ここより永遠に - 3 - 
 金蝉童子は、自分の部屋に入ろうと扉に手を掛け、一瞬とどまった。
 今朝見た天蓬の寝顔が蘇る。
 それを振り切るように勢い良く、扉を開いた。
 当然誰の気配もない。
 昼の間に屋敷の者が入った後の、いつも通りに整えられた室内だった。
 皓々と灯された燈火を、ひとつひとつ消して行く。
 殺風景な部屋は、薄らとした灯りの方が落ち着く。
 そう思いながら、金蝉は灯りを消しつつ室内を進んだ。
「……?」
 小さな違和感に気付いた。
 窓辺の机の上にあった、古びた書物が消えていた。
「持ち帰ったか」
 天蓬が置き忘れた書物を、預かっていただけだった。
 手許にあるのを見ても、歩み去る後ろ姿を思い返すだけだった。
 それでも、読みもしないのに時折ページを捲っては、また閉じることを繰り返していた。
「元々奴の物だからな」
 机の周囲を見回しても、書き置きも何ももない。
「預かっててやったのに、礼のひとつもないのか、アイツは」
 急に腹立たしさに見舞われた金蝉は、くるりと机に背を向けると、寝室に向かって歩き出した。
 音を立てて扉を開く。

 清潔な白い四角。

 整えられた寝台には、糊の効いたシーツがぴんと張られていた。
 その真ん中に倒れ込む。
 広々とした寝台は、手足を伸ばしても何も当たらない。
 シーツはひんやり心地よく、柔らかな頬に触れてくる。
 俯せた姿勢で吐息を吐くと、体中から何かが抜け出て行くような気がした。
 伸ばした腕で、シーツの海を探った。
 掌は寂しさしか見つけられない。
「本当に本を取りに来ただけだったな、天蓬め…」
 唇に乗せた名が、震えた。
 無くなった本に気付いた時の、違和感の正体を金蝉は知った。
 喪失感だ。
 探れば探るほど広い寝台に、額を擦り付け目を瞑った。
 目蓋を閉ざすと、途端にいつかの昼の光が浮かび上がる。

 天帝居城の書庫の庭園の、穏やかな陽光と風。
 自分を置き去りにした、後ろ姿。
 見たことも聞いたこともなかった、軍人としての姿。
 自分の知らない天蓬。

 金蝉は額をシーツに強く押し付けた。
 何もかもが、掌からすり抜けて行くような気がした。
 胸が痛んだ。
 文字通りに、胸につきんと痛みが走った。
 棘が刺さったように、痛みがいつまでも後を引く。

 朝はあんなにも幸福だったのに。

 安らぐ寝顔を思い出し、自分の指に絡んだ黒髪の感触をも思い出し。 
 かり。
 金蝉は、自分の腿に残る傷跡に、衣服の上から爪を立てた。
 思った通りに、それは痛みを蘇らせた。
 痛覚は克明に夕べの出来事を記憶に再生した。

 窓から顔を出した天蓬。
 ふらつく天蓬を支えようとし、その重みが意外だったこと。
 掌に触れた軍服の外套が、硬かったこと。
 自分の上に倒れ込んだ天蓬の、呟きと共に伝わった吐息の熱さ。
 熱。
 体温。
 脈動。
 柔らかな呟き。

「朝は、幸福だったのに」 

 血に汚れ、汗と埃の匂いをさせた男が、子供のような寝顔を見せた。
 慰め方など知らぬままに、それでも優しくしてやりたいと思った。
 全てが指の間からすり抜けて、消えて行ってしまいそうだった。
 小さな傷の痛みでしか、過ぎた時間を確かめられない。
 それに気付いた胸の痛みだけが、息苦しいまでに高まって行く。

「朝は、あんなにも幸福だったのに」

 喪失感。
 何を手に入れたと、自分は思っていたのだろう。
 金蝉はそう思いながら、また腕を伸ばした。
 掻いた指は、シーツに波を作っただけで、何を掴むことも出来なかった。
 空虚な掌を、金蝉はきつく握り込んだ。
 広い寝台の真ん中で、金蝉は躯を丸めて、眠りに就いた。

