重要書類を躯の正面に置き、丁寧に朱肉を馴染ませた印を捺す。
滲みもなく捺された印は、金蝉の基準にすると、ほんの僅かに角度が曲がっていた。
「心の動揺が、現れたな」
指摘する声にキッと視線を向けたが、観世音菩薩は新聞に顔を埋めたままだった。
「あんたの所為で気が散るんだよ。用事がないなら出て行ってくれ。仕事の邪魔だ」
「冷てえな。来客に茶も出ねえとは、オレの躾がなってなかったということか」
「塩なら撒いてやるが?」
「やれやれ、出来もしねえことを…」
金蝉の頬が怒りに紅潮した。
「可愛い甥っ子の顔を、見に来ただけだよ。…ちょーっと、お届け物したついでにな」
金蝉が何か言い出す前に、観世音菩薩は畳んだ新聞を脇に抱え、執務机から離れた。
「大した用事じゃなかったんだが。このオレがお届け物の、遣いっパしたってのが、貴重だろ?」
「ハァ!?」
話の見えぬ金蝉を置いてきぼりにして、観世音菩薩は部屋から出て行こうとした。
が。
扉の前でくるりと振り向き、にやりと笑った。
「朝。」
勿体をつけるように、一呼吸おいた。
「お前が屋敷を出てすぐに、天蓬元帥がお目覚めでな」
「……。それで?」
金蝉の静かさを装う声に、観世音菩薩の眉が、片方だけ上がった。
「朝食を食わせてやるように、お前、屋敷の者に言い付けておいただろう?だから、ちゃあんとメシを食わせてやったさ。オレも一緒にな」
「軽い食事を、部屋に持って行ってやれと言ったのに……」
「ちゃんと、消化のよさそうなモノを出してやったよ。風呂にも入らせたし、着替えも出した」
ああ。そうなのか。
金蝉は、素直にそう顔に出した。
天蓬が、躯を休めることが出来、清潔に食事を摂ることも出来たのだと。
素直に目元を和らげた。
観世音菩薩は、それを興味深げな表情を浮かべ見ていた。
眠りを妨げないように、細心の注意で起き上がり、寝台を降りた。
浅い眠りが途切れ途切れに続いただけで、眠る前よりも躯に疲労感が貯まっていた。
自分の寝台を独占する男に、金蝉は恨めしげな視線を送った。
夕べ気付いた、天蓬の目の下の隈は消えていた。
寝顔は酷く平和そうに、呑気そうに見えた。
一晩の睡眠が浅いだけで気怠いという、自分の体たらくが、金蝉には無性に腹立たしかった。
八つ当たりに、天蓬の頭を殴って叩き起こそうかとも思った。
黒髪に向かって振り上げた手は、しかし宙に留まると優しく降りていった。
一瞬だけ、触れた。
金蝉の指先が黒髪に触れ、撫でるように動いた。
夕べ寝台に並んでいた時に接することの出来なかった手が、朝の光の中で漸く天蓬に触れた。
単に、寝潰れた友人が、朝寝坊をしているだけだ。
そう思おうとしている自分に気付き、金蝉は手を自分の胸に慌てて引き付けた。
「くだらん」
金蝉は大股で寝室の続きの浴室に向かった。
落ち着かなかった。
暗闇の中で天蓬に触れること出来なかった自分が、妙に気恥ずかしかった。
自分の部屋で眠る天蓬が、朝の光に暴かれていることが、今更ながらに居心地の悪さを感じさせた。
浴室の戸をきっちりと閉め、金蝉は扉に背を預けた。
自分はあの部屋の主であるのに。
また頬が熱く感じられた。
鏡を見なくとも、自分がどれだけ滑稽な顔をしているのかが判るようだった。
シャワーを浴びようと、金蝉は手荒く衣服を脱ぎ捨てた。
寝室と同程度の広さのある浴室は、白を基調に、大きく窓を取った明るい部屋だった。
リネン類やローブを納めた白いクロゼット。
明るく陽光を反射する大きな鏡と、沢山の引出しがある洗面台。
ひとつだけおかれた華奢な椅子。
トイレットブースと、バスタブ。
ガラスで囲われたシャワーブース。
何の飾りもなく、ただ、清潔に明るかった。
金蝉は衣服を床に落とすと、シャワーブースに向かった。
熱い湯を浴びて、気怠さを追い出してしまいたかった。
