■■■  熱帯夜 - kitori-version - 

ダブルベットのマットレスの沈む感触に、八戒は読んでいた本を閉じた。
 見やった先で三蔵が寝返りを打って、反対側に移動していく。
「消しましょうか?」
 灯かりが煩いのかと八戒が声を掛けると、三蔵はうなじに貼りついた金糸を掻き揚げるようにした。
「……暑い」
 そのまま、いくら着替えても汗になってしまうのに焦れて纏ったままだった、バスローブの襟元を細い指で掴んで引く。
 その仕種に覗いた白い胸元も、うっすらと汗をかいていた。
 乱れて覗く内腿にバスローブの前を合わせ直されて、三蔵は煩そうに足をばたつかせた。
「…暑いつってんだろ」
 子どものようなその仕種に、八戒は思わず笑みを零した。

 湖のコテージでの休暇も、今夜で最後だった。
 明日になれば、船の周航が再開される。
 それに乗って湖を渡れば、また、西への旅が始まる。
 そう思い、八戒はすこぶる紳士的に早目に三蔵を休ませたのだが。
 それが少し早すぎたのか、ヘンな時間に目が覚めてしまったようだった。
 
 湖を渡る風は涼しいが、窓の向きが悪いのか、部屋の中はあまりその恩恵を受けていない。
「少し外で涼んでみます?」
 八戒は、とうに枕から頭を外してしまい汗を吸っていないシーツを求めてベッドから落ちそうになっている三蔵に声を掛けた。
 宵の口から夜半まで、それでも睡眠は取れている。
 このまま朝まで眠らなくても、明日に支障はないだろう。
 八戒はそう判断して、夜の散歩を持ちかけた。


 予想に反して、湖畔は凪いでいた。
 空気はひんやりしているが、風がないためそれがあまり感じ取れない。
 走りでもすれば、風を感じることが出来るだろう。
 しかし真夜中にそれをしたら怪しすぎるし、そもそも二人ともそういうタチではなかった。
 第一それでは走り終わって立ち止まった時に、尚更暑さを感じるだけだ。
 八戒はそんな埒もないことを考え。
 考えたことに、暑さにやられているのは三蔵だけではないことを思い知らされて、こっそりとため息をついた。
 見やった先では三蔵が、月明かりに濡れて不機嫌な顔をしている。
 風を送るように、何度も細い指が金糸の髪に差し込まれた。
 その度に白いうなじが露わになって、八戒は軽い眩暈に襲われた。

 ふいに思いついて、八戒は湖に足指を浸した。
 思った通り、水は冷たい。
 泳ぐには冷たすぎるが、足を浸すくらいならいいだろう。
 八戒はそう思い、水際に佇んだままの三蔵を呼んだ。

 思えば二人とも、この三日間一度も湖水にその身を浸していなかった。
 八戒にはいろいろやることがあったし、三蔵はもともと人前で肌を晒すことを好まない。
 この辺りはホテル専用の湖畔だが、それでも他のコテージの客の姿が見え隠れする。
 人の視線を嫌う三蔵は、もっぱらコテージの中で新聞を読んで過ごしていた。


 白い素足が、水面に広がる月の雫を砕いた。
 銀色の欠片が一瞬三蔵の脚に絡みつき、散っていく。
 三蔵はそのまま二歩ほど歩み、水中に沈んだ。
 投げかけられたバスローブが、八戒の腕に残された。

「三蔵!」
 バスローブを掴んだ指先で三蔵のぬくもりを感じながら、八戒は小さく叫んだ。
「水が冷たすぎます。戻ってください!」
 しかし、その声に応える者はいなかった。

 湖面に波紋が広がる。
 それが月光を押しやる様を、八戒はしばらくの間ぼんやりと見つめた。
 銀色の水の面が、漆黒に色を変える。
 沈んでいった、白い姿。
 呑み込まれ、水底まで引き込まれて。

