ここより永遠に - 2 - 
 金蝉童子の執務室の扉が、ノックもなく開かれた。
「よお」
 観世音菩薩だった。
 部屋の主の返事も待たずに入り込み、金蝉が書類を広げる執務机の端に腰を掛けた。
 風圧で捲れた書類を抑える金蝉の、形の良い鼻に皺が寄った。
 観世音菩薩はその表情を満足げに眺めてから、抱え込んでいた新聞を広げ読み出した。
「何なんだ」
「んーーー?」
 怒りの成分の滲む低い声に、新聞の影から鼻歌交じりの生返事が返される。
 新聞を捲る乾いた音が続き、金蝉は観世音菩薩を無視して、執務に戻ることにした。

 重要書類を躯の正面に置き、丁寧に朱肉を馴染ませた印を捺す。
 滲みもなく捺された印は、金蝉の基準にすると、ほんの僅かに角度が曲がっていた。
「心の動揺が、現れたな」
 指摘する声にキッと視線を向けたが、観世音菩薩は新聞に顔を埋めたままだった。
「あんたの所為で気が散るんだよ。用事がないなら出て行ってくれ。仕事の邪魔だ」
「冷てえな。来客に茶も出ねえとは、オレの躾がなってなかったということか」
「塩なら撒いてやるが?」
「やれやれ、出来もしねえことを…」
 金蝉の頬が怒りに紅潮した。
「可愛い甥っ子の顔を、見に来ただけだよ。…ちょーっと、お届け物したついでにな」
 金蝉が何か言い出す前に、観世音菩薩は畳んだ新聞を脇に抱え、執務机から離れた。
「大した用事じゃなかったんだが。このオレがお届け物の、遣いっパしたってのが、貴重だろ?」
「ハァ!?」
 話の見えぬ金蝉を置いてきぼりにして、観世音菩薩は部屋から出て行こうとした。
 が。
 扉の前でくるりと振り向き、にやりと笑った。
「朝。」
 勿体をつけるように、一呼吸おいた。
「お前が屋敷を出てすぐに、天蓬元帥がお目覚めでな」
「……。それで?」
 金蝉の静かさを装う声に、観世音菩薩の眉が、片方だけ上がった。
「朝食を食わせてやるように、お前、屋敷の者に言い付けておいただろう?だから、ちゃあんとメシを食わせてやったさ。オレも一緒にな」
「軽い食事を、部屋に持って行ってやれと言ったのに……」
「ちゃんと、消化のよさそうなモノを出してやったよ。風呂にも入らせたし、着替えも出した」

 ああ。そうなのか。

 金蝉は、素直にそう顔に出した。
 天蓬が、躯を休めることが出来、清潔に食事を摂ることも出来たのだと。
 素直に目元を和らげた。
 観世音菩薩は、それを興味深げな表情を浮かべ見ていた。

 小鳥の鳴く声が近く遠くに聞こえていた。
 室内が明るむ気配に、金蝉は薄らと目を開いた。
 流れる黒髪と、硬く閉ざされた目蓋を縁取る黒い睫毛。
 触れかかりそうな吐息。
 同じ寝台に休む天蓬の顔が、すぐ目の前にあった。
 金蝉は目を伏せた。
 天蓬の瞳が今にも開くのではないかという気がして、長く見つめていられなかった。

 眠りを妨げないように、細心の注意で起き上がり、寝台を降りた。
 浅い眠りが途切れ途切れに続いただけで、眠る前よりも躯に疲労感が貯まっていた。
 自分の寝台を独占する男に、金蝉は恨めしげな視線を送った。
 夕べ気付いた、天蓬の目の下の隈は消えていた。
 寝顔は酷く平和そうに、呑気そうに見えた。
 一晩の睡眠が浅いだけで気怠いという、自分の体たらくが、金蝉には無性に腹立たしかった。
 八つ当たりに、天蓬の頭を殴って叩き起こそうかとも思った。
 黒髪に向かって振り上げた手は、しかし宙に留まると優しく降りていった。
 一瞬だけ、触れた。
 金蝉の指先が黒髪に触れ、撫でるように動いた。
 夕べ寝台に並んでいた時に接することの出来なかった手が、朝の光の中で漸く天蓬に触れた。
 単に、寝潰れた友人が、朝寝坊をしているだけだ。
 そう思おうとしている自分に気付き、金蝉は手を自分の胸に慌てて引き付けた。
「くだらん」
 金蝉は大股で寝室の続きの浴室に向かった。

