ここより永遠に 
 風が、長い髪を浚った。
「……ん……」
 自分がうたた寝をしていたらしいと気付いた金蝉童子は、頬をなぶる髪を掻き上げた。
 目の前には、読まれぬままの書物が、いたずらに風に捲られていた。
 小さな灯りひとつの机の上で、はらはらと軽い音を立てていた。
 溜息をひとつ。
 書物の持ち主は、急な軍務で姿を消したきりだった。
 数日前、資料を探しに書庫へ行き、両腕に書物を抱えた天蓬元帥に出逢った。
「金蝉」
 自分の名を特別の宝物でもあるように、そっと呼びかける男。
 伸ばしっぱなしの髪に、よれた白衣。
「久しぶりですね。会えて嬉しいですよ」
 何のてらいもなく口に出し、微笑む。
 いつまでも学生めいたところの抜けないこの男が、八万の兵力を率いる天界軍の元帥であることを、知ってはいたのだが。
 書庫を囲む庭園の、四阿の長椅子に腰掛けた途端に、召集を報せる士官が駆け寄って来た。
 下界で麒麟が暴れているのだと。
 報告を聞いた瞬間、天蓬の瞳と口調が軍人のものになった。
 横に置いたばかりの書物を、手早く抱え直し、振り向いた。
「慌ただしいですね。ではまた。 ―――― 金蝉」
 去る間際、自分に向けた表情はいつも見慣れたもので。
 そう思ってから、金蝉童子は気がついた。
 自分の知る天蓬は、彼のほんの一部分でしかなかったのだ。
 よれた白衣で、嬉しそうに書物を捲り、微笑んで名を呼ぶ。
 生え抜きの軍人、天蓬元帥。
 足早に立ち去る後ろ姿は、もう金蝉の知らぬ男のものだった。

 柔らかな陽光が、四阿の周囲に満ちていた。
 風は花の香りを運んでいた。
 取り残された金蝉は、明るみの中で胸に空虚なものを感じていた。
 ぼんやりとした喪失感。
 あんな天蓬は、自分は知らない。

 無意識に胸を押さえた手を、下ろした。
 天蓬が置き忘れた本に、手が触れた。

 金蝉は書物が風に捲られるのを、ただ眺めた。
 誰かに託してしまえばよかったのだ。
 自分が預かることは、なかったのだ。
 何も常に持ち歩いて、目にする度に、自分を置き去りにする後ろ姿を思い返すような。
 そんな真似をする必要はなかったのだ。
 はらはらと。
 夜風がいたずらにページを捲った。
「明日は、誰かに託そう」
 口に出して言い、本を閉じようと机に手を伸ばした。
 酷く淋しかった。

「金蝉」

 掛けられた声に立ち上がると、椅子が後ろに倒れた。
 夜半に物音が響くことなど、気にもならなかった。
「天蓬!一体、お前……!」
 窓の外に天蓬が立っていた。
 埃にまみれた軍服姿で、頬には血がこびり付いていた。
 金蝉は窓に駈けより扉を押し開いた。
「怪我を、しているのか…?」
 土埃に白茶けた外套にも軍靴にも、どす黒いものが点々と飛んでいた。
「手当てをするから入って来い。今すぐ鍵を開けさせるから正面に回って……」
 人を呼びに駆け出そうとした金蝉の手首が掴まれた。
「金蝉、金蝉」
 困ったような笑顔だった。
「僕の血じゃ、ないんです。金蝉」
 見慣れたものとも、先日自分を取り残した時のものとも、違う顔だった。
 それでも。
 囁くように呼ばれた自分の名は、金蝉の耳に柔らかく馴染んだ。