躯にまとわりついている、どこか甘いような、息苦しいような、そんな気分をさっぱりと洗い流してしまいたかった。
素足で白い部屋を横切ると、ひやりとした感触が床から伝わった。
目を遣るまいとしていても、広い鏡に、陽光と同じ色の長い髪が映るのが、視界に入る。
太陽の白い光のような硬質な輝きが、ややぎこちない歩みに従い柔らかくなびき、滑らかな裸身に絡んでいた。
シャワーブースに入った金蝉は、勢い良くコックを捻り、熱い湯を躯に叩き付けた。
痛いほどの熱さが、金蝉を包んだ。
きつく瞑った目蓋を、唇を、湯が叩き、流れて落ちて行く。
長い髪が濡れ、頭蓋や項に貼り付き、華奢な姿を覆い隠した。
白い指が髪に潜り掻き上げたが、後から後から流れる湯が、金糸を滝のように落として行く。
金蝉は溜息をついた。
熱い湯が、自分と周囲とを隔絶してくれるような気がして、安堵感を覚えた。
「……痛っ……?」
小さな痛みに、視線を落とした。
薄い引っ掻き傷。
筋肉の付きにくい金蝉の腿の中程に、斜めに細く掻いた傷があった。
濡れて透明感を増した素肌が、熱いシャワーの上気を透かしていた。
常の、静脈の蒼さを映した色合いではなく、ミルクのような温度を感じさせる肌の、伸びた腿の中程に、それはあった。
思わず腕を伸ばした金蝉は、傷に触れた瞬間に、また小さな痛みを感じた。
「あ……」
昨夜の記憶が蘇った。
碌な休憩も摂らずにいた天蓬は、倒れ込むように眠りに就いた。
躯を支えていた自分は、すっかり押し潰されて寝台に縫いつけられた。
自分の絹の薄衣とも、普段見慣れた天蓬のこなれた白衣とも違う、ごわごわと硬い手触りの軍服が、自分の上にのし掛かった。
「……痛ッ」
一瞬痛みを感じたものの、その後の天蓬の小さな呟きが悲しく、自分のことなどすっかり忘れ果てていた。
針で線を描いたような薄い傷の周囲を、淡い紅が彩っていた。
傷は血を滲ませることもなく、意識をした途端に、熱い湯にずきずきと自己主張を始める。
金蝉は掌をきつく押し当てた。
湯が当たらなければ、傷は痛まない。
ゆっくりと手を離し、自分でも気付かぬくらいに、痛みに慣れて行けばよい。
幼い頃に転倒して作った、膝小僧の傷のように、真剣に掌で覆い、慎重に離して行く。
傷の端が現れた途端、水滴が腿を伝った。
「あっ……痛っ……」
傷口を押さえても、痛覚は去らずに金蝉の躯を巡るだけだった。
見慣れぬ黒い軍服姿の天蓬。
汗と埃の匂い。
こびり付いた返り血。
掌に痛いくらいに、ごわついた軍服の外套。
部下の報告を質す、聞いたこともないような無駄の無い口調。
「ではまた。 ―――― 金蝉」
突然に呼びかけられた、柔らかに染み込む自分の名。
その時の声。
「綺麗な麒麟でした」
自分が手に掛け、封印した麒麟を思い返した、苦い微笑み。
疲れ果てて眠る天蓬の、汚れた手の甲に、唇を押し当てた自分。
「……痛……い……っ」
小さな痛みだった。
無視できるような、微かな痛みだった。
それが、体中の神経を巡り、広がって行く。
下がって、ひんやりとしたガラスの壁に躯を押し付けた。
上気する躯を、冷やしたかった。
躯を濡らす熱から、逃げ出したいと思った。
ずきずきと、痛みは広がる一方だった。
「こんなのは……イヤだ……」
痛む腿の傷痕を押さえ、肋の透ける胴に腕を回した。
狭いシャワーブースの隅に、金蝉は自分の躯を抱え込むようにくずおれた。
籠もる湯気が、金蝉を包んだ。
「麒麟が啼いているのが判ってて、眠ってなんていられなかった」
「僕はこの手にかけた」
血に汚れた自分の掌を見て、苦く微笑んだ天蓬。
そのまま眠りに落ちた、今まで自分が知っていると信じていたのとは、違う男。
呟くような声は、自分の名を呼ぶ声とは違うものだった。
いつも微笑みながら呼ぶ、あの柔らかな声とは違うものだった。
小さな子供の泣き声のような。
心の、柔らかいところから洩れた声だった。