 今、天蓬に逢いたかった。

 夢ばかり見る浅い眠りから、金蝉は覚醒した。
 不機嫌な表情で食堂の席に着くと、広いテーブルの向かいで新聞を広げていた観世音菩薩が、ぬけぬけと口に出す。
「Good morning.」
 甥っ子が到底そういう気分ではないことに気付きながら、鼻歌交じりで新聞を捲り続ける。
 進まない食欲を誤魔化しつつ、なんとか朝食を摂る金蝉は、昨日観世音菩薩がわざわざ自分の執務室まで伝えに来たことを思い出した。
 天蓬の軍服を届けに行ったのだと。
「余計なことばかりしやがる」
「あァ?何だ?」
「何でもない」
 到底何でもないとは言えないような表情を浮かべる甥を、観世音菩薩は暫く見つめた。
「寝不足か?」
 薄らと刷いたような目の下の隈を見れば、一目で知れる。
「夢見が悪かった?」
 ぴくりと金蝉童子の眉が上がった。
「悩み事でも?」
「万が一悩みがあっても、あんたには死んでも相談しないから安心しろ」
「俺は百戦錬磨だぞぉ?」
 開いた新聞の上から、目だけを覗かせ笑う観世音菩薩を見て、金蝉は音を立てて椅子から立ち上がった。
「何でも見てて、知ってて、何でも判ってて……!何でも可笑しくて、どこでも顔突っ込んでって……!あんたはそうなんだろうよ。誰でもがあんたと同じとは思うなよ!?放って置けよ、オレは……っ!」
 静謐が支配することの多い観世音菩薩の屋敷に、金蝉の低い叫びが響いた。
「オレは……どうせ何も判っちゃいないさ」
 一瞬の怒りに染まった頬が、青ざめる。
 観世音菩薩は新聞をテーブルに置き、立ちすくむ金蝉を眺めた。
 広いテーブルを回り、ゆっくりとした足取りで近付き、金糸の髪に掌を触れた。
「可笑しいだなんて、思っちゃいねえさ……」
「うぷ!?」
 頭の後ろから急に力を籠められて、金蝉は観世音菩薩の胸に顔を押し付けられた。
「何しやが……やめっ…!!」
 観世音菩薩もすらりと伸びた長身だが、ヒールの高いサンダルを履いた上に、更に上背のある金蝉は、無理矢理抱え込まれた頭に逃げ出そうと、腰が引けた形になる。
 胴体を突き放そうと必死で手を掛けるが、しなやかに見える観世音菩薩の腕は、しっかりと金蝉の金糸の頭を抱き締め、離そうとしない。

「金蝉」

 観世音菩薩の剥き出しに近い胸に鼻を埋めた金蝉は、動きを止めた。
 これ見よがしの半裸の姿にも関わらず、無性性の印象の強い観世音菩薩の胸は、その時確かに暖かくしっとりと金蝉を包むように触れていた。
「可笑しいなんて、思ってねえよ」
 金色の頭を繊手が撫でた。
「何にも知らないお前は、それでも自分から顔を突っ込もうとしてるんだろ?」
 びく、と。
 金蝉の肩が揺れた。
「何も判らないから苦しんで、それでももう、顔突っ込んじまってるんだろ?」
 両腕で金蝉の頭を抱え込んだ観世音菩薩は、目蓋を伏せて微笑んだ。
 笑みの形の朱唇を、そっと金の輝きに押し当てる。
「可笑しくなんて、ねえよ」
 金蝉の肩から力が抜け、腕がだらりと下がった。

「何が辛い?」
「判らない」
 観世音菩薩の眼差しを感じながら、金蝉は目蓋を閉ざしたままだった。
「判らない……浮ついたり、かと思うと酷く……自分が何も得てないのだと、茫然としたり。自分の気持ちの上下に付いて行けない。苦しい」
 垂らした金蝉の掌が、何か掴むように指を曲げ、また脱力して開いた。
「自分が判らない」
「お前は本当に莫迦だなあ」
 歌うように囁きながら、観世音菩薩は髪を撫で続けた。
「何も考えずに、一番したいことを言ってみな」
「………逢いたい」
 金色の睫毛が上がり、揺れながら紫玉の瞳が現れた。
「逢いたい。姿が見たい。声が聞きたい。何か伝えたかったことがあった筈だった。何か言いたかったことがあった筈だった。奴が目の前にいた時は、それがあるような気がしてた。言わなくても伝わるような気がしてた」
 金蝉はゆっくりと顔を起こした。
 観世音菩薩の眼差しに、縋るような目を向けた。
「今はただ、狂おしい……!」
 苦しげに、眉を顰めながら。

