執務室に到着した天蓬は、机の上に積み上げられた書類に目を通し始めた。
「元帥、溜め過ぎ。そうやって提出締め切り間際にやるんなら、普段からさっぱりさせた方が躯にイイんじゃないの?」
印を押し、筆を走らせる天蓬を横目に、捲簾はソファに居場所を確保して、のんびり横たわっている。
「暇そうですね。半分手伝いません?」
「俺にはお前さんの監視っていう重大任務があるんだよ。さっきも事務官に泣きつかれたしな…。あ」
捲簾大将は、ふと思い出したように懐を探った。
「事務官だけじゃないわ。じーさんからラブレター。よぼよぼの、杖ついた爺さんから預かったんだけど」
「は?」
「治水部?農耕管理部顧問殿宛て?」
「あ。それ僕の趣味の仕事なんです。それください。そっちの方が気になって、他の仕事なんかどうせ手に付きません」
「……。」
西方軍は、天界を流れる天の川を管理統括している。
天を横切る広大な天の川は、異界と天界とを繋ぎ、そして下界の海や河へと繋がる。
西海竜王の下、余りに巨大な『結界の綻び』を見張り、ことあらば天の川水軍八万の兵を率い、天界、下界問わず出動するのが、天蓬元帥の職務だった。
「天の治水は、即下界に影響をもたらします。そして下界の治水は、治世や軍事に直結します。余りに巨大な叛乱などは天界軍の出動もあり得るし、……ほら、軍の仕事とも、関わりあるでしょう?」
「そんなに嬉しそうに言われてもなあ。軍務職務より、軍事オタク下界オタクの顔が出ちまってるぜ」
捲簾の視線の先で手紙を読み耽っていた天蓬は、急に自分の衣服を矯めつ眇めつ、眺め出した。
「ちょっと目立つかなあ」
「おい元帥。遊んでるんなら仕事しな」
「地味な色のマントでも羽織れば、通用するか」
「天蓬!その手紙ナニ!?書類は!?何立ち上がってんだよ!?」
「だから、農業管理部顧問ですから。今からちょっと下界見回って来ます」
「そこの書類はどーする気だ」
「すぐに戻って来ますって」
「待て待て待てー!!」
「中央集権って、こーなるんですよねー。人も物資も資金も、全部集中しちゃうんですよねー」
「天蓬、いいオトナがきょろきょろと…前向いて歩かねえとコケるぞ」
黄河の流れを汲む渭水、その畔に広がる当代随一の都に、天蓬と捲簾は降り立った。
『天子』のおわす城下町は、人々が賑わい、商いも盛んに行われているようだった。
露天商達が果物や野菜、小さな玩具などを売っている。
川沿いに集まる船は、川魚や、運んで来た海産物などを、船上に広げている。
ぎっしりと小鳥の籠をぶら下げた、背の高い屋台の後ろを付いて歩いていた子供達が、楽しげな笑声をあげた。
大通りを並んで歩きながら、捲簾は頭の後ろで掌を組んだ。
「賑やかだねえ」
「ええ、盛んです。都はね」
天蓬の声に、感嘆以外の成分が混ざるのを、捲簾は聞き取った。
「広大な土地の全てが、常に豊かであるという訳には行きませんからね。それもあって、下界の治水技術の進歩に、天界も干渉することもあるんです」
捲簾の問いかける目付きに、応えた。
「干ばつもあるしな。戦も」
「民の餓えと国力の疲弊。それもやがて革命のきっかけ、変化への階になる訳ですが。……単に、僕が気にくわないってだけかもしれませんが」
「ん?」
「この国の皇帝の後宮に、女性が何人いると思います?」
天蓬は捲簾の耳元に口を寄せた。
「三千」
「……富の独占ってのが罪深いのが、よおっく判った」
引き攣るような笑みで、捲簾はそう言った。
2人はそのまま街をそぞろ歩いた。
天蓬は、登営した時と同じ白絹に青の牡丹の咲き乱れる長袍の上に、生成の布地をマントのように、軽く巻き付けていた。
目立たぬようにとの配慮だが、歩く毎にマントの隙間から豪奢な絹の裾が翻り、却って貴人のお忍び行めいた印象を、周囲に与えていた。
並んで歩く捲簾はと言えば、漆黒の絹地に紅色の龍の刺繍がアシンメトリーに配された、美しい長袍を艶に着崩している。
