ここより永遠に - 6 - 
 天の川下流の畔に砂利と土まみれの男達が働いていた。
「よぉ。水軍の元帥も大変だなあ、土建業まで請け負うのか」
「天の川の治水は西方軍の重大な任務ですからね。すぐに下界に影響が及ぶからこれで神経使うんですよ。……という訳で、ご用がおありならばお早めにお願いします」
 撥ねた泥が乾き、所々に白茶けた染みを付けた黒の軍服姿の男 ―――― 天蓬元帥は、にこやかに観世音菩薩を促した。

 天の川が夏を前に氾濫した。
 原因は、突然天界を覆い尽くした流星雨の所為だった。
 天界に張り巡る天の川の支流も増水し、天宮に被害が出る前にと、西方軍が出動したのだった。

 西方軍の兵士達が、汗みずくになりながら土嚢を河岸に積んでいる。
 地図を片手に天蓬に向かって来た捲簾大将が、観世音菩薩の姿を目にした瞬間歩みを止めた。
「上級神がこんな現場においでとは何事なんスかね」
「捲簾大将だな? お前さんも現場が似合うタイプだな。邪魔する気はねえんだ。俺のことは気にしないでくれ」
 観世音菩薩は、品定めをするように捲簾の頭から爪先まで眺めた。
 荒れる天の川の畔での作業で、捲簾は全身が泥にまみれていた。
 軍服の長靴も、チョコレートでコーティングしたように分厚く泥がこびり付いている。
 それでも顔だけは首に掛けた手拭いで拭っているらしく、頬に残る汚れが捲簾の男臭さを増していた。
「なんかもー、色男台無しってカンジなんですけど」
「捲簾。遊んでないでさっさと報告して下さい」
 天蓬も、飄々としているようで、歩き続けの為に長靴は泥にまみれていた。
 その靴を見た観世音菩薩が、うっすらと微笑む。

「河川図を見てくれ。天蓬、アンタが言った通り、八百年前の洪水の時と同じ増水だ」
「古地図と同じですね」
 捲簾の手にある河川図には、増水した川の氾濫の様子が書き込まれていた。
 乾いた音を立てて天蓬が広げた古地図と、川の流れが酷似している。
「八百年前、繰り返す天の川の氾濫に、時の天帝は巨大湖へ河川を通じさせる工事をしました。それ以前は天の川は増水し易く、下界の洪水を引き起こしたり、天の川の水に追われたり押し流されたりした幻獣が、下界にも多く現れたとか……」
 影が過ぎり、天蓬が言葉を途切れさせた。
 天蓬達三人の頭上で陽光を遮った物は、それ自体が輝いてもいた。
 炎の煌めきが水のように揺らぎ、翼の形になって羽ばたいた。
「 ―――― 鳳凰」
 捲簾が呟く。
 燃えさかる炎の色をした鳳凰の、長い尾羽が優雅になびいた。

 茫然と見上げる天界軍兵士達の前で、鳳凰は宙を旋回した。
「無事だったか」
 優しげな声に天蓬が振り向くと、観世音菩薩が片手を空に向けて伸ばすところだった。
 鳳凰はゆったりと舞い降り、長い首を観世音菩薩の掌にそっと伏せて嘴を触れさせた。
 観世音菩薩の唇に深い笑みが浮かぶのを見て、鳳凰は、弦をかき鳴らすような鳴き声を一声上げて飛び去って行った。

