柔らかな陽光が、四阿の周囲に満ちていた。
風は花の香りを運んでいた。
取り残された金蝉は、明るみの中で胸に空虚なものを感じていた。
ぼんやりとした喪失感。
あんな天蓬は、自分は知らない。
無意識に胸を押さえた手を、下ろした。
天蓬が置き忘れた本に、手が触れた。
「金蝉」
掛けられた声に立ち上がると、椅子が後ろに倒れた。
夜半に物音が響くことなど、気にもならなかった。
「天蓬!一体、お前……!」
窓の外に天蓬が立っていた。
埃にまみれた軍服姿で、頬には血がこびり付いていた。
金蝉は窓に駈けより扉を押し開いた。
「怪我を、しているのか…?」
土埃に白茶けた外套にも軍靴にも、どす黒いものが点々と飛んでいた。
「手当てをするから入って来い。今すぐ鍵を開けさせるから正面に回って……」
人を呼びに駆け出そうとした金蝉の手首が掴まれた。
「金蝉、金蝉」
困ったような笑顔だった。
「僕の血じゃ、ないんです。金蝉」
見慣れたものとも、先日自分を取り残した時のものとも、違う顔だった。
それでも。
囁くように呼ばれた自分の名は、金蝉の耳に柔らかく馴染んだ。
「入ってもいいですか?」
「ああ。」
金蝉の返事を聞き、天蓬は窓枠に手を掛け、ひらりと身を翻して室内に入り込んだ。
「表に回るのが面倒臭くて。……この窓が最短距離なんですよ」
金蝉の咎めたてる目つきに、天蓬は言い訳めいた口調で応えた。
「ちょっと体力消耗が激しくて、大回りする気力が……あれ?」
語尾の音が半オクターブ上がった。
天蓬の躯が傾いだのだった。
慌てて天蓬を支えようとした金蝉がもろ共によろめいたが、幸い側にあった机に手を突き、二人揃っての転倒は免れた。
「天蓬!?お前やっぱり怪我をしているんじゃ……!?」
「違います。ただ不眠不休で流石に電池切れしちゃってる……みたい、な……んで、す。」
天蓬の語尾が、また縒れった。
「お前、いいから休め。寝台まで、何としてでも歩け」
「すいません。でも床でいいで……す」
金蝉童子は天蓬を脇から支え、なんとか寝室まで向かおうとした。
「……汗臭いな。大勢いるんだから、交替くらいは取れただろうに。休息取る為の悪知恵くらい、簡単に捻り出せるだろうに」
「あはは。」
笑いながら、天蓬の膝が沈んだ。
「おいっ!?」
ぎりぎり寝台の端に、二人の躯が縺れながら倒れ込んだ。
へたり込んだ金蝉の胴の上に、天蓬が俯せにのし掛かる。
天蓬の躯に敷かれた金蝉の、纏う薄衣にごわつく外套がざらりと引っ掛かった。
「……痛ッ」
「……寝てなんて……られなかった」
金蝉の胴に突っ伏した天蓬が呟いた。
「麒麟が啼いているのが判ってて、眠ってなんていられなかった」
金蝉は後ろに肘を突いて、上体を起こそうとした。
僅かに上がった角度から、天蓬の横顔が見下ろせた。
血に汚れ、先日会った時から少し、頬がそげたようだった。
『不眠不休』との言葉に、嘘はないのだろうと金蝉は思った。
「漸く見つけて……僕はこの手に、かけた」
蒼く、薄く隈の出来た目元が瞬きをした。
金蝉の見守る前で、自分の掌を眺めた天蓬が、微笑みを浮かべた。
掌には、赤茶色いものがこびり付いていた。
「綺麗な麒麟でした」
それきり天蓬は目蓋を閉ざし、規則的な呼吸だけが部屋に満ちた。
天界人の殺生は、闘神にしか許されない。
それ故天界軍の任務とて、対象を殺害することはあり得ない。
対象を身動き取れぬようにしておいて、呪術で封印するのが関の山だ。
対象を絡め取る為の道具ならば、天界には山ほどもある。
が、それも。
人と変わらぬ知恵と感情を持ち、哀しみに猛り狂った麒麟には、望んだ効果がなかったのだろう。
金蝉は、天蓬の髪を、そっと撫でた。
天蓬元帥と別れてすぐに、金蝉童子は噂を聞いた。
