刀身に反射した陽光が、捲簾の頬に凄味を添えた。
す、と捲簾は太刀を構えると、滑るように前に動いた。
まるで祭壇に捧げる演舞だった。
槍や青龍刀に、白く軌跡を残した太刀が絡み、受け流して行く。
捲簾の長袍の裾が翻り、残した残像が黒い龍のように周囲の目に映った。
首領格の男の側で黒衣の躯が低く沈み込んだ。
「な…!?」
次の瞬間捲簾は、刀を真上に突き上げ、男の鼻に触れんばかりに刃が光った。
突き上げる動きの最中に、ほんの僅か刀身がぶれても、男の鼻は地に落ちた筈だった。
「……抜いたぜ?刀」
男の顔の間近から、低く囁く。
男達の顔色は既に醒め、揃っての戦意喪失が一目瞭然だった。
捲簾は一歩下がり、太刀を振ると鞘へ滑り込ませた。
ちん。
刀が鞘へ収まり鯉口が小気味よい音を立ると、捲簾が刀を突き付けた男が、腰からくずおれた。
「こ、黒昇竜……!」
「はっはあ!その名は気に入ったね」
気分のよい高笑いを残し、捲簾は悠々と立ち去った。
「おい、天蓬!?人に労働押し付けといて、美人ふたり連れてってんじゃねーよ!」
捲簾は、まだ幾らも離れていない天蓬達にすぐに追い付いた。
どこの大店の奥方と侍女か……。
小料理屋の奥に小部屋が取れ、漸く深く被っていた薄衣を外した姿を見た捲簾が、息を呑んだ。
顔かたちといい膚といい、最上級の美女だった。
その美女が、きつい目つきで侍女をねめつけた。
「お前の忠義な心は判ったけど、気持ちだけではやっぱり駄目よ。お前はもう、里へお帰り」
「わ、王夫人……」
侍女はわっと泣き出したが、王夫人と呼ばれた美女は、もう振り向いてもやらない。
「おいおい。先刻みたいなのは、あんな危ない場所に向かったあんたの方が悪いんじゃないの?これに懲りて、いいとこの奥方は、お上品な場所に出入りすればいいんじゃね?」
「そうも言っていられないからじゃないの」
美女は、言外に『あなた、莫迦ね』とでも言いたげな目付きで捲簾を見た。
「む、ムカ付くーーーー」
ひくひくと片頬を引きつらせた捲簾だが、天蓬に肩を突っつかれた。
「空腹になれば、誰だって機嫌が悪くなるもんです。さ、ラーメンも来たことですし。食べちゃいましょ」
運ばれる料理を見た美女が、手を叩いて喜んだ。
「まっ!美味しそう!市井の味は久し振りよっ」
躊躇いもせずに、金に翡翠を連ねた耳飾りを外した。
「お金はもう持ってないの。これでありったけ、お食事を持って来て頂戴」
美女から受け取った耳飾りをまじまじと見ていた店の主人は、顔色を変えた。
「こんなに深い色の翡翠なんざ、見たことねえ……。お、お客さん、すぐお持ちしますから!」
主人は部屋から走って出て行った。
「……いいのかよ。勝手に処分なんてしちまって、あんた後で叱られんじゃねえの?」
「叱られたって怖かないわ。どうせあたくし、遠くにお嫁に行ってしまうんですもの」
美女の、つんと澄ました様子を見て、侍女がまた、声をあげて泣き始めた。
「泣くのは後でも出来ますし。まず目の前の料理から食べて行くのが、一番だと思いますよ?ほら、冷めてしまう前に…」
天蓬の言葉に、美女はにっこり笑って匙を取った。
辛味の利いた短い麺を匙ですくって食べるうちに、次々と料理が運ばれて来た。
船で運ばれるアワビなどの海産物の、蒸しもの、揚げもの、焼きものに、様々な味付けがされ、色彩の美しい野菜あんがかけられる。
美女の求めに応じて、店主は鶏の蒸しものや挽肉に、香辛料をたっぷりと効かせた味付けをした。
「……天蓬。念の為に言っておくが……」
「ええ。供された料理を、残す方が罰当たりです」
「そゆことで」
お座なりに両手を合わせ料理に手を付け始めるが、天蓬捲簾のふたりともが、不殺生の戒めを気にも留めないのは、今更のことである。
