ここより永遠に - 5 - 
「ちょこまか汚ェ真似すんじゃねえ!抜け!」
 怒声に、捲簾は残念そうな声を上げた。
「拳と拳の勝負の方が、好みなんだがなあ……?」
 背に負った軍刀を、肩からすらりと抜き放つ。

 刀身に反射した陽光が、捲簾の頬に凄味を添えた。
 す、と捲簾は太刀を構えると、滑るように前に動いた。
 まるで祭壇に捧げる演舞だった。
 槍や青龍刀に、白く軌跡を残した太刀が絡み、受け流して行く。
 捲簾の長袍の裾が翻り、残した残像が黒い龍のように周囲の目に映った。

 首領格の男の側で黒衣の躯が低く沈み込んだ。
「な…!?」
 次の瞬間捲簾は、刀を真上に突き上げ、男の鼻に触れんばかりに刃が光った。
 突き上げる動きの最中に、ほんの僅か刀身がぶれても、男の鼻は地に落ちた筈だった。
「……抜いたぜ?刀」
 男の顔の間近から、低く囁く。
 男達の顔色は既に醒め、揃っての戦意喪失が一目瞭然だった。
 捲簾は一歩下がり、太刀を振ると鞘へ滑り込ませた。
 ちん。
 刀が鞘へ収まり鯉口が小気味よい音を立ると、捲簾が刀を突き付けた男が、腰からくずおれた。
「こ、黒昇竜……!」
「はっはあ!その名は気に入ったね」
 気分のよい高笑いを残し、捲簾は悠々と立ち去った。

「おい、天蓬!?人に労働押し付けといて、美人ふたり連れてってんじゃねーよ!」
 捲簾は、まだ幾らも離れていない天蓬達にすぐに追い付いた。
 どこの大店の奥方と侍女か……。
 小料理屋の奥に小部屋が取れ、漸く深く被っていた薄衣を外した姿を見た捲簾が、息を呑んだ。
 顔かたちといい膚といい、最上級の美女だった。
 その美女が、きつい目つきで侍女をねめつけた。
「お前の忠義な心は判ったけど、気持ちだけではやっぱり駄目よ。お前はもう、里へお帰り」
「わ、王夫人……」
 侍女はわっと泣き出したが、王夫人と呼ばれた美女は、もう振り向いてもやらない。
「おいおい。先刻みたいなのは、あんな危ない場所に向かったあんたの方が悪いんじゃないの?これに懲りて、いいとこの奥方は、お上品な場所に出入りすればいいんじゃね?」
「そうも言っていられないからじゃないの」
 美女は、言外に『あなた、莫迦ね』とでも言いたげな目付きで捲簾を見た。
「む、ムカ付くーーーー」
 ひくひくと片頬を引きつらせた捲簾だが、天蓬に肩を突っつかれた。
「空腹になれば、誰だって機嫌が悪くなるもんです。さ、ラーメンも来たことですし。食べちゃいましょ」
 運ばれる料理を見た美女が、手を叩いて喜んだ。
「まっ!美味しそう!市井の味は久し振りよっ」
 躊躇いもせずに、金に翡翠を連ねた耳飾りを外した。
「お金はもう持ってないの。これでありったけ、お食事を持って来て頂戴」
 美女から受け取った耳飾りをまじまじと見ていた店の主人は、顔色を変えた。
「こんなに深い色の翡翠なんざ、見たことねえ……。お、お客さん、すぐお持ちしますから!」
 主人は部屋から走って出て行った。
「……いいのかよ。勝手に処分なんてしちまって、あんた後で叱られんじゃねえの?」
「叱られたって怖かないわ。どうせあたくし、遠くにお嫁に行ってしまうんですもの」
 美女の、つんと澄ました様子を見て、侍女がまた、声をあげて泣き始めた。
「泣くのは後でも出来ますし。まず目の前の料理から食べて行くのが、一番だと思いますよ?ほら、冷めてしまう前に…」
 天蓬の言葉に、美女はにっこり笑って匙を取った。

