清潔な白い四角。
整えられた寝台には、糊の効いたシーツがぴんと張られていた。
その真ん中に倒れ込む。
広々とした寝台は、手足を伸ばしても何も当たらない。
シーツはひんやり心地よく、柔らかな頬に触れてくる。
俯せた姿勢で吐息を吐くと、体中から何かが抜け出て行くような気がした。
伸ばした腕で、シーツの海を探った。
掌は寂しさしか見つけられない。
「本当に本を取りに来ただけだったな、天蓬め…」
唇に乗せた名が、震えた。
無くなった本に気付いた時の、違和感の正体を金蝉は知った。
喪失感だ。
探れば探るほど広い寝台に、額を擦り付け目を瞑った。
目蓋を閉ざすと、途端にいつかの昼の光が浮かび上がる。
天帝居城の書庫の庭園の、穏やかな陽光と風。
自分を置き去りにした、後ろ姿。
見たことも聞いたこともなかった、軍人としての姿。
自分の知らない天蓬。
金蝉は額をシーツに強く押し付けた。
何もかもが、掌からすり抜けて行くような気がした。
胸が痛んだ。
文字通りに、胸につきんと痛みが走った。
棘が刺さったように、痛みがいつまでも後を引く。
朝はあんなにも幸福だったのに。
安らぐ寝顔を思い出し、自分の指に絡んだ黒髪の感触をも思い出し。
かり。
金蝉は、自分の腿に残る傷跡に、衣服の上から爪を立てた。
思った通りに、それは痛みを蘇らせた。
痛覚は克明に夕べの出来事を記憶に再生した。
窓から顔を出した天蓬。
ふらつく天蓬を支えようとし、その重みが意外だったこと。
掌に触れた軍服の外套が、硬かったこと。
自分の上に倒れ込んだ天蓬の、呟きと共に伝わった吐息の熱さ。
熱。
体温。
脈動。
柔らかな呟き。
「朝は、幸福だったのに」
血に汚れ、汗と埃の匂いをさせた男が、子供のような寝顔を見せた。
慰め方など知らぬままに、それでも優しくしてやりたいと思った。
全てが指の間からすり抜けて、消えて行ってしまいそうだった。
小さな傷の痛みでしか、過ぎた時間を確かめられない。
それに気付いた胸の痛みだけが、息苦しいまでに高まって行く。
「朝は、あんなにも幸福だったのに」
喪失感。
何を手に入れたと、自分は思っていたのだろう。
金蝉はそう思いながら、また腕を伸ばした。
掻いた指は、シーツに波を作っただけで、何を掴むことも出来なかった。
空虚な掌を、金蝉はきつく握り込んだ。
広い寝台の真ん中で、金蝉は躯を丸めて、眠りに就いた。
今、天蓬に逢いたかった。
「金蝉」
観世音菩薩の剥き出しに近い胸に鼻を埋めた金蝉は、動きを止めた。
これ見よがしの半裸の姿にも関わらず、無性性の印象の強い観世音菩薩の胸は、その時確かに暖かくしっとりと金蝉を包むように触れていた。
「可笑しいなんて、思ってねえよ」
金色の頭を繊手が撫でた。
「何にも知らないお前は、それでも自分から顔を突っ込もうとしてるんだろ?」
びく、と。
金蝉の肩が揺れた。
「何も判らないから苦しんで、それでももう、顔突っ込んじまってるんだろ?」
両腕で金蝉の頭を抱え込んだ観世音菩薩は、目蓋を伏せて微笑んだ。
笑みの形の朱唇を、そっと金の輝きに押し当てる。
「可笑しくなんて、ねえよ」
金蝉の肩から力が抜け、腕がだらりと下がった。
「何が辛い?」
「判らない」
観世音菩薩の眼差しを感じながら、金蝉は目蓋を閉ざしたままだった。
「判らない……浮ついたり、かと思うと酷く……自分が何も得てないのだと、茫然としたり。自分の気持ちの上下に付いて行けない。苦しい」
垂らした金蝉の掌が、何か掴むように指を曲げ、また脱力して開いた。
「自分が判らない」
「お前は本当に莫迦だなあ」
歌うように囁きながら、観世音菩薩は髪を撫で続けた。
「何も考えずに、一番したいことを言ってみな」
「………逢いたい」
