何が何でも光の呪縛から離れる気のない悟空と、三蔵のお守りという重責の八戒をおいて、悟浄は周囲を探りに行き、目立たぬ場所に壊れかけの山小屋を発見してきた。元はこの周辺に住むものの薪の貯蔵庫だったらしいが、現在は全くひと気がないという。
紅孩児らの襲来がいつになるかは不明だが、その時には三蔵をここには置いておけない。余りに危険過ぎる。かといってこの状態では一人きりにする訳にも行かない。誰かが三蔵の傍に付く必要があるだろう。
「俺はちょっとパス!俺じゃあ水も飲ませらんねえよ!」
悟浄は髪を振り乱す程に頭を振って逃げ出した。確かに赤ん坊の世話と悟浄というのは、結びつきが薄そうだ。悟空は勿論、呪縛された三蔵の精神体から離れる気など毛頭ない。
「…やっぱり僕になるんですねえ」
八戒も、三蔵を守りたいという気持ちはあるのだが、実際見ていて辛いものがある。茫然と無心の中間辺りで、青空や、揺れる梢を目で追う三蔵。大地をしっかり踏みしめているという自覚のない、その歩み。普段のぴりぴりとした、他人をシャットアウトするような気の張りもない。
常々本人の律している、弱さ。死んでも他人には見せないようにしている、柔らかさ。
今の三蔵は、普段三蔵が隠したがっているものを、アカラサマに見せている。
睨む強さのない瞳が、如何に危うさを含んでいることか……。身を守る術を持たぬ腕が、どれだけか弱く見えることか。どれだけ、日頃その肉体を苛烈な危険に晒していることか。忘れがちなことを改めて思い起こさせる。
三蔵はただの人間だ。ひ弱な肉体を持つ、寿命の短い人間だ。
「そんなこと、普段意識もさせないんですからね。もの凄く大事なことなのに。早いところ、いつもの鬼畜坊主に戻ってくれないと…本当に僕たちが保ちませんよ。あの横柄さで、あなたがただの人間だなんてことを、忘れさせてくださいよ」
悟浄に指し示された方角へ進むと、木立に隠された廃屋が見えてきた。
三蔵は、ゆっくりと周囲に目線をやりながら歩く。おぼつかない足取りで、赤子が目に見えるもの全てを焼き付けようとしているかの様だった。茂みの小さな白い花を見る三蔵の足が止まった。八戒が手折って手渡してやると、それを延々と見続ける。
「ほら、棘があるから気を付けてくださいね。…本当に赤ん坊みたいに、明るい色のものが気になるんですね」
小屋に入っても三蔵が花を見続けているので、八戒は屋根の隙間から落ちる光にかざしてやる。そのままくるくると指先で弄ぶと、白く薄い花びらが揺れて輝いた。三蔵はその様子を見て、微かに唇をほころばせる。
「…あなた、ずるいですよ。そんなに小さなものを喜ぶだなんて。そんなに儚いものを喜ぶだなんて。ただの小さな人間みたいなことして…」
身動きが出来なくなるくらいに三蔵をきつく抱きしめる。圧迫された肺から、抵抗なく吐息が漏らされるのを聞き、また八戒はその腕に力をこめ、やがて緩める。
呼吸が整わぬままの三蔵の顔を覗き込むと、突然自分の躯に起こった苦痛を全く理解していない無垢な瞳。…ましろな額。
「…すいません。何も出来ないあなたに、何もする気はないんですけど。ただ…怖いんですよ。とてつもなく怖いんですよ」
そのまま、腕の中に閉じ込める。
小冥い願望が首をもたげる。
…このまま、この人をどこかに連れ去ってしまおうか。何も判らぬままのこの人と、ふたりだけでどこかに逃げてしまえれば、と。赤子の精神のまま、額に何の徴しも持たぬまま、記憶と人生に重い十字架を背負わせぬままで、過酷な運命から逃げ出してしまえれば…。
食物だって、最初よりは上手く飲み込めるようになっていた。この人を最初から育て直せるのではないか?ひとりの人が背負うには苛烈過ぎる運命を、避けることが出来るのではないか…?