普段どんな噂も気に留めぬ金蝉だが、それが別れたばかりの男の任務と関係があるらしいと気付き、流石に耳を傾けた。
天帝が下界の人間に与えた麒麟が、暴走しているのだという。
「下界の、人間風情に扱えるようなモノでは、なかったのだろうさ」
見下したような言い種が、金蝉の神経を逆撫でた。
下界で、人間技とも思えぬ武勲を立てた武将に、天帝が気紛れに与えた褒美だったのだという。
神から与えられた美しい麒麟を、下界の人々は畏怖し、尊んだ。
武将は麒麟を可愛がり、武勲を挙げ続け。
誇り高い麒麟も、武将に忠実に従い。
共に幾つもの戦場を駆け抜け。
短い寿命の人間が、その人生を焉じた時、麒麟は悲痛な啼き声を挙げた。
天を駈け、海を渡り、喉が裂けても叫び続けた。
啼き声は雷鳴を呼び、涙は嵐を引き起こした。
地上は荒れ、麒麟の蹄の立てる轟きが、響き渡って地鳴りを起こした。
「綺麗な麒麟でしたよ」
とどめを刺すことも出来ぬのに、天蓬は麒麟に刃を向けたのだろう。
金蝉の脳裏に、天蓬の苦い微笑みが蘇った。
「どうせ……損な役回りなんだよ。休み休みやれよ」
天蓬が戻って来たと言うことは、麒麟の封印は無事に済んだということだ。
せめて麒麟が安らかに眠れるようにと、金蝉は心の奥底で願った。
麒麟の為にも、天蓬の為にも。
乱れた黒髪を撫でつけ、頬に触れながら、繰り返し繰り返し、そう願った。
金蝉童子は天蓬の掌を取ると、汚れのこびり付いた手の甲に、唇をあてた。
普段笑顔に隠れた鋭利さを、軍務の際には剥き出しにする。
美しい獣にも手を掛ける。
血を浴び、それでも立ち続ける。
かと思うと、こんな夜更けに他人の部屋に押し入り、勝手にひとりで眠ってしまう。
「知らないこと尽くしじゃねえか」
天蓬の裸の胸元に触れるのを躊躇った、その理由に思い当たった金蝉は、ムキになって布地で擦り始めた。
手荒く擦った所為で、天蓬の胸が紅く染まった。
擦り続ける金蝉も、頬といい耳といい、真っ赤に染まったままだった。
「冗談じゃねえ。俺がコイツに対して……『こわい』だと!?」
自分を勇気づけようと口に出し、それが更に頬の紅潮に拍車をかけた。
「……冗談じゃねえ……」
思わず天蓬の手の甲に接吻けてしまった、自分の唇に指をあてた。
熱かった。
対照的に冷えた指先が、震えた。
「冗談じゃ、ねえんだよ」
金蝉は浴室に駆け込むと、勢いよく布地を濯ぎ始めた。
水がはね、衣服を濡らした。
目線を上げると、鏡に紅く染まった自分の顔が映っていた。
それが気恥ずかしくて、水音を高く上げて顔を洗った。
乾いた、柔らかな肌触りのタオルを、顔に押し当てる。
「俺は、戸惑ってるだけだ」
よく知ると思っていた知人の、別の面を目の当たりにして。
鏡の中に、タオルの端から目元だけを出した自分が映っていた。
紅を刷いたような染まり具合に、困惑し切った瞳が揺れていた。
金蝉は深い溜息をついた。
闇に慣れた目に映る、黒い髪、黒い軍服の男。
幼児のように、身を屈めて眠る ――――
不快な筈の、埃と汗の匂いに、シーツに押し付けた頬がまた熱くなった。
真っ先に浮かぶべきだった疑問が、漸く金蝉の脳裏に上った。
「てめェは何しにここに来たんだ」
無粋な軍服姿で、泥と血にまみれたままで、ぼろぼろな躯に、ずたずたな心を携えて。
単に、忘れた本の在処を尋ねに来たとか。
それともそれを、取り返しに来たとか。
「……そんなンだったら、許してやらねえ」
そんなことの為に、こんなに胸を騒がされたのだったら。
「……ブッ殺してやるからな」
そう囁きながら、天蓬の髪に伸ばそうとした指は優しく、触れる間際に震えて引き戻された。
目蓋をきつく引き瞑り、まだ熱い唇に指を押し当てる。
「許してなんか、やらねえ」
寝台にふたり並びながら、触れ合うこともせずに。
夜が過ぎて行った。