金色の睫毛が上がり、揺れながら紫玉の瞳が現れた。
「逢いたい。姿が見たい。声が聞きたい。何か伝えたかったことがあった筈だった。何か言いたかったことがあった筈だった。奴が目の前にいた時は、それがあるような気がしてた。言わなくても伝わるような気がしてた」
金蝉はゆっくりと顔を起こした。
観世音菩薩の眼差しに、縋るような目を向けた。
「今はただ、狂おしい……!」
苦しげに、眉を顰めながら。
胸の痛みに、処方箋はないんだよ。
観世音菩薩はそう囁いてから、金蝉の額を撫でた。
頬に被る髪を流してやり、乱れた髪を撫でつけ、結わえた先の流れを指で梳いた。
「行け。逢いに行け」
「……逢いに行く理由がない」
そこで先程の「余計なこと」に思い当たった観世音菩薩は、短く笑った。
観世音菩薩が軍服を返してしまわなければ、金蝉は自分で天蓬元帥の元へと届けに行ったのだろうか。
返してしまえば、その後は一体、どうする気なのだろう。
「莫迦な子ほど可愛いとは言うがなあ……」
頬を染めた金蝉が身じろぎをした。
一瞬の激昂が過ぎ、徐々に羞恥心が蘇って来たようだった。
耳まで紅く染まったその様は、観世音菩薩が見ても気の毒なほどだった。
腕がゆっくり解かれると、金蝉童子は身を離した。
髪を撫でていた繊手は、最後まで流れる金糸の滝を梳き続ける。
「『逢いたい』以外に何が要る?それが一番強い理由だろうが?」
身を起こした金蝉が、驚いたような表情で観世音菩薩を見下ろした。
その目線の先で、観世音菩薩は朱唇を笑みに引き上げながら、指に絡めた金糸に接吻けた。
「逢いに行け」
遠慮がちなノックの音がした。
主達の取り込み中な様子を伺って、それが落ち着くまで待機していたらしい。
そう思い当たってくるりと背を向けた金蝉に、しかし声が掛けられた。
「金蝉様」
「何だ」
顔を背けたままで答える。
「あの。お部屋を整えに上がった者が、これを。シーツに絡んでいたのを見つけたそうです」
小さな硬い物が、侍女の掌に載せられていた。
「軍章かと思われますが……」
言葉を最後まで聞かずに金蝉は小さなバッジに飛びついた。
硬く冷たい手触りを握り締め、観世音菩薩に勢い良く振り向く。
「……運命はお前に甘いらしいな。理由が出来たんだったら、さっさと行って来きたらどうだ?」
呆れ顔の観世音菩薩に頷き、金蝉は食堂を飛び出そうとしたが、戸口で立ち止まった。
困ったような顔で何か言いかけ、口ごもる。
「……礼とか言うと後悔するぜ?可笑しくはないが、面白がってんのは確かなんだからな」
への字に唇を曲げた金蝉は、また走り出した。
駆け出す後ろ姿を、大きな笑い声が送り出した。
「くっくっく……」
涙を流しながら観世音菩薩は笑っていた。
「『狂おしい』だって。凄え殺し文句。本人全く自覚ないってのがもう……」
紅く染め上げた指先で、滲んだ目元を拭った。
金蝉童子は弱音として、先刻の言葉を吐いた。
自分の心の内をはっきりと自覚せぬままでは、それを相手に伝えるまでには、まだまだ時間がかかるのだろう。
「本当に可愛い奴だよ、お前は……。金蝉」
「この間は何のお礼も言えませんでしたね。ありがとうございました」
通りから少し外れて、ふたり立ち止まった。
「ゆっくり眠れて」
「ああ。正しくぶっ倒れやがって」
「食事まで頂きました」
「ババァの相手させられて、ご苦労なことだったな」
「楽しかったですよ。それに本。預かっていてくれたんですね」
「礼のひとことぐらいは、言伝て行くもんだろうが」
「すいません」
苦笑する天蓬の様子を見れば、やはり観世音菩薩との食事の最中にも、何かやり取りがあったのだろうと思わずにはおれない。
方法の体で逃げ出し、言伝をするような余裕が無かったということか…?