 落ち着かなかった。
 暗闇の中で天蓬に触れること出来なかった自分が、妙に気恥ずかしかった。
 自分の部屋で眠る天蓬が、朝の光に暴かれていることが、今更ながらに居心地の悪さを感じさせた。
 浴室の戸をきっちりと閉め、金蝉は扉に背を預けた。
 自分はあの部屋の主であるのに。
 また頬が熱く感じられた。
 鏡を見なくとも、自分がどれだけ滑稽な顔をしているのかが判るようだった。

 シャワーを浴びようと、金蝉は手荒く衣服を脱ぎ捨てた。
 寝室と同程度の広さのある浴室は、白を基調に、大きく窓を取った明るい部屋だった。
 リネン類やローブを納めた白いクロゼット。
 明るく陽光を反射する大きな鏡と、沢山の引出しがある洗面台。
 ひとつだけおかれた華奢な椅子。
 トイレットブースと、バスタブ。
 ガラスで囲われたシャワーブース。
 何の飾りもなく、ただ、清潔に明るかった。
 金蝉は衣服を床に落とすと、シャワーブースに向かった。
 熱い湯を浴びて、気怠さを追い出してしまいたかった。
 躯にまとわりついている、どこか甘いような、息苦しいような、そんな気分をさっぱりと洗い流してしまいたかった。
 素足で白い部屋を横切ると、ひやりとした感触が床から伝わった。
 目を遣るまいとしていても、広い鏡に、陽光と同じ色の長い髪が映るのが、視界に入る。
 太陽の白い光のような硬質な輝きが、ややぎこちない歩みに従い柔らかくなびき、滑らかな裸身に絡んでいた。

 シャワーブースに入った金蝉は、勢い良くコックを捻り、熱い湯を躯に叩き付けた。
 痛いほどの熱さが、金蝉を包んだ。
 きつく瞑った目蓋を、唇を、湯が叩き、流れて落ちて行く。
 長い髪が濡れ、頭蓋や項に貼り付き、華奢な姿を覆い隠した。
 白い指が髪に潜り掻き上げたが、後から後から流れる湯が、金糸を滝のように落として行く。
 金蝉は溜息をついた。
 熱い湯が、自分と周囲とを隔絶してくれるような気がして、安堵感を覚えた。
「……痛っ……?」
 小さな痛みに、視線を落とした。

 薄い引っ掻き傷。

 筋肉の付きにくい金蝉の腿の中程に、斜めに細く掻いた傷があった。
 濡れて透明感を増した素肌が、熱いシャワーの上気を透かしていた。
 常の、静脈の蒼さを映した色合いではなく、ミルクのような温度を感じさせる肌の、伸びた腿の中程に、それはあった。
 思わず腕を伸ばした金蝉は、傷に触れた瞬間に、また小さな痛みを感じた。
「あ……」
 昨夜の記憶が蘇った。

 碌な休憩も摂らずにいた天蓬は、倒れ込むように眠りに就いた。
 躯を支えていた自分は、すっかり押し潰されて寝台に縫いつけられた。
 自分の絹の薄衣とも、普段見慣れた天蓬のこなれた白衣とも違う、ごわごわと硬い手触りの軍服が、自分の上にのし掛かった。
「……痛ッ」
 一瞬痛みを感じたものの、その後の天蓬の小さな呟きが悲しく、自分のことなどすっかり忘れ果てていた。

 針で線を描いたような薄い傷の周囲を、淡い紅が彩っていた。
 傷は血を滲ませることもなく、意識をした途端に、熱い湯にずきずきと自己主張を始める。
 金蝉は掌をきつく押し当てた。
 湯が当たらなければ、傷は痛まない。
 ゆっくりと手を離し、自分でも気付かぬくらいに、痛みに慣れて行けばよい。
 幼い頃に転倒して作った、膝小僧の傷のように、真剣に掌で覆い、慎重に離して行く。
 傷の端が現れた途端、水滴が腿を伝った。
「あっ……痛っ……」
 傷口を押さえても、痛覚は去らずに金蝉の躯を巡るだけだった。 

 見慣れぬ黒い軍服姿の天蓬。
 汗と埃の匂い。
 こびり付いた返り血。
 掌に痛いくらいに、ごわついた軍服の外套。
 部下の報告を質す、聞いたこともないような無駄の無い口調。

