以前の住人は、長い間質素な生活を続けていたのだ。狭い土間、古い水瓶、煤がこびりついた竃。竃には古びた鍋がたったひとつ。
日々、粥だけで過ごしていたのだろうその人物は、三蔵の旧知だった。
長安で共に修行僧達を指導したこともある、厳格で年老いた僧。自分にも他人にも容赦することのない苛烈さに、影では鬼とまで呼ばれていた。
大僧正にと望まれ、その地位に着く寸前に…出奔した。以来、行方知れず。誰も事情を知らず、自分から出奔したものか、誰かに連れ去られたのかと当初は騒がれたのだが、やがて一通の書簡が来た。
「我、我が身の置き場、よく知るものなり。転蓬の風に運ばれるを止むる術なし。ただ忘れ去られることのみを望む」
事件性のないことが判ると、寺の者たちも安心したのか彼のことを口に出すこともなくなった。消えた老人のことが完全に忘れ去られるまで、一年もかからなかった。
ところがある日、三蔵の元へその老僧から書簡が届いた。
小さな寺で住職をしていたのだが、それが続けられなくなった。寺をそのまま寂れ朽ち果てさせるも、後任を寄越すも、三蔵に任せると。
その寺は、悟浄と八戒の住む街にあった。今までにそこに数回通ったことのある三蔵を、老僧はどこかから見かけたのであろう。それで寺の行方を任せられたのだろう。
あの、カタブツジジィ。自分のいるべき場所は長安でないだと?ではジジィの選んだここは何なのだ?何があると言うのか?
老人が只ひとり過ごしていた筈の庵には、そこかしこに他の人間の形跡が残っていた。
手鏡と、安紅の入っている小さな壷。どんぐりで作ったコマ。赤い折り鶴が、文箱の中から出て来た。あの老人が俗世のことに関わっていたということが、三蔵にはなんともいえない感情を呼び起こさせる。
振り向くと、庵の戸の外に子供がいた。やせこけ、泥に汚れた顔。衣服も垢じみて裾が綻びている。竃にかかる鍋を見つめていた子供が、三蔵に気付き身体をこわばらせる。飢えているのだ。
「入れ」
三蔵がひとことだけ言うと扉の影に身体を縮めるが、目だけは鍋から離れない。三蔵は、椀を竃に置くと背を向けた。
「食え」
閉めた戸の向こう側で竃へ向かう足音が聞こえると、三蔵は部屋の奥へ転がる。
繁華街には残飯の溢れるゴミバケツがごろごろしている。捨てる者があれば、それを拾って命を繋ぐ者もある。小さな子供がたったひとりでふらついていれば、暴力を受けることもあり、利用されたり殺されたりすることもある。
…郊外にまで逃げ延びて来た子供なのかも知れない。
生半可な同情などしても、誰も救われない。
そんなものは、却って不要なものだ。
必要なのは、命を一日延ばせるだけの食事。
その日眠れる寝床。
誰にも殺されない運の強さ。
判っていても、胃の腑の底が重たくなる。
「…あンの、ガキ!鍋はイッコしかねェってのに!」
浮浪生活をするのに、鍋が必要だということを知っていた。
寒ければ、お湯を沸かせるだけでも生き延びる確率が高くなる。食事にしても、水にしても、器がなければ多くを得ることは出来ない。
三蔵は、自分の子供の為に、施された熱い粥を手で受けた女を見たことがある。掌を焼けただらせても、女は子供に食事を摂らせるために粥を受けた。若い僧が泣きながら掌へ粥を注ぐのを、自分はただ眺めていた。後からその僧が自分の椀を女に渡す姿を、ただ見ていた。奨めも誉めもせず、止めもしなかった。
ボーズなんて無力なもんだ。誰にもなんにも出来はしない。この世の飢える人全てを自分が救える訳でもなく、目の前の人だけが救われることを、偽善だと口に出すことも出来ない。
そんな風に自分を嗤ったことを思い出しながら、三蔵は追おうか、追うまいか迷った。
夜風に吹かれながら、ひっそりと外に出る。
ひとつしかない鍋を持って行かれることを考えたら、土間に住人がひとり増えたところで困る訳ではない。寺の雑用に就く人間がいれば、このボロ寺も寺らしくなるだろう。後任のヤツが何を言ったところで、一度決定しちまえば仕舞いだ。
自分の甘さを嗤いながら、ひと気のある方向へ向かう。
河原では、板を立てかけた苫屋に、火をおこしてあった。
先刻の子供が鍋を火から下ろし…誰かに粥を食べさせる姿が見えた。怪我人か、病人か。包帯だらけで匙を口に運んで貰っている。幸せそうな子供の笑顔が、残像になった。
「まともな物を食べてないだろうとは思ってましたが…幾ら何でもそれはないでしょう?」