そこまで考えてから、自分の埒のあかなさに、苦いため息をつく。
「…きっとそんなことを、あなたは望まないのでしょうね。僕と共に人生をやり直したところで、あの希有な魂にはならないのでしょうね。…とても悔しく、自分の無力さが身に沁むことですけど…僕では、あなたを『あなた』に、…『玄奘三蔵』にすることは叶わないんでしょうね」
過去にも、現在にも、未来にも。『あなた』以外に『あなた』は存在しない。あの黄金の光は、『あなた』にしか持てない。
薄暗い廃屋で、八戒は三蔵を腕に抱えたまま時間を過ごした。時折、喉の乾きを癒すために口移しで水を与える。三蔵はそれを大人しく受け入れ、飲み込む。顎から首筋へと伝う水を丁寧に拭き取ってやる。八戒は、余りに無防備なその姿を畏れた。
「このままあなたを弱らせたりしない。このままあなたの旅を終えさせたりしない。誰にも、あなたを傷つけさせや、しませんから」
だから、あの黄金色の光を、僕にまた与えてください。
地面から震動が伝わって来た。強い妖気と、そして爆音。
「どうやら紅孩児たちが来たみたいですね」
扉の影から外の様子を伺っていると、経文に引き付けられたのかその背後に三蔵がぴたりと付く。ほんの僅かに、瞳にいぶかしむ様な色が伺える。
「どうしました?気配が判りますか…怖いんですか?」
安心させてやりたくて、抱き寄せては背中を撫でる。三蔵は、背中に手を触れられるごとに脱力する。
「普段のあなたにも、こうやって安心させてあげることが出来ればいいのに」
ふと独り言のように漏らし、八戒は苦笑する。
「そう出来たら、本当に嬉しいのに。そんなこと絶対に許してくれないけれど」
かなりの時間が過ぎたが、戦闘の響きは一向に終わる気配を見せない。
八戒は徐々に焦燥感に駆られてくる。
紅孩児の目的は魔天経文だが、万が一精神体の三蔵が敵の手に渡ったら、交換取引に持ち込まれるということもあり得る。経文と引き替えに、三蔵の精神が元に戻るのならば…しかし、三蔵はそんなことは絶対に許さないだろう。今何としてでも、紅孩児たちから禁呪の鍵を奪わねばならない。
「三蔵。やはり僕も行かなくては。…あなたはここで待っていてください」
三蔵の両手首を柱に繋ぐと、八戒は言い含めるように囁いた。
「絶対に戻ります。絶対にここへ戻りますから。…だから待っていて」
自分がここへ戻らなければ、三蔵の生命はここで終わる。紅孩児たちは必ず三蔵を捜し出そうとするだろうから。絶対に負ける訳にはいかなかった。
八戒は周囲を伺い、そっと廃屋を出る。八戒の背で、扉が静かに閉まった。
明るい戸外の緑が四角に区切られ、扉が閉じると共に細長くなり消える。僅かな隙間からだけ、光が筋となって室内に入り込む。三蔵はその光を見つめ、近寄ろうとした。躯を動かそうとすると、固定された手首の縄がぎしり、と音をさせた。三蔵はそれを気にした様子もなく光へ近付こうとする。
ぎし、ぎし
手首を傷つけないように緩く巻かれた縄が、黒い手甲に食い込む。それでも三蔵は光を求める。
「…ぅ……ぅぁ…」
縄ごと柱がきしむ音を上げるが、三蔵はただひたすらに腕を引き続ける。
手首が軽い音を立てた。
「うあぁ!」
右手首の関節が外れた。急激に起こった痛みに、三蔵は混乱の悲鳴を上げる。しかし関節が外れた瞬間に、その右手は戒めから抜け出す。そのまま左手も縄から抜け、解き放たれた躯が勢いで壁に激突する。倒れ込み、傷ついた右腕が床に叩き付けられ、またも激痛の悲鳴が上がる。
三蔵はしばらく床にうずくまっていたが、やがてのろのろと起き上がった。起き上がり、ふらつきつつも足を進める。
光の元へと向かって。