 胸の痛みに、処方箋はないんだよ。
 観世音菩薩はそう囁いてから、金蝉の額を撫でた。
 頬に被る髪を流してやり、乱れた髪を撫でつけ、結わえた先の流れを指で梳いた。
「行け。逢いに行け」
「……逢いに行く理由がない」
 そこで先程の「余計なこと」に思い当たった観世音菩薩は、短く笑った。
 観世音菩薩が軍服を返してしまわなければ、金蝉は自分で天蓬元帥の元へと届けに行ったのだろうか。
 返してしまえば、その後は一体、どうする気なのだろう。
「莫迦な子ほど可愛いとは言うがなあ……」
 頬を染めた金蝉が身じろぎをした。
 一瞬の激昂が過ぎ、徐々に羞恥心が蘇って来たようだった。
 耳まで紅く染まったその様は、観世音菩薩が見ても気の毒なほどだった。
 腕がゆっくり解かれると、金蝉童子は身を離した。
 髪を撫でていた繊手は、最後まで流れる金糸の滝を梳き続ける。
「『逢いたい』以外に何が要る?それが一番強い理由だろうが?」
 身を起こした金蝉が、驚いたような表情で観世音菩薩を見下ろした。
 その目線の先で、観世音菩薩は朱唇を笑みに引き上げながら、指に絡めた金糸に接吻けた。
「逢いに行け」

 遠慮がちなノックの音がした。
 主達の取り込み中な様子を伺って、それが落ち着くまで待機していたらしい。
 そう思い当たってくるりと背を向けた金蝉に、しかし声が掛けられた。
「金蝉様」
「何だ」
 顔を背けたままで答える。
「あの。お部屋を整えに上がった者が、これを。シーツに絡んでいたのを見つけたそうです」
 小さな硬い物が、侍女の掌に載せられていた。
「軍章かと思われますが……」
 言葉を最後まで聞かずに金蝉は小さなバッジに飛びついた。
 硬く冷たい手触りを握り締め、観世音菩薩に勢い良く振り向く。
「……運命はお前に甘いらしいな。理由が出来たんだったら、さっさと行って来きたらどうだ?」
 呆れ顔の観世音菩薩に頷き、金蝉は食堂を飛び出そうとしたが、戸口で立ち止まった。
 困ったような顔で何か言いかけ、口ごもる。
「……礼とか言うと後悔するぜ?可笑しくはないが、面白がってんのは確かなんだからな」
 への字に唇を曲げた金蝉は、また走り出した。
 駆け出す後ろ姿を、大きな笑い声が送り出した。

「くっくっく……」
 涙を流しながら観世音菩薩は笑っていた。
「『狂おしい』だって。凄え殺し文句。本人全く自覚ないってのがもう……」
 紅く染め上げた指先で、滲んだ目元を拭った。
 金蝉童子は弱音として、先刻の言葉を吐いた。
 自分の心の内をはっきりと自覚せぬままでは、それを相手に伝えるまでには、まだまだ時間がかかるのだろう。
「本当に可愛い奴だよ、お前は……。金蝉」

 天蓬の軍章を握り締めて、金蝉は駆けた。
 屋敷を飛び出し、天帝の城代に向かう。
 息が切れ、足が縺れた。
 徐々に足の進みが遅くなる。
「逢いたかった。オレは逢いたかった。……でも天蓬は?」
 きつく握り込んだ掌に、軍章の角が痛い。
 歩く速さにまで進みが落ちて、辺りを見回した。
 日常の、穏やかな日差しの中の光景。
 早足で進む人々が、金蝉童子の姿に気付き、慌てて礼をして行く。
 浮き立つ気持ちでいることが、途端に気恥ずかしく感じられるようになった。
「金蝉」
 それなのに。
「待って下さい、金蝉」
 近付く声に体温が上がった。
 ゆっくり振り向くと、肩に掛かっていた金糸がさらりと落ちた。
 金の煌めきに目を射られたか、眩しそうな目をする、見慣れた白衣姿の天蓬がそこにいた。