 辛味の利いた短い麺を匙ですくって食べるうちに、次々と料理が運ばれて来た。
 船で運ばれるアワビなどの海産物の、蒸しもの、揚げもの、焼きものに、様々な味付けがされ、色彩の美しい野菜あんがかけられる。
 美女の求めに応じて、店主は鶏の蒸しものや挽肉に、香辛料をたっぷりと効かせた味付けをした。
「……天蓬。念の為に言っておくが……」
「ええ。供された料理を、残す方が罰当たりです」
「そゆことで」
 お座なりに両手を合わせ料理に手を付け始めるが、天蓬捲簾のふたりともが、不殺生の戒めを気にも留めないのは、今更のことである。
 旺盛な食欲を見せていた美女が、ぽつりと洩らした。
「あたくしは、江水の畔の街から、遠く離れた渭水の畔まで来たわ。今度はもっともっと遠くまで。誰ひとり知る者もないのは、今度も同じよ」
 華奢な象牙の箸で、ぷるぷると震える水晶餃子を摘んだ。
「何処でだって自分のベストを尽くす自信はあるんだけど、お食事だけは残念だわ」
 何かに気付いたように天蓬と捲簾が目を見合わせる前で、ぱくんと、桜の花びらのような唇に、餃子を放り込む。
「遠くへ行く前に、思う存分食べておかなくては!」
「遠くへ、ね……。門出に涙は禁物ってな。そっちのお嬢ちゃんも、ねーちゃんに負けないように食いな」
「そうですね。何処へ行くにしても、食べる元気を持ち続けられれば、何とかなるもんですよ」
 しくしくと泣き続けていた侍女も、真っ赤な鼻をすすりながらも、食事に箸を付け始めた。
「そうよ。あたくしがこんなに美味しくお食事を頂くのは、久し振りのことなんですから。湿っぽいテーブルなんて、真っ平。さ、もっとお取りなさい」
 美女は侍女と自分の小皿に山盛りに料理を取り分けると、また忙しく箸を動かし出した。
 天蓬と捲簾はもう何も言わずに、美女の目の前に新しい皿を、笑いながら回し続けた。

 もっともっと、遠くへ。
 江水の畔の街から、遠く離れた黄河傍流、天子坐す長安まで。
 黄河を越え、万里の長城を越え、遥か広がる草原の空の下にまで。

 長く続く戦乱に国力を疲弊することを畏れた天子は、北方の騎馬民族との和平を結んだ。
 騎馬民族の王は、和平の証として后に迎える美女を求め、天子は後宮の中から一度も会ったことのない娘を選んだ。
 王昭君。
 後宮で一度も召されぬことに腹を立て、自ら北方の地へ赴くことを望んだとも、蛮族の妻になることを厭い、北へ向かう途中に自害し、白い鳥になって都へ戻ったとも言われた。
 悲劇的な伝説で知られる彼女は、嫁した地で民に深く愛され、彼女を偲んで数多く建てられた史跡は後の世にも残っている。
 美女を送り届けた先では、武装した門番達が血相を変えていた。
「王夫人、よくご無事でお戻りで……」
「我ら、命の縮む思いを致しました。奥の厨房に向かう食材の馬車が、すぐそちらでお待ちしておりますから」
 慌てて周囲を見回すと、夫人に粗末な布地を覆い被せ姿を隠そうとする。
 美女は悲しげに両手を振り絞ると、愁眉を寄せて門番達を見つめた。
「お前達の恩は、一生忘れはしないわ。遠い地の果てまで向かうあたくしを憐れんで、一族郎党が殺される危険を冒してまで、最後にたったの一日の自由をくれたお前達を、一生忘れないわ……」
 大粒の涙が、滑らかな頬を流れた。
「これを取っておいて頂戴」
 ほっそりした指から指輪を抜き、腰からは玉佩を外し、惜しげもなく門番達に手渡す。
「……あたくしは」
 美女の口調が変化した。
「先日から奥の部屋に閉じこもって、一日中泣き暮らしているの。天子はおろか、側付きの女官さえも、室内には一歩たりとも入れていない。……いーい?判ったわね?あたくしは、ここにはいない人間なのよ?お前達はあたくしの姿なんて、見たこともないのよ?了解?」
「は、はい…」
 泣き崩れかけていた絶世の美女が、急にしゃんと睨み付けてくるのに、気の毒な門番達は目を白黒させた。
「あなた方にもお世話になったわね」
 美女は振り向くと、侍女に持たせていた包みから何か取り出す。
「都を偲ぶよすがにと求めた物だけど。あなたに差し上げるわ。ほら、きれいでしょう?あなたの可愛い人におあげなさい」
 天蓬の掌に、小さな小鳥の金細工が載せられた。
「ここを押し込むとね…」
 宝玉に飾られた小鳥の、胸の部分を押し込むとギミックが動き出した。
 色とりどりに陽を映しながら、小鳥が小首を傾げて鳴き始める。
「あなたには……」
 捲簾を見詰めた美女が、徐に腕を上げた。
 珊瑚で花を象った簪を引き抜くと、艶やかな黒髪が滝のように流れ落ちる。
 差し出された簪を、捲簾は恭しく受け取り、にやりと笑った。
「内緒だけど、あなた、この国の天子よりもいい男よ。あたくしの夫になる男も、そうであることを祈ってるんだけど」
「恐悦至極……」
 天蓬と捲簾の見守る前で、王夫人と侍女は遠離って行った。
 食材のごみごみと積まれた荷馬車の隙間に乗り込む最後まで、気位の高い美女の背筋はぴんと伸びていた。