「ナマの鳳凰、間近で見んの始めて」
「動物園の珍獣じゃナイんですから」
「天帝の城代にはいるだろ。ま、奥庭で安全に守られてっから、滅多に人目には触れないがな」
 鳳凰を見送り空を見上げたままの観世音菩薩に、天蓬が声をかけた。
「お知りあいの鳳凰サンだったんでしょうか?」
「まあな」
 下界では、鳳凰や麒麟は瑞兆と受け取られる。
 天界でも美しい動物であれば好まれ愛でられるが、下界を操作するのに都合の良い、吉兆や凶兆とイメージが結びつけられた幻獣は、天帝直下で特に厳重に管理保護されている。
「野良鳳凰や野良麒麟も、鄙には沢山いるんだがな」
「都近くまで彷徨ってきた野生の鳳凰を、貴方の敷地で保護しているんですか?」
「つか、別荘の空き地に勝手に棲みついた奴らを放置してるだけなんだがな。」
 上級神である観世音菩薩の別邸の敷地ともなれば、広大なものだろう。
 幻獣達には貴重な聖域なのだろうと、天蓬はひとり頷いた。
「……貴方の別荘にいる筈の鳳凰が、ここにいると言うことは?」
「そのウチの別荘が床上浸水してな。助けを頼みに来たんだ」
 呑気な声に捲簾は呆れた目を向ける。
「観世音菩薩ともあろうお方が危険な目に遭ってるとなれば、こんな現場にのこのこやって来なくても、もっと上に訴えれば大部隊が動いたでしょうに」
「今は休暇中でな。天帝だのその周辺だのに借り作るのもシャクなんだよなあ」
「判りました。別働隊を出しましょう」
 天蓬は地図を広げて観世音菩薩の別邸の場所を確認した。
 湖へと流れの繋がる支流が、土砂に塞き止められて館周辺の一帯に溢れているらしい。
「800年前の治水工事でも真っ先に手を付けられた部分ですね。ここの水を通せば、本流の水量も大分マシになるかもしれない。水竜達を連れて来てますから、土砂の除去作業は出来ると思います」
「頼む。……それと元帥」
 部下に指示を与えようと場を離れかけた天蓬を、観世音菩薩は呼び止めた。
「ついでに人命救助も頼む。ウチの甥っ子が庭の池の浮島に取り残されてる。今鳳凰が教えてくれたんだが、浮き島も泥土が流れて、ちょっとヤバ目らしい」
「 ―――― 早く言ってくださいよッ!!」
 地図を捲簾の手に押し付けて走り出す。
「捲簾! 西方軍全員出動の指示出して! やんごとなきご身分の方々が危険だって派手に言い立てて、東方軍も駆り出させて! ねじ込んで幾らでも誇大広告しちゃってください!」
 行軍用の飛竜を一頭群から引き出すと、飛び乗りながらまだ叫び続ける。 
「……救助隊調査隊にも人数割いて、人手が足りなかったら近衛でも出させろって、西海竜王から天宮に話しを通すように説得して下さい! じゃあ、あとは適当に!」
 最後の言葉は、地面から離れ急速に飛び去る飛竜から切れ切れに、観世音菩薩と並んだ捲簾の耳に届いた。
「……今、テキトーっつった?テキトーって」
「ああ、そう聞こえたな」
 指示を残してはいるものの、現場放棄に等しい上官の行為をカタブツの西海竜王にどう言い繕おうかと悩みながら、捲簾は頬を引き攣らせた。
「危機的状況を打破すべく果敢に単独救助に向かったトカ? 緊急事態を連呼して誤魔化すトカ?」
 通信用の小さな鏡に向かう捲簾の肩を、観世音菩薩は叩いた。
「天帝宮にいる二郎神からも口添えするように言ってやるから。 ―――― 上司がアレだと苦労が多いって、奴も口癖みたいに言ってたから親身になるだろ」