呆れ返った表情の八戒が、戸口にもたれて自分を見ていた。三蔵は、聞き慣れた声をこんなにも自分が求めていたということに、その時まで気付かなかった。
「…一応粥を作りはした」
「食べたんですか?」
「誰かがな」
八戒は「しょうがない人だ」と聞こえよがしにつぶやくと、肩から荷物を降ろした。数々の容器に、様々な料理。野菜の煮物を中心とした総菜が台の上に並べられた。
「暖め直したいんですが…鍋とかないんですか?ここ」
「八戒、今は食いたくない」
「…三蔵」
「…ああ、判った。少しは食うから置いておいてくれ。後で食う」
「そんなこと言っても、先刻のアレ見ちゃったら信じられませんからね。ほら、サッサと部屋に上がって!箸は…水屋にありますね。ひとりで食べられないんだったら、お口まで運んじゃいますよ」
無理矢理容器を持たされて部屋に追い上げられる。「蕪の生齧り」という、とんでもない食生活を見てしまった八戒にしてみれば、三蔵が実際に目の前で咀嚼、嚥下するのを見届けるまでは安心など出来たものではない。
「ほら、箸持って!手を動かす!!口を動かす!!罵詈雑言吐くだけの口なら、縫い合わせちゃった方が世の為人の為ですよ!」
ここの街に流れ着いたときには、既に女と子供を連れていたのだそうだ。人目を忍ぶ様子で、このボロ寺に住みついてからもずっと三人で過ごしていた。妻帯の破戒僧かとも思えたが、流石に僧が老齢なので、端からはどういう関係かは判らなかった。しかし半年ほど前に、女は亡くなったのだ。
「…どうやらその女は、以前は娼婦をしていたらしいんですが……梅毒です。末期の狂乱の症状が出た時には、近隣にも女の喚く声が聞こえて来たとか。それを最後まで看取ったらしいですね、そのご住職が」
「長安にいたころは『鬼』呼ばわりされてたようなジジィだったがな。…娼婦とは、また随分と意外な線だな。いや…?」
そう言えば何年も前に、貧困で寺に転がり込んだ者に手を出し、破門になった僧がいた。数名がかりで美貌の女を手込めにしたのだ。その処分について、老僧と話し合ったことがあった…。確か、その女は老僧の計らいで、裕福な商家に保護されることになったのではなかったか…?
「…その女かもしれんな」
「美しい人だったそうですよ、梅毒が蝕む前は」
仏門ひと筋に来た人生の、最後の栄達を…たったひとりの女の為になげうったのか。それもあのカタブツならではの要領の悪さか。一本気さの現れか。
「三蔵、今晩ここに泊まっていいですか?」
「ああ!?」
「ほら、河原の人達…軽い怪我や病人だったら、僕にでも看られるかもしれませんし。明日にでも行ってみます」
「ああ…そういうことなら。テメ、だからって余計なことしやがったら承知しねェ」
「やだなあ、信用ないですね、僕」
いいながら八戒はてきぱきと容器を片付けだした。
「お布団、お布団…。うっわー、布団もない…」
「殆ど腐りかけの布団があったが、捨てた。それからは寝袋で寝てたからな」
「また、あなたはそういうことを……。ほら、寒くなって来ましたし、ここ火鉢もないですしねえ。人肌が恋しい季節ですよねえ…」
「土間で寝ろ」
「あなたも今日は冷えたでしょう。ワガママ言わずに、さっさとここに…」
八戒は寝袋を広げると、有無を言わさず三蔵を引っ張り込み、ファスナーを閉める。
「てめェ、調子に乗るなよ…」
「判ってますって♪…でも、ひとりにさせたくなかったんですよ。あなたこういう晩にひとりだと、眠れないでしょう?優しいから、誰か目の前で寒そうだと、自分も寒さ感じちゃって」
「土間だ。てめェは土間だ!」
怒りで紅潮した顔で三蔵が暴れ出すのを、八戒は狭い寝袋の中できつく抱き込んだ。
「ああもう。いいから。黙って寝ましょう。僕も寒いんですよ。暖めてくださいね」
腕を絡め取られて引き上げられる。八戒の躯の上に三蔵の重心が乗るような形になって、そのまま動けなくなる。暖かさが染み通り…その心地よさに脱力する。三蔵は、八戒の胸の上に自分の頭を載せる。温もり、鼓動、脈動、息づかい…。その全てが、三蔵の躯から力を奪い去る。
「手足、冷たいじゃないですか」
八戒は言いながら、三蔵の指を自分の衣服の中に突っ込み、足を挟み込む。
「ちゃんと暖かくしないと、眠れないでしょう…?」
その声が、徐々に眠たそうなものになり…三蔵も急激に眠りに傾く。
三蔵は、その日数度目の自嘲も感じたが、それは気分の悪いものではなかった。
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