 がたがたと、荷が揺れた。
 侍女はまだ、鼻をすすり続けている。
「やあね。あたくしの方がよっぽど元気じゃないの。お前にはこれをあげるわ。時折はあたくしのことを思い出して頂戴」
 侍女の掌に載せられたのは、乳白色に輝く蛋白石と小粒真珠を散りばめた、金細工の小鳥。
 嘴には赤い琺瑯、瞳には黒曜石がつやつやと輝いていた。
 白い小鳥を握り締めた侍女は、また声をあげて泣き出そうとした。
「馬鹿ね!ここで騒いで人に見つかったら、渡す物はもうその小鳥しかないのよ!?取り上げられたくなかったら、大人しくしなさい!」
 叱りつけられた侍女は必死で泣きやもうとしたが、却ってしゃっくりが止まらなくなった。
「……可笑しな顔」
 ぼろ布を被ったままで、美女は身を震わせて笑い始めた。
「あたくし、本当に今日は楽しいわ。もっともっと遠くへ。うんとうんと広い場所に向かうのよ」

 一方、捲簾と天蓬は、長安城を背にゆっくりと歩いていた。
「随分と元気のよい方でしたね。聡明そうで」
「ああ、気が強くって。あんなの嫁さんに貰った男は、苦労の種が尽きないだろうぜ」
 手にした簪には、まだ温もりが残る。
「皇帝は、後宮の三千の寵姫達の似顔を作らせて、そのカタログで夜毎に呼ぶ女を決めていたそうですよ。賄賂を渡されずに怒った似顔絵師が、彼女の似顔を不細工に描き、それで皇帝は彼女と出逢う機会を逸したとか。他国の王の嫁にやると決まってから初めて彼女を見て、地団駄踏む思いをしたとか」
「……天子よりいい男って。俺はそんな奴と比べられたのか」
 捲簾は痛く自尊心を傷付けられたような表情を浮かべつつ、簪を胸元にそっと仕舞い込んだ。
「ま、あの美女の男を見る目が、俺に出逢ったことで格段の向上を見たことは、間違いねえからな」
「そういうことにしておきますか」
 高台から、陽光を映す渭水の水面を眺めながら、捲簾と天蓬は笑い続けた。

「忘れてるようだが、元帥。帰ったら書類な。爺さんからのラブレターの返事も、頑張んだな」
「爺さんって、捲簾、あの方は、」
 赤い杖と捲簾は言ったが、老人の正体は、赤い鞭で草木を叩いて調べた、農業と薬の神の神農氏である。
「……まあ、別名五穀爺だから、いっか」
「あ!?」
 小声で付け足した言葉は、捲簾には知られぬままだった。

 日差しの下、玉石の色を反射した小鳥が鳴いた。
 金蝉が薄い爪で弾くと、金細工の小鳥は羽根を振るわせる。
「きれいで、可愛らしいでしょう。元気な小鳥の置き土産です」
 天蓬と金蝉は、朝日の射す庭園の芝生に腰を降ろしていた。
 天帝城代からはほど近く、よく手入れされた樹木に囲まれたそこは、小さな草原のように緑に覆われ、よく見れば小さな野の花が、そこかしこに咲いている。
 明るい緑の上に、天蓬が転がった。
 金蝉はその隣で、白い薄衣の膝に小鳥を置いた。
 晴れ渡った空の下、囀りが続く。
「……今度は土産話もゆっくり聞かせろ」
「ええ、勿論。あなたの興味のありそうなことも、きっと見つかる……」
 天蓬の声が、徐々に小さくなり、やがて寝息に変わった。
「……。オイ、またかよ」
 呆れた金蝉が髪を引っ張るが、天蓬の目は一向に覚めそうにない。
「棄ててくぞ」
 半分本気、半分諦めの境地で呟き。
 金蝉も草の上に臥した。

 草原に広がる青い空。
 小鳥の声がいつ迄も続いた。















 続く 







《HOME》 《NOVELS TOP》 《BOX SEATS》 《SERIES STORIES》 《PARALLEL》 《83 PROJECT》 《next》



◆ note ◆
天金ぷらす捲簾でした
王昭君は実在の中国四大美女と呼ばれる女性
王昭君の前漢時代は少しは調べたのですが、時代考証はかなりアヤシイです
ふ、ふぁんたじーだし