「この間は何のお礼も言えませんでしたね。ありがとうございました」
 通りから少し外れて、ふたり立ち止まった。
「ゆっくり眠れて」
「ああ。正しくぶっ倒れやがって」
「食事まで頂きました」
「ババァの相手させられて、ご苦労なことだったな」
「楽しかったですよ。それに本。預かっていてくれたんですね」
「礼のひとことぐらいは、言伝て行くもんだろうが」
「すいません」
 苦笑する天蓬の様子を見れば、やはり観世音菩薩との食事の最中にも、何かやり取りがあったのだろうと思わずにはおれない。
 方法の体で逃げ出し、言伝をするような余裕が無かったということか…?
「ババァが何を言ったか…」
「お借りした衣服を…」
 ふたり、同時に出した言葉がぶつかった。
 金蝉は天蓬を先に促した。
「お借りした衣服を返そうと思ったんです。サイズ見繕って頂いて、中々好評ではありましたけど、流石に勤務向きではなかったので、すぐ着替えちゃったんですが…」
 手に持つ荷物を掲げたので、つい中身を覗き込む。
「………。」
「きれいだったんですけどねえ」
 純白に青の牡丹が咲き乱れる長袍だった。
「これ、あなたが着たら映えるでしょうね」
「お前、自分で好評だったっていったじゃないか」
「あなたと張り合う気はないですよ、金蝉」
 笑いながら、躊躇いがちに、もう一度名を呼ぶ。
「金蝉。」

 逢いたかった。

 どちらが囁いたのかも知れず、互いの耳に届かなかったのかも知れず。
 風が音を浚っていった。
「この間は何も言えなかったから」
「そうだな」
「何かもっと伝えたいことがあった筈なんですが」
「……ああ」
「こんな衣服なんか、どうでもいいくらいの」
「……ああ?」
「荷物はどっかに預けて、ちょっとその辺歩きましょうか」
「はァ!?」
 目を剥く金蝉の手を、天蓬が引いて歩き出した。
「だって、あんまり気分が良くて。天気もいいし。折角、逢いたいと思ってたあなたに逢えたんですから。服を返すついでじゃなくて、あなたに逢ったついでに服を返したいです」
「同じだろうが」
「全然違いますって」
 どんどん進む天蓬の後を、金蝉は付いて行くのがやっとだった。
「天気だって、いつだって晴れてるだろうが」
「今日は格別いい天気に思えます」
「仕事は!?」
「今日は遅刻でいいです。いやですか?今日は用事が入ってて、無理そうですか?」
「……このッ。無理じゃねえよ!」
「それじゃあ……」
 手を引く天蓬が振り返った。
 尋ねるような柔らかい瞳だった。
 ただ、掌から伝わる熱だけが、意識された。
 伝わってくると思った熱が、自分の掌のものかも知れないのだと、金蝉の頬が熱くなる。
「一緒に寄り道してください」

 金蝉は引かれるままに天蓬の後を追った。
 道行く人々とは逆の方向に向かって、日差しの中を歩いた。
 時折気遣うように振り向かれ、その度胸が高鳴った。
「もうちょっとゆっくり歩け」
「人混みを過ぎてから。それまでもう少し……」
 背を見ながら、金蝉は引かれるのと反対の掌を思った。
 天蓬の忘れていった軍章。
 すっかり金蝉の体温と同じ温度になった、掌の中の小さな硬さ。
 こんなに小さなものに縋った自分が可笑しく、衣服を返すことを口実にしたくないと言った天蓬が、嬉しかった。
「それでも今日は返してやらない」
 衣服の隠しに、そっと軍章を落とし込んだ。
 まだ、どんなに小さくても口実の必要な自分がいた。
 逢いたいことを理由に、逢いに行けるだけの。
「……そんなことをぬけぬけとするだけの厚顔さは、まだオレにはねえんだよ」

「何か言いました?」
「何も」

 人波に逆らって進みながら、金蝉は自分が微笑んでいるのかも知れないと思った。
 目の前の後ろ姿は、自分だけを見ていた。
 繋ぐ掌は、暖かかった。
 今はそれだけでいいと、思った。















 続く 







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◆ note ◆
金蝉、3歩前進2歩下がるの巻