 天高く飛竜は舞っていた。
 遥か上空から眺める天の川は、古地図の通りにのたうっている。
 天変地異という言葉が下界にはあるが、大流星雨も洪水も、天界に何かが起こる兆しなのだろうか。
 上空の強風を避ける為に、天蓬は滑空する飛竜に低く伏せながら考えていた。
 下界に革命があるように、天界の治世も覆ることもあり得るうるのかも知れない。
 軍人、武官がその様なことを一言でも洩らせばば、謀反の企てありと一生監視される羽目になるだろう。
 だが、天蓬は、天界の革命、軍部によるクーデターのシミュレートをしたことがあった。
 実現不可能だとは思わなかった。
 不平不満を抱き、野望を心の奥底に隠した者は多い。
 そして何より、永い永い年月を生きることに飽いた者もいる。
 唆せば、退屈しのぎの粗暴な遊びに乗る者も、存在するだろう。
 現在の天帝は、厚い忠誠心を誓いたくなる男とはほど遠い。
 天上界は、奇跡的なバランスで積み上げられた、磨かれた珠のようなものだ。
 小さな珠をぶつければ、雪崩れて全てが崩れるだろう。
 そして。
 天蓬は小さく笑った。
 もう一度珠を積み上げ山を作るのは面白いだろうが、その天辺に置かれることなど、自分には耐えられないだろうと、天蓬は笑った。
 永久に近い時間を、天帝に代わり周囲に絶え間なく目を光らせながら、身じろぎもせずに過ごすことなど、ただの苦行でしかない。
 自ら望んで苦行に就きたがる者も、 ―――― 探せば見つかるのかもしれないが。

 飛竜が啼いた。
 我に返った天蓬は、飛竜の前方に炎の輝きを持つ鳳凰が羽ばたく姿を見つけた。
「先導してくださるんですか?」
 天蓬の呟く声に反応してか鳳凰は一度大きく身をうねらせ、跳び続けた。
 
 やがて天蓬は上空からの視界に観世音菩薩の別邸を捉えた。
 辺りに広がる水の中、ぽかりぽかりと周囲に点在する自然の山と同じように、まるで古くからの風景ででもあるかのように、その館は存在した。
 泥が落ち着き水が澄んだ色を取り戻したら、夢のように美しい光景になるだろうと、天蓬は思い浮かべた。
 
 その時鳳凰がひと声、高く啼いた。
 館から程離れた場所に、緑深い森林に囲まれたい小高い山が水面から顔を出していた。
『庭の池の浮島』
 という言葉のイメージよりも遙かに大きく緑濃い。
 庭が水没する以前は、小動物や小鳥たちの楽園だったのではないか。
 そう天蓬が思った瞬間、島から虹色の輝きの奔流が突進して来た。
 鳳凰は優雅に躯を傾けて避けると、離れて飛び去って行った。
 天蓬の乗る飛竜は宙でバランスを崩したが、すぐに高度を取り戻した。
 何事かと巡らせた視線の先に、また虹色の矢が真っ直ぐに接近して来るのが目に入る。
 危険を察知した天蓬は飛竜を急速で下降させ、ぎりぎりのタイミングで水面との激突を回避して低く滑空した。
 それを追う虹の光の、長い身体の後尾が叩いた水が、高くしぶいて一面に大粒の雨を降らせる。
「金蝉は一体どこに……」
 天蓬は素早く島を見回し、崖の一部が崩落して赤茶けた土の色を見せていることに気付いた。
 雪崩れた木々や岩の影に、脈動のような光輝が存在していた。





 土砂の流れを、淡い輝きの障壁が遮っていた。
 苦しげな気配を伴う呼吸が、泥だらけの獣の鼻腔から洩れる。
「じきだ。頑張れ」
 獣に向けてかけられた声も、疲労に掠れていた。
 声の主は金蝉童子だった。
 傍らに横たわる巨大な蛇を、覆い尽くさん勢いで流れる泥流から、結界を張って護っていた。 
「じき産まれる。俺には励ますことしか出来ない。お前にしか出来ないことを成し遂げろ」
 鱗に覆われた身体が泥を弾くように虹色に輝き、膨れた胎がぐうっと動いた。





 コウ(虹)と呼ばれる、長大な体躯に虹色の鱗を持つ幻獣だった。

 休暇で観世音菩薩の別荘に滞在していた金蝉童子は、胎生のコウが子を産む為に敷地の内に棲み付いていることに、数日前から気付いていた。
 コウが、恐らく観世音菩薩に向けた挨拶の念 ―――― 居場所を借りるとの、そっけない声 ―――― を、金蝉童子も聞き取ったのだ。
 金蝉の部屋の窓は見晴らしがよい。
 何をするでもなく館で時を過ごす金蝉が窓の外に目を遣ると、森の向こうの湖があるであろう辺りの上空に、頻繁に虹色に輝く姿を見掛けるようになった。
 二頭のコウが、蒼天高くに輝きながら昇り、身を絡ませながら降りる。
「睦まじいモンだな」
「ご苦労なこった」
 虹色の光の乱舞を、心奪われた様子で眺めいる金蝉に、観世音菩薩は笑いながら声をかけるが、素っ気ない返事を返すと素知らぬ振りで窓から離れる。
 その繰り返しだった。