「ではまた。 ―――― 金蝉」
突然に呼びかけられた、柔らかに染み込む自分の名。
 その時の声。

「綺麗な麒麟でした」
 自分が手に掛け、封印した麒麟を思い返した、苦い微笑み。

 疲れ果てて眠る天蓬の、汚れた手の甲に、唇を押し当てた自分。

「……痛……い……っ」
 小さな痛みだった。
 無視できるような、微かな痛みだった。
 それが、体中の神経を巡り、広がって行く。
 下がって、ひんやりとしたガラスの壁に躯を押し付けた。
 上気する躯を、冷やしたかった。
 躯を濡らす熱から、逃げ出したいと思った。
 ずきずきと、痛みは広がる一方だった。
「こんなのは……イヤだ……」
 痛む腿の傷痕を押さえ、肋の透ける胴に腕を回した。
 狭いシャワーブースの隅に、金蝉は自分の躯を抱え込むようにくずおれた。
 籠もる湯気が、金蝉を包んだ。

 ガラスの壁に頭を押し付けた金蝉は、水滴の当たる音を、振動で聞いた。
 気付けば、自分がぺたりと座り込んだ床も、タイルを叩く振動が、躯を通して伝わってきていた。
 水の落ちる、涼やかな振動。
 規則的に。
 不規則に。
 金蝉の視界に、曇ったガラスに水滴が長く軌跡を描いて落ちて行くのが映った。
 涙のようだった。

「麒麟が啼いているのが判ってて、眠ってなんていられなかった」
「僕はこの手にかけた」

 血に汚れた自分の掌を見て、苦く微笑んだ天蓬。
 そのまま眠りに落ちた、今まで自分が知っていると信じていたのとは、違う男。
 呟くような声は、自分の名を呼ぶ声とは違うものだった。
 いつも微笑みながら呼ぶ、あの柔らかな声とは違うものだった。
 小さな子供の泣き声のような。
 心の、柔らかいところから洩れた声だった。

 立ち上がった金蝉の、金色の髪をシャワーは叩いた。
 熱い湯が、髪を濡らし、額に流れた。
 髪と同じ色の眉で少し留まり、睫毛にまで流れる。
 金蝉が瞬くと、睫毛に留まった水滴が、小さくはじけて何処かに飛んだ。

 泣き方など、知らない。
 幼い頃は、転べば痛みに泣いたのだろうが。
 痛みを訴える方法など、疾うに忘れ果ててしまっていた。
 幼い泣き声で、痛みを慰撫してくれと訴えた、そんな自分のことなどは記憶の隅にも残っていなかった。

「涙の流し方なんか、オレは知らない」
 涙の流し方も、それを拭う方法も。

 多分、天蓬も。

 大人はどうやって泣くのだろう。
 どこで、泣けばよいのだろう。
 ガラスの扉を押し開き、金蝉は日差しの差し込む窓に向かった。
 長い髪から水が滴り落ち、それが金蝉の足跡に従った。
 柔らかなタオルを手に取り、窓辺に寄り掛かる。
 広々とした敷地の、奥の屋敷の窓からは、周囲に巡らせた木々の緑と空の青しか目に入らなかった。
 風が素肌を撫でた。
 躯に籠もった熱が奪われて行くのが、心地よかった。
 ばさり。
 荒い動作でタオルを頭から被り、窓枠に頭を預けて目を瞑る。

『何しにここに来たんだ』

 眠る前に浮かんだ疑問を思い返した。
 理由があってもなくても、構わないような気がしていた。
 泣き方を知らない天蓬が、自分の所へ来た。
 躯と心が傷付いている時に、自分の所へ。
「泣き方も、慰め方も、オレは知らない」
 それでも。
 天蓬が自分を訪れたことを ――――

 金蝉は目蓋を上げた。
 朝早い太陽の光が、金色の睫毛が縁取る紫色の瞳を射た。
 白い浴室にも光が溢れ、窓に寄り掛かる金蝉も、その躯にまとわりつく金糸の髪も、ただ眩しさの中に呑み込まれて行った。

