの帰還要望を光明が刎ね付け続ける理由は判らなかったが、光明の「親子」という言葉に喜びを隠せなかった。光明とふたり、遙か見知らぬ世界へ向かうというぼんやりとした幻影が、冒険めいて心を躍らる。
「三百もの僧兵が寺を囲むと聞いていますし、オレも明日はお師匠様をお側でお守り出来る方が安心出来ます」
「おやおや。では身辺警護をよろしく頼みましたよ、江流」
 光明は、楽しげに笑った。
「所で。今日はもう何の用事もないのでしょう?この部屋で休みませんか」
「お師匠様!まだ朱泱の言ったことでオレを心配なさってるんですか!?オレは一発殴られたら百発殴り返しますから大丈夫です。それに、喧嘩が怖くてお師匠様に匿って貰うなんて、オレどころか、お師匠様まで舐められます。そんなのオレが我慢出来ません!」
「減る訳じゃなし。舐めさせてやればいいじゃないですか。そんなこと痛くも痒くもない。それにね、江流。キナ臭い空気の時に子供を身近に置いておきたいと思うのは、当然のことでしょう?いいから、今夜はわたしの傍で休みなさい」
「お師匠様」
 光明の言葉に、江流は年相応の幼さで戸惑う。自分こそが光明を守りたいのだという気持ちと、情愛深く自分を見守る存在への依存心と信頼感。
 常に自分を守護する暖かな思いやりが、江流の心の中で柔らかな光を放つ。
「お師匠様、ありがとうございます。オレもお師匠様のお話をもっと聞いていたいけど……先程からお待ちのお客様がいらしてるみたいですよ。敵意は感じられないけれど、すぐにお帰りのお客様か、一晩かかるお話の相手か。確認してから決めましょう」
 言うが早いか、江流は光明と窓の間に立ちはだかった。
「雨の中、どなたが何のご用か判りませんが……ここを光明三蔵法師が居室と判っての狼藉か!?さっさと出て来やがれ!!」
 一瞬の内に、江流は殺気を漲らせた。相手が、少しでも怪しい素振りを見せたら、叩きのめす気だった。
 す、と窓の戸が僅かに開き、隙間から金色の何かが振られた。
「降参、降参。光明、わたしだよ!青覧だ!ちょっと内密に話があってね。随分嵐が酷くなって来たんで、部屋に入れて貰いたいんだがね。招いて貰えるかい?」
    青覧、三蔵殿!?」
「もうひとりの、三蔵法師!?」

 三蔵法師の、闇に紛れての訪問という異常さに、江流のみならず光明も驚愕の色を見せた。
「判りました。長いお話になりそうですね。江流、この方は大丈夫です。この方は、わたしを絶対に裏切らない。あなたのことも心配ですが、今夜は部屋へ戻って貰った方がよさそうです。くれぐれも気をつけて」
「はい。ではお休みなさいませ」
 光明の居室を辞した江流は、振り返り、振り返りしながら自室へと向かった。
 先程戸の透き間から振られたものは、三蔵法師の金冠であったらしい。
 光明が「絶対に裏切らない」とまで言う相手がどんな人間であるのか、知りたかった。長安から来たのであろうもうひとりの三蔵法師と光明との間で、どんな密事が相談されるのかも興味と不安があった。
 あの三蔵は、光明を長安へ連れ戻しにやって来たのだろうか?
 そこまで考えて、江流は妙に気が軽くなった。
 光明三蔵が金山寺にあろうが、長安にあろうが、自分はどこへでも付いて行けばよいのだ。自分は光明三蔵から離れる気は全くないし、     また、光明も江流を手放そうとはしないだろうと思い付いて。
「どうしてもお師匠様が嫌だと仰るなら、ふたりで海を渡って外つ国へ向かえばいいんだし」
 想像が、翼を得て飛び立つ。

 離れの自室へと、徐々に強くなる雨足も気にせず向かった江流は、扉へ辿り着く寸前、背後から伸ばされた複数の腕に捕らわれた。顔全体を濡らした布で覆われ、暴れようとする腕を無理矢理背中に回される。
 妨げられた呼吸に薄れかける江流の意識の中、光明三蔵の笑顔が一瞬浮かび上がり、闇に消えた。















 続く 







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