 その朝、観世音菩薩の、新聞を捲りながらの言葉が耳を素通りした後に、金蝉童子は館の窓に貼り付いた。
「今何と言った!?」
「だぁから、天の川が氾濫して溢れた。この辺一帯水浸しになるから、今日は部屋に籠もってな。多分ひと晩くらいで水も引くだろう」
 金蝉の目前で庭園が水に浸され始めていた。
 湖の様子は、森の木々が遮って確認出来ない。
「ひと晩で引くのか」
「多分な。ここ何百年もなかったが、以前はそうだった」
「そうか。判った」
 金蝉はそれだけ言うと、観世音菩薩のいる部屋から出て行った。
「何が判ったんだか」
 観世音菩薩が見下ろす、窓の外。
 水を跳ね上げて駆ける金蝉の後ろ姿が、森へと続く道にあった。

 森を抜けた金蝉の目前に、見慣れぬ光景が広がっていた。
 普段は静かに水をたたえる湖が、水嵩を増して泥土の色に濁っている。
 島へと続く架け橋も水に浸かり、朱の欄干だけが水面に浮かんでいた。
 その欄干にしがみつくようにして、金蝉は島へと向かった。
「!?」
 金蝉の躯のすぐ側を、巨大な質量を持つ物体が猛スピードで通り過ぎた。
「あっ……、うあ!」
 再び、風を巻き上げながら過ぎて行くそれに弾かれた金蝉は、足下で渦巻く水の中に倒れ込んだ。
 コウの雄が威嚇している。
 そう気付いた金蝉は、全身ずぶ濡れのまま、欄干に掴まりゆっくりと立ち上がった。
「何もしない。お前達が既に逃げていたのなら、俺もそのまま帰るつもりだった。お前が今ここにいるということは、連れ合いも島内にいるということじゃないのか?」
 金蝉がもたれた朱赤の欄干に、金色の長い髪が貼り付き絡んだ。
「動けないんじゃないのか? 俺はお前の連れ合いの無事を確かめたいだけだ。何事もなければ、すぐに立ち去る」
 巨大なコウは金蝉の頭上すれすれを旋回する。
「俺は、……!」
 轟、と風が鳴り、金蝉の頬を虹色の鱗が掠めた。
 思わず触れた手に、薄く血が移っている。
「お前は連れ合いを護りたい。俺はその邪魔をする気はない。ただ、無事に子が産まれて欲しいと思っているだけだ」
 コウの、金色の虹彩が金蝉を凝視した。
 泥水に半身を浸からせ欄干にしがみつく細い身体。
 朱赤の手摺りにきつく回した指は青白く強張り、水に体温を奪われた唇も血の気を失せている。
 金蝉がもう一度コウに声をかけようとした瞬間、島の影から木々をなぎ倒す崩落の音が響いた。
 コウが身を翻し、金蝉はそれを追った。
 
 一頭の虹色の幻獣が、赤茶の土砂に半身を埋もれさせていた。
 金蝉の前を飛んでいた雄のコウが、音声にならない叫びをあげた。
 声帯を持たぬコウの、喪失を畏れる思念が金蝉の胸に突き刺さる。
 雄が身を寄り添わせると、雌は身じろぎをした。
「……おい、動いたぞ!」
 金蝉は地面に伏した長くくねる躯の側に走り寄り、覆い被さる泥を両掌で掻き分け始めた。