通りに面した楼閣の窓辺から、女達が誘いの声を掛ける度、口元だけで笑みを返す。
捲簾が通り過ぎ、背の軍刀を見付けた女達は、口々にさざめいた。
「どこの暴れん坊やら、戦場の勇者やら。何時か話を聞かせてくれないかしらねえ」
何時の間にやら、ふたりは街の外れ近くにまでやって来ていた。
「どうよ。お前さんの用事とやらは済んだの?」
「そうですね。人口や物資の流出は先日データ取ったし、今回の市場価格調査も…こんなもんですかね」
駄菓子屋雑貨屋を覗くばかりで、歩きながら特にメモを取っていた気配も無かったが。
まあ、どんな乱雑さであろうか見当も付かないが、データは全てあのアタマの中に叩き込んであるのだろうと、捲簾は結論付けた。
「んじゃ、今日のところは帰るぜ」
「折角下界に来たのに?もうちょっと楽しんで行きません?」
「お前、昨日まで下界にいたろう!?」
「あれは人里離れた砂漠じゃないですか。都には都のよさが……」
「そんなことは判り切ってるがな、お前先刻、物資の集中嘆いたばかりだろうが!?」
その時、高い悲鳴が響いた。
川沿いに並ぶ倉庫の影、柄の悪そうな男達が、如何にも高貴な身分の、薄衣で顔を隠した女ふたりを取り囲んでいた。
「ほら、捲簾。運命が僕らに寄り道を促してる」
「納得しねー…」
言いながら捲簾の躯は疾うに走り出していた。
「そこをお退きなさい」
女の声に、男達は下卑た笑いを漏らすばかりだった。
気丈に一声を発した女主人を守るべき侍女の方は、竦みあがっている。
女達に向かって、太い腕が伸ばされ掛けたその時、疾風のように黒衣の男が割り込んだ。
「お前さん達、野暮だねえ。女口説くのに、手間はぶいちゃ駄目でしょう」
獲物との間に割り入った捲簾に、男達は野卑な笑い声を上げた。
河港で労働し、荒くれ事に慣れた男達だった。
骨の、躯の厚みが、拳にものを言わせる人生の根拠になっている。
「ひょろい兄ちゃんはすっこんでな」
中でも一番大柄な男が、前に出ると捲簾の肩に掌を置いた。
握った拳が肩の関節を砕き、黒衣の男は泣き喚きながら地べたに這いつくばる筈だった。
が、男の拳は寸とも動かず、ただその腕に筋肉と血管が浮き上がり、ぶるぶると震え出した。
表情も変えずに、捲簾が男の手首に掌を掛けている。
「いいねえ、力比べ。シンプルでさ」
しぶとい笑みが唇に乗った。
「でも。飽きんのも早えんだよなあ」
軽く躯を捻ると、大柄な男が宙を飛んだ。
息を呑む女達に、天蓬は朗らかに笑い掛けた。
「埃っぽくなりそうですから、僕達は先に行ってましょうか」
「あ、あの方は……!」
「全部任せちゃって平気ですから。あの人こういうの大得意なんです」
女達を促し、喧噪に背を向けようとしていた天蓬が、振り向き様に掌を真っ直ぐ突き出した。
背後から迫って来ていた男の、鼻のすぐ下に指先を当てる。
人中と呼ばれる、急所のひとつを突かれた男が、一撃で伸びた。
「ああ。力入り過ぎちゃったかな。大丈夫かな。こういうのの力加減って、苦手なんですよねえ……」
悪びれずに掌をぷらぷらとさせるだけの天蓬に、女達は呆気に取られるが、すぐに柔らかな物腰で背を押された。
「取り敢えずお茶でも飲んで、休みましょうか……。あ、この時代のラーメンって食べたいなあ。ラーメン食べさせてくれそうなお店、ご存じありません?」
「野郎!」
「河に叩き込んで、魚の餌にしてやる」
男達は腰や肩に帯びていた獲物を揃って抜いた。
男達の獲物は、戦場で当たり負けをしないことを目的とした、重たく巨大な青龍刀や、鋼鉄の柄の長槍だった。
まともに受ければ腕が痺れて自分の刀を取り落とし、また躯にその直撃を受ければ、肉と骨がへし折られるだろう。
「そんな細くて柔な刀を背負ったくらいで、何が出来る!?」
捲簾は、重量級の男達の突進を舞うようにかわし、青龍刀を持つ手首に手刀を叩き入れて行った。
「ちょこまか汚ェ真似すんじゃねえ!抜け!」
男達の目が血走った。