■■■  熱帯夜 

 熱い夜だった。
 開け放つ窓の、極薄いカーテンすら、ゆらぎもしない。

「……暑い」
 ベッドに横になっていた三蔵の口から、堪えきれずにひと言洩れた。
 『あづい』に近い発音を聞き、八戒が苦笑しながら起き上がった。
 体温を吸っていないシーツの肌触りを求めて、三蔵が寝返りを打ったのが見えた。
 夜気の温度のシーツの冷ややかさは、一瞬で消えて果てる。
 三蔵の眉頭の隙間が、微妙に狭まった。
「麦茶でも、貰って来ましょうか?」
「ん」
 俯せて、ベッドの端から腕を垂らした三蔵は、返事とも言えない返事を返した。
 垂れ下がった手の甲を、木の床に触れさせて涼んでいる。
 夏場の猫が、自分の纏う毛皮に負けて、ぐったりしている様に似ている。
 八戒は厨房に向かった。

 氷を沢山と、麦茶。
 ビールは却って、後で熱くなるだろうから。
 
 グラスふたつを乗せたトレイを持って部屋に戻ると、ベッドの上の人影が消えていた。
「……三蔵。本格的に猫ですね」
 ぐったりと、木の床に転がる大型猫が、八戒の呆れた口振りにちらりと目線を、片方投げて寄越した。
「ここが一番涼しい」
 だからそれが猫だというのに。
 八戒はトレイをテーブルに置くと、グラスを取り上げ窓辺に向かった。
 一歩ごとに、氷が硝子に触れる、涼やかな音が続く。
 三蔵は漸く、両目を開いた。
 
 からん。

 窓枠に寄り掛かる八戒がグラスに口を付けると、氷の音がする。
 
 また、かららん。

 くるくると、汗をかいたグラスの中で氷が溶けながら回転する。
 三蔵の目線の先で、八戒はさも美味そうに目蓋を閉ざした。
「冷たい」
 にこりと、グラスを掲げる男を見て、三蔵はのろのろと立ち上がった。
 ジーンズだけの、上半身裸の姿で、明かりのない部屋を横切る三蔵の瞳が艶やかに光った。
 ぼんやりと暗がりに浮かぶというよりも、影が、より暗い影に縁取られているように、八戒の眼に三蔵はそう映った。
 しなやかに歩く、夜の猫。
 暑さに負けて、氷が欲しいと寄ってくる。
 三蔵が聞いたら怒りだしそうなことを思いながら、八戒はまたグラスを傾けた。

 からら…ん。

 三蔵は無言で手を突き出し、八戒も黙ってグラスを渡す。
 
 からら…ん。からん。

 金糸の張り付く喉が仰け反り、嚥下に動いた。
 三蔵は、八戒に僅かに背を向けるようにして、窓枠に寄り掛かった。
 たった今まで、暑さにぐったりと横たわっていたというのに。
 怠惰で、夏に弱い猫のようだったのに。
 
 八戒が、ほんの少しそれを残念と思っていると、目の前で、三蔵は正しく猫の悦楽の表情で目を瞑った。
 グラスの中の氷に、ひびが走る音がしたのだ。
 氷の立てる微かな音を、窓辺のふたりの耳は拾い、室温が1度だけ下がったような錯覚を覚えた。
 
 外気温は少しは下がっているらしい。
 窓枠ぎりぎりに張り付くと、籠もる室温に押し返されていた、冷えた空気に触れることが出来た。
 窓に腰掛けた三蔵は、グラスを回し続け、露が手から腕に伝って流れるに任せていた。
 普段は悟空の行儀の悪さを叱る癖に、ぽたぽたと、水滴が零れているのも知らぬ振り。
 今度は氷を口に含んで囓り始めた。

「猫は身勝手だから」
 
 八戒の呟きを、頬張る氷を砕きながら、三蔵が目線で聞き返した。
「何も」
 八戒もグラスの氷を口に放り込んだ。
 氷を舌で弄ぶと、あっと言う間に尖りが溶けて丸くなって行く。
 口の中から唇、喉、熱を冷まして溶けて行く。
 
 八戒は小さくなった氷をしゃりしゃりと噛み砕きながら、三蔵の肩を掴まえた。
 襟足に、氷の接吻け。
 冷たい破片を滑らかな皮膚に押し付けるように、滑らせるように。

 つるつると、八戒の唇を逃れた欠片が三蔵の背を流れ落ちた。
 小さな欠片は、背中の凹凸に沿って涙の雫になった。
「気持ち悪ィ」
 身を捩って逃れようとする三蔵を、八戒は肩を掴む掌に力を加えて留めた。
「でも涼しくなるでしょう」
「冷たいの間違いだ」

 小さな氷など、体温にすぐに溶けてなくなるのに。
 八戒は新しい氷を口に含んで、また噛んだ。
 八戒の唇が背に触れる前に、氷の砕ける音を聞いた三蔵は背を仰け反らせた。

 三蔵は、がっくりと項垂れるように、八戒の前にうなじを差し出していた。
 青白い頸骨の尖りを、八戒は氷にしたように舌先でなぞる。
 尖りは溶けずに、代わりに三蔵が細く震える吐息を洩らした。

「少しは涼しくなりました?」

 空のグラスを握り締める三蔵の指が、痙攣に似た動きを小さく繰り返すのを、肩越しに眺めながら八戒が尋ねた。
 三蔵が何か呟いたが、今度は八戒がそれを聞き取り損ねた。
 何かの、罵り言葉のようだった。

 何時の間にやら、夜風が時折カーテンを揺らすようになっていた。

 生ぬるい空気ではあっても、素肌の上の汗を、少しは蒸発させることが出来るだろう。
 この猫も、そろそろ眠れるようになっただろうか。
 からかい過ぎる前に、もうやめなくては。

 体温が、唇に戻りつつあった。
 八戒は最後にぞろりと、三蔵のうなじに舌を這わせた。

 三蔵は背を反らせると、ひと声高く、なき声を上げた。
 そのままするりと八戒の手を抜け、瞳を怒りに輝かせながら自分のベッドに戻って行った。
 向けられた背に、幾ら八戒が宥める声を掛けても、振り向かない。


 青白い電気を走らせた猫の逆毛が目に見えるようで、八戒は笑いを噛み殺しながら、自分も横になることにした。

 明日こそは、少しは眠りやすい夜になるとよいのだが。 
 可哀相な猫の安眠の為に。
 そう思いながら、眠りに落ちた。















 終 




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◆ note ◆
熱帯夜あまあま?(自分でも何か無理があるような気がするです…)
「舐めたら涼しくなる?」というお話をした、水蓮さんに捧ぐv

ぺろり!