 どくん。

 コウが苦しげに躯を捩らせるごとに、膨れた腹が動き虹の輝きが増した。
 腹の中の仔の位置が悪かったのだろうか、コウは苦しむばかりで中々仔が生まれ出る様子がない。
 金蝉は泥だらけのコウの背を撫でた。
 金蝉の躯も泥水に浸かり、汚れを落としてやろうとしても、泥の中で泥を捏ね続けているようなものだった。
 それでも金蝉は、コウの躯を撫でさすり続けた。
「辛いか? 今は耐えろ。仔も今頃頑張ってるぞ」
 不意に、金蝉は躯が浮き上がるのを感じた。
 水を吸った地盤が緩み、コウと金蝉を乗せた地面が、湖に向かって流れ始めたのだ。
 同時に、新たな崩落が起き、大量の土砂が押し寄せた。
「……来るな!」
 土砂に向かって伸ばした金蝉の掌から、強い光輝が放たれた。
 金蝉が重ねて突き出す掌から放つ輝きは、半球状の障壁を作り上げた。
 その障壁の中から、金蝉は土砂の激しい流れを見ていた。
 目の前で、土と岩が崩れぶつかり合い、砕かれて行く。
 恐ろしいほどの轟音に囲まれ、身が竦む。
 柔らかに萌えていた木々が裂け、痛々しい生木の色を晒しては泥に飲み込まれる。
 踏みしめた両脚の下には、コウが先程と同じく苦しげに身を捩らせている。
「泥は防いでやるから。だからお前は……」
 金蝉は言葉を途切れさせた。
 安心させてやりたかったが、押し寄せる土砂の質量が大き過ぎた。
 横たわるコウの躯も金蝉の脚も、ずぶずぶと泥に飲み込まれて行く。
 大量の土砂の重みを支え続けようと、突き出す華奢な腕が痺れて震える。
 足下のコウの苦しげな蠢きを感じては、金蝉は自分を叱咤し、その度に障壁の輝きは明滅を繰り返した。
「……じきだ。頑張れ、じき産まれる。」
 金蝉にコウは明るい色の瞳を向けた。
 無表情に見えるは虫類の眼から、仔を産むという本能に基づいた運命を従順に受け入れ、苦況の中でも淡々と闘っていることが、金蝉に伝わった。
「お前は強いな」
 金蝉は、圧倒的な質量の土砂に圧し負けて下がりがちな肘を、ぐいと上げた。
 肘を上げた所で、肩から腕全体が震え始める。
「頑張るのは……俺の方か……」
 膝ががくりと折れ、引き下がった障壁に更に圧迫がかかる。
「ああッ……!」
 弱まりかけた障壁の外側で、小岩が泥の中でぶつかり合う音がした。
 護り切りたいのに。
 金蝉が思った瞬間、柔らかな光と陰影が踊った。
 金蝉の足下、横たわるコウの胎から虹色の輝きが現れた。
 薄い膜状の嚢から、真珠色の小さな蛇が透けて見えた。
「金蝉!!」
 振り向いた金蝉は、水面ぎりぎりを滑空する飛竜から、黒い軍服に身を包んだ男が身を乗り出す姿を見た。
「……天蓬!天蓬、天蓬!!」
 ひと度通り過ぎた飛竜が、急激に上昇し方向転換した。
「天蓬……!?」
 軍服を着た男が、中空の飛竜から身を躍らせる。





 濁流の中に輝く障壁の輝き、泥にまみれても尚美しさを見せる金の長い髪、傷付いて伏した虹色の大蛇の姿は、天蓬にはまるで物語の光景のように見えた。
 華奢だが気の強いお姫様が、ドラゴンを庇う為に力を尽くして闘っている。
 お姫様が振り向いて、こちらに向けた瞳は何を訴えているのだろう。
 助力が遅いとお叱りなのか、今更何しに来たのだとお怒りなのか。
『天蓬!!』
 強く求められているのだと、天蓬は心のどこかが純粋に歓喜するのを感じた。
 生命の危機に瀕した状況の中で、物語から抜け出たかのように美しい人を救いに行けるのが自分であることが嬉しくて。
 お姫様が自分を求めて名を呼んでくれているような気がして。
 ただただ、間に合ったことが嬉しくて。