「入ってもいいですか?」
「ああ。」
 金蝉の返事を聞き、天蓬は窓枠に手を掛け、ひらりと身を翻して室内に入り込んだ。
「表に回るのが面倒臭くて。……この窓が最短距離なんですよ」
 金蝉の咎めたてる目つきに、天蓬は言い訳めいた口調で応えた。
「ちょっと体力消耗が激しくて、大回りする気力が……あれ?」
 語尾の音が半オクターブ上がった。
 天蓬の躯が傾いだのだった。
 慌てて天蓬を支えようとした金蝉がもろ共によろめいたが、幸い側にあった机に手を突き、二人揃っての転倒は免れた。
「天蓬!?お前やっぱり怪我をしているんじゃ……!?」
「違います。ただ不眠不休で流石に電池切れしちゃってる……みたい、な……んで、す。」
 天蓬の語尾が、また縒れった。
「お前、いいから休め。寝台まで、何としてでも歩け」
「すいません。でも床でいいで……す」
 金蝉童子は天蓬を脇から支え、なんとか寝室まで向かおうとした。
「……汗臭いな。大勢いるんだから、交替くらいは取れただろうに。休息取る為の悪知恵くらい、簡単に捻り出せるだろうに」
「あはは。」
 笑いながら、天蓬の膝が沈んだ。
「おいっ!?」
 ぎりぎり寝台の端に、二人の躯が縺れながら倒れ込んだ。
 へたり込んだ金蝉の胴の上に、天蓬が俯せにのし掛かる。
 天蓬の躯に敷かれた金蝉の、纏う薄衣にごわつく外套がざらりと引っ掛かった。
「……痛ッ」
「……寝てなんて……られなかった」
 金蝉の胴に突っ伏した天蓬が呟いた。
「麒麟が啼いているのが判ってて、眠ってなんていられなかった」
 金蝉は後ろに肘を突いて、上体を起こそうとした。
 僅かに上がった角度から、天蓬の横顔が見下ろせた。
 血に汚れ、先日会った時から少し、頬がそげたようだった。
 『不眠不休』との言葉に、嘘はないのだろうと金蝉は思った。
「漸く見つけて……僕はこの手に、かけた」
 蒼く、薄く隈の出来た目元が瞬きをした。
 金蝉の見守る前で、自分の掌を眺めた天蓬が、微笑みを浮かべた。
 掌には、赤茶色いものがこびり付いていた。
「綺麗な麒麟でした」
 それきり天蓬は目蓋を閉ざし、規則的な呼吸だけが部屋に満ちた。

 天界人の殺生は、闘神にしか許されない。
 それ故天界軍の任務とて、対象を殺害することはあり得ない。
 対象を身動き取れぬようにしておいて、呪術で封印するのが関の山だ。
 対象を絡め取る為の道具ならば、天界には山ほどもある。
 が、それも。
 人と変わらぬ知恵と感情を持ち、哀しみに猛り狂った麒麟には、望んだ効果がなかったのだろう。
 金蝉は、天蓬の髪を、そっと撫でた。

 天蓬元帥と別れてすぐに、金蝉童子は噂を聞いた。
 普段どんな噂も気に留めぬ金蝉だが、それが別れたばかりの男の任務と関係があるらしいと気付き、流石に耳を傾けた。
 天帝が下界の人間に与えた麒麟が、暴走しているのだという。
「下界の、人間風情に扱えるようなモノでは、なかったのだろうさ」
 見下したような言い種が、金蝉の神経を逆撫でた。
 下界で、人間技とも思えぬ武勲を立てた武将に、天帝が気紛れに与えた褒美だったのだという。
 神から与えられた美しい麒麟を、下界の人々は畏怖し、尊んだ。
 武将は麒麟を可愛がり、武勲を挙げ続け。
 誇り高い麒麟も、武将に忠実に従い。
 共に幾つもの戦場を駆け抜け。
 短い寿命の人間が、その人生を焉じた時、麒麟は悲痛な啼き声を挙げた。
 天を駈け、海を渡り、喉が裂けても叫び続けた。
 啼き声は雷鳴を呼び、涙は嵐を引き起こした。
 地上は荒れ、麒麟の蹄の立てる轟きが、響き渡って地鳴りを起こした。

「綺麗な麒麟でしたよ」

 とどめを刺すことも出来ぬのに、天蓬は麒麟に刃を向けたのだろう。
 金蝉の脳裏に、天蓬の苦い微笑みが蘇った。
「どうせ……損な役回りなんだよ。休み休みやれよ」 
 天蓬が戻って来たと言うことは、麒麟の封印は無事に済んだということだ。
 せめて麒麟が安らかに眠れるようにと、金蝉は心の奥底で願った。
 麒麟の為にも、天蓬の為にも。
 乱れた黒髪を撫でつけ、頬に触れながら、繰り返し繰り返し、そう願った。