 知らず脚を進めていた。

 その時、ふいに。
 漆黒の波紋の中心に、小さな月が現われた。


 濡れた金糸が月光を弾いた。
 月の光の色の纏いつく、うなじと肩が白い。
 振り返りもしないで遠ざかっていく、その姿に。
 八戒はしょうがなさそうに微笑んで、水辺に置いたバスローブに自分の物を重ねた。



 
 水の中から見た月は、揺れて、酷く歪んでいた。
 自分の吐き出す泡に砕かれていくそれを、
 透明な紫暗が映していた。
 自分の眼(まなこ)で見なければ、
 全てのものは歪みを生じる。
 三蔵は水を掻いて、水面に浮き上がった。
 自分の目で見た月は。
 晧晧と、ただ明るかった。

 そのまま泳ぎ始めると、後方でぽちゃんというような音がした。
 一瞬振り返ると、八戒がついて来ていることが分かった。
 確かめるでもなくそれを目に留めて、再び泳ぎ始めた。
 冷たい水に、体が痺れていく。
 けれどそのことに何を思うでもなく、水を掻き続けた。
 

 熱を奪っていた水が、逆に冷たさを自分に溜め込み始めたのに三蔵は気づいた。
 痺れは心地好さを通り過ぎ、痛みをもたらし始めている。
 もう戻ろうと、三蔵は水の中で体を入れ替えた。

 月明かりに照らされた白いコテージが見えた。
 そしてその手前で、出てきた風に微かに揺れるハンモック。
 三蔵はそれを少しの間目に映し、次の瞬間、動くものはそれだけなのに気づいた。
「…八戒?」
 小さな声で呼んだ三蔵は、少し力を込めて水を掻いて、体を一回りさせた。
「八戒!?」
 自分を置いて一人で戻ってしまうような男なら、心配しない。
 けれど、そうではないから。
 放っておいたものが消えてしまったことに胸を痛める自分を嘲りながら、三蔵は肺に大きく息を溜めた。
 そのまま手足の動きを止めて水中に潜ろうとした瞬間。

 後ろから絡みつく感触に、心臓が激しく跳ねた。


 一瞬浮かんだ安堵は、本人に認識される前に怒りにすり替えられた。
「…なんのつもりだっ!」
 思わず震える声を押さえつけて、三蔵は叫んだ。
「すみません。呼ばれたような気がしたものですから。……脅かしちゃいました?」
「馬鹿か!?」
 宥めるような口調に、三蔵の声が尖る。
「でも、ほら。……どきどきしてる」
 囁かれて、胸に長い指を滑らされて。
 三蔵の水を掻く手足が止まり、水中に沈みかけた。
「泳がないと溺れますよ」
 八戒は促したが、細い体は腕の中で震えるばかりで動こうとはしない。
「寒い?」
 耳元で囁かれて、三蔵はかぶりを振った。
「疲れちゃいました?」
 重ねて訊かれて、また首を振る。
「じゃあ、吃驚した?」
「…違う」
 絞り出すような声に、じゃあこの動悸はなんなのだというように、また指が滑らされる。
 偶然のように胸の飾りに触れられて、三蔵は呻いた。
「もしかして、感じちゃったんですか?」 
「……殺す」
 無邪気を装う声に、三蔵の声が地を這った。

 物騒なことを言ったきり動かない三蔵に微笑んで、八戒は後ろからその体を抱いたまま血の気を失った唇に唇を重ねた。
 伝わってくる肌の冷たさと、キスを仕掛けてもじっとしていることに。
 どうやら動かないのではなく、動けないのだと悟って、八戒は絡めとっていた体を抱えなおした。
 金色のこうべを自分の肩口に凭れさせるようにする。
 