立ち上がった金蝉の、金色の髪をシャワーは叩いた。
熱い湯が、髪を濡らし、額に流れた。
髪と同じ色の眉で少し留まり、睫毛にまで流れる。
金蝉が瞬くと、睫毛に留まった水滴が、小さくはじけて何処かに飛んだ。
泣き方など、知らない。
幼い頃は、転べば痛みに泣いたのだろうが。
痛みを訴える方法など、疾うに忘れ果ててしまっていた。
幼い泣き声で、痛みを慰撫してくれと訴えた、そんな自分のことなどは記憶の隅にも残っていなかった。
「涙の流し方なんか、オレは知らない」
涙の流し方も、それを拭う方法も。
多分、天蓬も。
『何しにここに来たんだ』
眠る前に浮かんだ疑問を思い返した。
理由があってもなくても、構わないような気がしていた。
泣き方を知らない天蓬が、自分の所へ来た。
躯と心が傷付いている時に、自分の所へ。
「泣き方も、慰め方も、オレは知らない」
それでも。
天蓬が自分を訪れたことを ――――
金蝉は目蓋を上げた。
朝早い太陽の光が、金色の睫毛が縁取る紫色の瞳を射た。
白い浴室にも光が溢れ、窓に寄り掛かる金蝉も、その躯にまとわりつく金糸の髪も、ただ眩しさの中に呑み込まれて行った。
「……で。それでどうしたと言うんだ。珍しく善行を積んだから、それを甥に語りに来たのか?ホメてやるから。ああ、慈悲深い観世音菩薩らしい行いでございました、だ!」
「ちげーよ」
観世音菩薩の笑顔が益々深くなった。
「クリーニング済みの軍服を、元帥閣下の登営なさるお部屋まで、直々にお届けに上がったのさ。何せ、普段がアレな元帥が、朝帰りでこざっぱりした姿で現れたもんだから、軍部の噂の飛び交い様ったら、面白いのなんの……」
喜々として語る観世音菩薩に、金蝉童子は冷たい視線を投げた。
「それで?」
「ちゃあんと、金蝉童子からのお届け物だって、宣伝して来てやったから」
「はァ!?」
「噂話は無責任に流しちゃいけねえよって。元帥閣下の朝帰りのお相手がお前だって、印象付けて来てやったからな。ありがたがれ」
観世音菩薩は、ここで金蝉童子が頬を紅潮させて怒鳴り出すことを予想していた。
否。
期待していた。
「………。」
「………。」
「………?」
「………?」
「あんたの話のどこが有り難いのか、それとも可笑しいのかが、よく判らんのだが」
「………。」
数百年振りに、観世音菩薩は絶句した。
無垢にも程があった。
「……『朝帰り』」
「『朝に帰ること』?」
自分の教育に偏りがあったことに気付いた観世音菩薩は、速やかに情報を正そうとした。
「『朝帰り』には、朝帰るだけの理由があってな!この言葉の主眼は『夜』なんだよ!」
「夜も朝も、オレの知ったことかよ!?」
「……やめた。冗談やお笑い事を解説するほど、ツマランことはない」
それに。
これはまた、さらに面白い観察が出来るのかもしれない。
天蓬元帥には気の毒なことだが、まあ、このくらいでへこたれるようでは、そもそも金蝉童子の相手はつとまらないだろうし。
「邪魔したな」
「ババァ、てめェ!?放置か!?本当に邪魔だけしに来やがったな!!」
ひらひらと掌を振る後ろ姿は、すぐに扉の影に消え去った。
「……一体、何だったんだ」
ひと通り激昂した金蝉は、椅子に座り込んで脱力した。
疲労を感じる出来事が、次から次へと押し寄せて来る。
その元凶とも言える深夜の闖入者を思い出し、への字に引かれていた唇が、薄くほころんだ。
ローブを纏って浴室から出た後も、金蝉は天蓬の眠る横顔しか見ることが出来なかった。
覗き込んだ天蓬の、顔色がよくなったことが、嬉しかった。
何か言葉がわき上がりそうだった。
伝えたい何かを感じた。
眠る相手に声を掛ける訳にもゆかず、自分の想い自体を言葉に変換することも叶わずに、金蝉は天蓬の髪に触れた。
今度は躊躇い無く触れ、黒い髪に指を挿し込み撫で梳かした。
柔らかな慰撫を感じた天蓬が、眠りながら微笑んだ。