 金蝉童子は天蓬の掌を取ると、汚れのこびり付いた手の甲に、唇をあてた。

「……さて、と」
 金蝉は渾身の力で、自分を潰す重みを押しのけた。
 熟睡した天蓬の躯が、寝台の中央にごろりと転がった。
 かなり斜めに渡っているが、それはもう動かしようがないだろう。
 諦めて溜息をつくと、寝台からはみ出しかけの軍靴を、無理矢理持ち上げ押し上げた。
 躯をくの字に折り曲げた天蓬は、子供の眠りのような様だった。
 その姿を暫く眺めた金蝉は、清潔な布地を濡らし、天蓬の汚れを拭い始めた。
 顔の埃と返り血を拭き取り、軍服の襟元をくつろげさせる。
 薄らと紅く染まった布地を濯ぎ、今度は胸元を拭こうと伸ばした腕が、ほんの一瞬躊躇った。

 普段笑顔に隠れた鋭利さを、軍務の際には剥き出しにする。
 美しい獣にも手を掛ける。
 血を浴び、それでも立ち続ける。
 かと思うと、こんな夜更けに他人の部屋に押し入り、勝手にひとりで眠ってしまう。

「知らないこと尽くしじゃねえか」
 天蓬の裸の胸元に触れるのを躊躇った、その理由に思い当たった金蝉は、ムキになって布地で擦り始めた。
 手荒く擦った所為で、天蓬の胸が紅く染まった。
 擦り続ける金蝉も、頬といい耳といい、真っ赤に染まったままだった。
「冗談じゃねえ。俺がコイツに対して……『こわい』だと!?」
 自分を勇気づけようと口に出し、それが更に頬の紅潮に拍車をかけた。
「……冗談じゃねえ……」
 思わず天蓬の手の甲に接吻けてしまった、自分の唇に指をあてた。
 熱かった。
 対照的に冷えた指先が、震えた。
「冗談じゃ、ねえんだよ」
 金蝉は浴室に駆け込むと、勢いよく布地を濯ぎ始めた。
 水がはね、衣服を濡らした。
 目線を上げると、鏡に紅く染まった自分の顔が映っていた。
 それが気恥ずかしくて、水音を高く上げて顔を洗った。
 乾いた、柔らかな肌触りのタオルを、顔に押し当てる。
「俺は、戸惑ってるだけだ」
 よく知ると思っていた知人の、別の面を目の当たりにして。
 鏡の中に、タオルの端から目元だけを出した自分が映っていた。
 紅を刷いたような染まり具合に、困惑し切った瞳が揺れていた。
 金蝉は深い溜息をついた。

 薄暗い室内に戻ると、諸悪の根元の立てる安らかな寝息が耳に付いた。
 それに苛立ちながらも、金蝉の浮かべた表情は優しいものだった。
「……お疲れ」
 自分の囁き声が、必要以上に大きく響いたような気がして、金蝉は誰もいない室内を見渡した。
 開いたままの窓を閉ざそうと近付き、ひんやりした風が頬に触れるのに、暫く立ち尽くした。
 見上げた視界に、星が明るく瞬いていた。
 いつ迄経っても自分の頬の熱さが引かないことに、金蝉は諦め窓を閉ざした。
 たったひとつ灯っていた灯りを吹き消し、暗がりを寝台まで歩いた。
 目を瞑っても歩ける筈の自室を、何故かよそ行きの気分で歩いた。
 掌に馴染む、清潔なシーツ。
 小さな軋みの音にびくつくように、寝台に膝を乗り上げ、躯を伸ばす。

 闇に慣れた目に映る、黒い髪、黒い軍服の男。
 幼児のように、身を屈めて眠る ――――
 不快な筈の、埃と汗の匂いに、シーツに押し付けた頬がまた熱くなった。 

 真っ先に浮かぶべきだった疑問が、漸く金蝉の脳裏に上った。
「てめェは何しにここに来たんだ」
 無粋な軍服姿で、泥と血にまみれたままで、ぼろぼろな躯に、ずたずたな心を携えて。
 単に、忘れた本の在処を尋ねに来たとか。
 それともそれを、取り返しに来たとか。
「……そんなンだったら、許してやらねえ」
 そんなことの為に、こんなに胸を騒がされたのだったら。
「……ブッ殺してやるからな」
 そう囁きながら、天蓬の髪に伸ばそうとした指は優しく、触れる間際に震えて引き戻された。
 目蓋をきつく引き瞑り、まだ熱い唇に指を押し当てる。
「許してなんか、やらねえ」

 寝台にふたり並びながら、触れ合うこともせずに。 
 夜が過ぎて行った。















 続く 







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◆ note ◆
外伝です
とほぽん子さんの天蓬が好きで好きで、それで押し付けてしまいました
はあ、まだ押し付けたことでドキドキですわ(笑)