「お前が出てってすぐ、覗きに行ったんだ。天界東方軍元帥が、寝惚けて寝台に座り込んでるサマは、間抜けだったぞ?」
「……勝手にヒトの部屋に入るなよ」
 震えを堪えながらの金蝉の声も気にせずに、観世音菩薩は、天蓬の寝惚け顔や寝癖のことを楽しげに語り続けた。
「で、風呂に行けってケツ蹴り飛ばして」
「人前ではケツとか言うなよ」
「そのままのカッコで帰ろうとしやがるから、服ひん剥いてやって」
 金蝉の方が、目をひん剥いた。
「途中で、自分で脱ぐからって部屋から追い出されたけど」
「ババァ……」
「取り敢えず、汚れた服は奪ってクリーニングして、きれーな着替え与えて、メシ食った」
 楽しげに語る観世音菩薩に、金蝉の気力が尽きた。

「……で。それでどうしたと言うんだ。珍しく善行を積んだから、それを甥に語りに来たのか?ホメてやるから。ああ、慈悲深い観世音菩薩らしい行いでございました、だ!」
「ちげーよ」
 観世音菩薩の笑顔が益々深くなった。
「クリーニング済みの軍服を、元帥閣下の登営なさるお部屋まで、直々にお届けに上がったのさ。何せ、普段がアレな元帥が、朝帰りでこざっぱりした姿で現れたもんだから、軍部の噂の飛び交い様ったら、面白いのなんの……」
 喜々として語る観世音菩薩に、金蝉童子は冷たい視線を投げた。
「それで?」
「ちゃあんと、金蝉童子からのお届け物だって、宣伝して来てやったから」
「はァ!?」
「噂話は無責任に流しちゃいけねえよって。元帥閣下の朝帰りのお相手がお前だって、印象付けて来てやったからな。ありがたがれ」
 観世音菩薩は、ここで金蝉童子が頬を紅潮させて怒鳴り出すことを予想していた。
 否。
 期待していた。
「………。」
「………。」
「………?」
「………?」
「あんたの話のどこが有り難いのか、それとも可笑しいのかが、よく判らんのだが」
「………。」
 数百年振りに、観世音菩薩は絶句した。
 無垢にも程があった。
「……『朝帰り』」
「『朝に帰ること』?」
 自分の教育に偏りがあったことに気付いた観世音菩薩は、速やかに情報を正そうとした。
「『朝帰り』には、朝帰るだけの理由があってな!この言葉の主眼は『夜』なんだよ!」
「夜も朝も、オレの知ったことかよ!?」
「……やめた。冗談やお笑い事を解説するほど、ツマランことはない」
 それに。
 これはまた、さらに面白い観察が出来るのかもしれない。
 天蓬元帥には気の毒なことだが、まあ、このくらいでへこたれるようでは、そもそも金蝉童子の相手はつとまらないだろうし。
「邪魔したな」
「ババァ、てめェ!?放置か!?本当に邪魔だけしに来やがったな!!」
 ひらひらと掌を振る後ろ姿は、すぐに扉の影に消え去った。
「……一体、何だったんだ」
 ひと通り激昂した金蝉は、椅子に座り込んで脱力した。
 疲労を感じる出来事が、次から次へと押し寄せて来る。
 その元凶とも言える深夜の闖入者を思い出し、への字に引かれていた唇が、薄くほころんだ。

 ローブを纏って浴室から出た後も、金蝉は天蓬の眠る横顔しか見ることが出来なかった。
 覗き込んだ天蓬の、顔色がよくなったことが、嬉しかった。
 何か言葉がわき上がりそうだった。
 伝えたい何かを感じた。
 眠る相手に声を掛ける訳にもゆかず、自分の想い自体を言葉に変換することも叶わずに、金蝉は天蓬の髪に触れた。
 今度は躊躇い無く触れ、黒い髪に指を挿し込み撫で梳かした。

 柔らかな慰撫を感じた天蓬が、眠りながら微笑んだ。

 武将を乗せた麒麟が天を駆けていた。
「ああ。これは夢だ」
 天蓬はそう想いながらも、麒麟の姿から目を離すことが出来なかった。
 それをともに眺めていた誰かが、天蓬の髪を撫でた。
 風の中、ふたりはいつまでも寄り添っていた。
 天蓬が目覚めた時、欠落した夢の記憶には、なびく金色の輝きだけが残っていた。














 続く 







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◆ note ◆
天蓬と金蝉。
浮世離れしちゃってるふたりを、少しずつ書いて行きたいです
……時間軸行ったり来たりで、判りづらかったらゴメンナサイです