 強い光輝が金蝉の障壁の外側に現れた。
「逃げます!」
 二重に障壁を張り土砂を抑えた天蓬は、泥に浸かりながら金蝉に向かって叫んだ。
 金蝉はコウの仔の入ったままの嚢を抱き締めた。
 雌のコウが鎌首を上げると、雄が自分の身を絡めるようにしてすくい上げる。
「掴まれ!」
 雌の背に身を押し上げた金蝉が差し出す腕を、天蓬は掴み取った。
 反対側の腕を伸ばして虹の大蛇の躯の上に乗り上げ、掴み取った金蝉の腕ごと躯を引き寄せる。
 天蓬に強く抱き締められて、金蝉は悲鳴を上げた。
「よせ、仔が潰れる……!」
 大事に抱えたコウの仔を、尚護ろうと胸に囲い込もうとする。
 その時、コウの仔が透ける嚢を突き破り、金蝉の腕から宙に躍り上がった。
 ほっそりとした躯に真珠のような淡い光輝をまとわりつかせ、この世に生まれ落ちた喜びを全身で表している。
 巨大な親蛇達も、天蓬と金蝉を背に乗せたまま、頸や尾を絡ませながら雄大に空を舞った。
 仔が無事に空を泳ぐ様子に、金蝉は安堵の溜息を吐いた。
 天蓬に固く引き寄せられ、腕の中に捉えられていることにも気付かぬ様子で、蒼天に虹色の光が伸びて行くのを、茫然と眺めている。
「美しいな」
 漸く唇に乗せた短い言葉は、疲労と満足の気配を漂わせた。
 そのまま気怠げに、がっちりと自分の身を支える天蓬に背をもたれさせる。
「なあ?」
 返事がないことをいぶかしみ、金蝉は首を捩って天蓬の表情を読み取ろうとした。
 障壁を張り続け、金蝉の躯は疲れ切っていた。
 逆光で表情の見えない男の顔を見上げるのにも苦労をし、捩った首をそのまま抱き締めてくる肩に預ける。
 金蝉の視界に、自分を見下ろす男の影と、真っ青な空と小さなコウが舞う姿が映り込み、唇が知らずほころんだ。
「……てんぽう……?」
 男の顔が自分に向かって降りて来るのと、躯を抱え込んで抱き締める腕が益々強まったことを、金蝉は感じた。
 圧迫された肺から息が洩れたが、息苦しさだけでない心地よさを、吐息が表していた。
 コウの身を案じて駆け出してから、ずっと続いていた緊張感が漸く途切れたことが、金蝉の心を解放した。
 自分を救いに駆け付けた男の腕に、疲れ切った身を素直に預けて目蓋を閉ざす。
 唇に触れて来る熱が、この男のものとしては意外な強引さと性急さを伝えて来たことだけ、金蝉は少しおかしく思った。
「美しいのはコウだけじゃなくて……」
 おかしさに薄く微笑むと、天蓬の声を聞きながら、金蝉は安心して眠りに落ちた。
「金蝉?……寝ちゃったんですか?」
 男の声音が残念そうに聞こえて来るのも、夢とうつつの狭間のこと。





 西方軍の水竜と飛竜の部隊が到着したのは、その直後のことだった。
 天蓬はすぐに軍と合流した。
 金蝉はその後数日、観世音菩薩の別邸で休暇を過ごした。
 時々窓から見上げる空に、小さな仔を連れたコウが舞う。
 静かな館に過ごす金蝉と、泥にまみれた治水工事の現場で働く天蓬は、だから同時に美しい虹を眺めることがあった。
 
 抱き締める躯と、触れる唇の熱を。
 互いに気付かぬままで、だから同時に思い描くことが、あった。







 終 







《HOME》 《NOVELS TOP》 《BOX SEATS》 《SERIES STORIES》 《PARALLEL》 《83 PROJECT》 《next》



◆ note ◆
7/7の七夕向けに書き始めたお話が間に合わず、東北の七夕は8月だと伺いなんとか諦めずに書きました。
……83dayも兼ねてます。