 そして八戒は、静かに岸へ向かって泳ぎ始めた。


 湖の縁の芝生の上に。
 縺れ合うようにして、二人は倒れ込んだ。
 抱き締められる感触に、三蔵が抗議するように身を捩る。
「ちょっと休憩させてください。それにずぶ濡れじゃ戻れませんから、体が乾くまで、ね」
 そう言った八戒が背中に廻した腕の力を強くすると、三蔵はずり上がってそれから逃れようとする。
 三蔵はそうやってしばらくもがいていたが、やがて動きを止めた。
「…くだらねえ」
 聞き逃すほど小さく零された呟きに微笑んで、八戒は腕の中の体を自分の上に引き上げた。
「…あ?」
「この方が楽でしょう?少しでも暖かいでしょう?」
 漏らす息の語尾の変化だけで疑問を表す相手の横着さに笑いながら、それでも八戒は丁寧に応えを返す。

 触れ合っているところは熱を交換して温め合い、外気に晒された部分は余剰のそれを奪い去っていく。
 密着した肌は熱く湿り、そうでないところは気持ちよく乾いていった。
 くっつけあった部分が、熱い。
 その熱に、折角一旦は引いた汗が再び滲み出す。
 体を離しひんやりとし出した空気に晒して乾かせば、ベッドに戻って眠ることができる。
 それでも二人は抱き合ったまま、動こうとはしなかった。
 互いの首筋にかかる吐息が、もう充分に温められて、熱かった。
 
 
 互いの熱を抱き締めているせいで、もう寒さは感じない。
 暖かさを感じたまま外側が冷やされる感じが、心地好かった。
 それでもこれ以上こうしていたら、体を冷やしてしまうだろう。
 夜明けまでの一刻、この辺りは急激に気温が下がる。
 名残惜しさを抱えたまま、部屋へ戻ることを促そうと八戒は口を開いた。
「…熱くて、湿ってて。こうやってるとなんだか貴方の中にいるみたいです」
 あまりの陶酔に、掛ける言葉がつい、軽口になる。

 しかし不機嫌な応えは、返ってはこなかった。


「三蔵?」
 訝しさに八戒は腕の中の顔を覗き込んだ。
 長い睫毛が伏せられて、頬に濃い影を落としている。
「三蔵?」
 もう一度呼んだが、変化はなかった。
 どうやら眠ってしまったらしいと、八戒は整った顔に苦笑を浮かべた。
 適度な運動に疲れ、温められ冷やされる眩暈のするような感覚の中で朦朧として。
 気を失うように、眠ってしまったのだろう。
(まあ、いいですよ)
 どのみち、三蔵を眠らせてやることが目的だった。
 昨夜もその前の晩も、満足に眠らせてやらなかったから。
 置いてきぼりを食って少し寂しく思いながら、それでも相手が自分の腕の中で眠りについたことに、さっきまでとは違う温かさが胸に満ちてくる。

 そっと、抱き締めていた腕を緩めた。
 それでも相手が目を覚まさないことを確かめながら、草の上に落としたままだったバスローブを羽織る。
 白い体を包んでやって横抱きに持ち上げても目を覚まさない三蔵に笑いながら、八戒は血の気の戻った唇に小さなキスを落とした。

 
 部屋に戻ってベッドに寝かせてやって、自分ももう一眠りして。
 次に目が覚めたら、もういつもの緊張感に晒され続ける日常が始まる。
 それでも進み続ければ、またこんな日が巡ってくるかもしれない。
 
 そんなことを思いながら、八戒は歩き始めた。















 END 




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◆ note ◆
閉架書庫様の、kitoriさんから頂戴致しました
よしきの『熱帯夜』を読まれて、「ウチの三蔵さまも涼しくしてあげたいよ……」ということで書かれたお話だそうです
そう言うわけで、お話を頂戴して人様よりも先に読ませて頂いてしまいました
怖ろしく得してます、ワタクシ
遠慮の「え」の字もなく、頂いてしまっております
自分の欲深さに震撼としつつ、いつも甘やかして下さってありがとうなkitoriさん、このお話もありがとうございます

尚このお話、閉架書庫様では後刻、タイトル替えてシリーズの中のひとつのお話となるそうです