旺盛な食欲を見せていた美女が、ぽつりと洩らした。
「あたくしは、江水の畔の街から、遠く離れた渭水の畔まで来たわ。今度はもっともっと遠くまで。誰ひとり知る者もないのは、今度も同じよ」
華奢な象牙の箸で、ぷるぷると震える水晶餃子を摘んだ。
「何処でだって自分のベストを尽くす自信はあるんだけど、お食事だけは残念だわ」
何かに気付いたように天蓬と捲簾が目を見合わせる前で、ぱくんと、桜の花びらのような唇に、餃子を放り込む。
「遠くへ行く前に、思う存分食べておかなくては!」
「遠くへ、ね……。門出に涙は禁物ってな。そっちのお嬢ちゃんも、ねーちゃんに負けないように食いな」
「そうですね。何処へ行くにしても、食べる元気を持ち続けられれば、何とかなるもんですよ」
しくしくと泣き続けていた侍女も、真っ赤な鼻をすすりながらも、食事に箸を付け始めた。
「そうよ。あたくしがこんなに美味しくお食事を頂くのは、久し振りのことなんですから。湿っぽいテーブルなんて、真っ平。さ、もっとお取りなさい」
美女は侍女と自分の小皿に山盛りに料理を取り分けると、また忙しく箸を動かし出した。
天蓬と捲簾はもう何も言わずに、美女の目の前に新しい皿を、笑いながら回し続けた。
もっともっと、遠くへ。
江水の畔の街から、遠く離れた黄河傍流、天子坐す長安まで。
黄河を越え、万里の長城を越え、遥か広がる草原の空の下にまで。
がたがたと、荷が揺れた。
侍女はまだ、鼻をすすり続けている。
「やあね。あたくしの方がよっぽど元気じゃないの。お前にはこれをあげるわ。時折はあたくしのことを思い出して頂戴」
侍女の掌に載せられたのは、乳白色に輝く蛋白石と小粒真珠を散りばめた、金細工の小鳥。
嘴には赤い琺瑯、瞳には黒曜石がつやつやと輝いていた。
白い小鳥を握り締めた侍女は、また声をあげて泣き出そうとした。
「馬鹿ね!ここで騒いで人に見つかったら、渡す物はもうその小鳥しかないのよ!?取り上げられたくなかったら、大人しくしなさい!」
叱りつけられた侍女は必死で泣きやもうとしたが、却ってしゃっくりが止まらなくなった。
「……可笑しな顔」
ぼろ布を被ったままで、美女は身を震わせて笑い始めた。
「あたくし、本当に今日は楽しいわ。もっともっと遠くへ。うんとうんと広い場所に向かうのよ」
一方、捲簾と天蓬は、長安城を背にゆっくりと歩いていた。
「随分と元気のよい方でしたね。聡明そうで」
「ああ、気が強くって。あんなの嫁さんに貰った男は、苦労の種が尽きないだろうぜ」
手にした簪には、まだ温もりが残る。
「皇帝は、後宮の三千の寵姫達の似顔を作らせて、そのカタログで夜毎に呼ぶ女を決めていたそうですよ。賄賂を渡されずに怒った似顔絵師が、彼女の似顔を不細工に描き、それで皇帝は彼女と出逢う機会を逸したとか。他国の王の嫁にやると決まってから初めて彼女を見て、地団駄踏む思いをしたとか」
「……天子よりいい男って。俺はそんな奴と比べられたのか」
捲簾は痛く自尊心を傷付けられたような表情を浮かべつつ、簪を胸元にそっと仕舞い込んだ。
「ま、あの美女の男を見る目が、俺に出逢ったことで格段の向上を見たことは、間違いねえからな」
「そういうことにしておきますか」
高台から、陽光を映す渭水の水面を眺めながら、捲簾と天蓬は笑い続けた。
「忘れてるようだが、元帥。帰ったら書類な。爺さんからのラブレターの返事も、頑張んだな」
「爺さんって、捲簾、あの方は、」
赤い杖と捲簾は言ったが、老人の正体は、赤い鞭で草木を叩いて調べた、農業と薬の神の神農氏である。
「……まあ、別名五穀爺だから、いっか」
「あ!?」
小声で付け足した言葉は、捲簾には知られぬままだった。
草原に広がる青い空。
小鳥の声がいつ迄も続いた。