「ババァが何を言ったか…」
「お借りした衣服を…」
ふたり、同時に出した言葉がぶつかった。
金蝉は天蓬を先に促した。
「お借りした衣服を返そうと思ったんです。サイズ見繕って頂いて、中々好評ではありましたけど、流石に勤務向きではなかったので、すぐ着替えちゃったんですが…」
手に持つ荷物を掲げたので、つい中身を覗き込む。
「………。」
「きれいだったんですけどねえ」
純白に青の牡丹が咲き乱れる長袍だった。
「これ、あなたが着たら映えるでしょうね」
「お前、自分で好評だったっていったじゃないか」
「あなたと張り合う気はないですよ、金蝉」
笑いながら、躊躇いがちに、もう一度名を呼ぶ。
「金蝉。」
逢いたかった。
どちらが囁いたのかも知れず、互いの耳に届かなかったのかも知れず。
風が音を浚っていった。
「この間は何も言えなかったから」
「そうだな」
「何かもっと伝えたいことがあった筈なんですが」
「……ああ」
「こんな衣服なんか、どうでもいいくらいの」
「……ああ?」
「荷物はどっかに預けて、ちょっとその辺歩きましょうか」
「はァ!?」
目を剥く金蝉の手を、天蓬が引いて歩き出した。
「だって、あんまり気分が良くて。天気もいいし。折角、逢いたいと思ってたあなたに逢えたんですから。服を返すついでじゃなくて、あなたに逢ったついでに服を返したいです」
「同じだろうが」
「全然違いますって」
どんどん進む天蓬の後を、金蝉は付いて行くのがやっとだった。
「天気だって、いつだって晴れてるだろうが」
「今日は格別いい天気に思えます」
「仕事は!?」
「今日は遅刻でいいです。いやですか?今日は用事が入ってて、無理そうですか?」
「……このッ。無理じゃねえよ!」
「それじゃあ……」
手を引く天蓬が振り返った。
尋ねるような柔らかい瞳だった。
ただ、掌から伝わる熱だけが、意識された。
伝わってくると思った熱が、自分の掌のものかも知れないのだと、金蝉の頬が熱くなる。
「一緒に寄り道してください」
金蝉は引かれるままに天蓬の後を追った。
道行く人々とは逆の方向に向かって、日差しの中を歩いた。
時折気遣うように振り向かれ、その度胸が高鳴った。
「もうちょっとゆっくり歩け」
「人混みを過ぎてから。それまでもう少し……」
背を見ながら、金蝉は引かれるのと反対の掌を思った。
天蓬の忘れていった軍章。
すっかり金蝉の体温と同じ温度になった、掌の中の小さな硬さ。
こんなに小さなものに縋った自分が可笑しく、衣服を返すことを口実にしたくないと言った天蓬が、嬉しかった。
「それでも今日は返してやらない」
衣服の隠しに、そっと軍章を落とし込んだ。
まだ、どんなに小さくても口実の必要な自分がいた。
逢いたいことを理由に、逢いに行けるだけの。
「……そんなことをぬけぬけとするだけの厚顔さは、まだオレにはねえんだよ」
「何か言いました?」
「何も」
人波に逆らって進みながら、金蝉は自分が微笑んでいるのかも知れないと思った。
目の前の後ろ姿は、自分だけを見ていた。
繋ぐ掌は、暖かかった。
今はそれだけでいいと、思った。