風狂抄 - 2 - 



 翌朝、日の昇る前に三蔵は起床した。そのまま文机に向かい、蝋燭の明かりで写経を始める。
 三蔵が自分を起こさないように寝袋から出るのを、八戒は半覚醒状態で感じ、そのまま肘を枕に後ろ姿を眺め続けた。
 きっちりと襟元を合わせて端座する姿は、常の悪口雑言を怒鳴り散らす三蔵とは似ても似つかない。酒を嗜み、銜え煙草で賭博遊戯に興じる姿も、微塵も感じさせない。

 この両極端な個性が、三蔵の中ではどう折り合いをつけているのやら。どちらも習慣として、赴くがままの行動として、矛盾なく同居しているらしくもあるが…。端で見る者に酷く危うい印象を与えることに、本人は気付きもしないようだ。
 暫く無言で三蔵の後ろ姿を眺め続けていたが、鳥の鳴き声がし出したのを待ち、八戒は寝袋から自分の躯を引きずり出した。そのまま、外に干す為に寝袋を抱え込む。

「八戒、どれでもいいから、昨日の容器をひとつくれ」
 三蔵は背を向けたまま八戒に声をかけた。
「ええ。一番大きなものをどうぞ。…もうお米入れてありますから」
「じゃあ、オマエ後で持って行け」
 河原の怪我人を看に行くついでに、八戒に米を持たせようとする。
「…三蔵。昨日言わなかったことがあるんですけど…」
 珍しく歯切れの悪い八戒の口調に、三蔵は振り向く。
「河原に…。あそこに、浮浪者の親子連れを見かけるようになった時期なんですが、こちらのご住職がいなくなった直後か、殆ど同じ頃です」
 八戒は可能な限り平坦な口調で伝えた。三蔵は微かなため息をつく。
「……まあ、そんな気もしていたがな……」
「会いに行くならご自分でどうぞ」
「てめェは何時でも、にっこり笑って凶報もたらしやがるな。そのうちブッ殺してやるよ」
「僕としても、あなたのことは甘やかす方が好きなんですけどねえ」
 八戒は指先で三蔵の顎を触るが、はね除けられた。
「脳天ブチ抜いてやるからな。覚悟しろよ」
 打たれた手をひらひらとさせながら、溜息をつく。
「その時にはお願いしますから。さ、諦めて行きましょうか」

 その日の晴天は、いっそ残酷な程だった。

「来なさったか、ご本人が。玄奘三蔵殿はそうなさると、思ってはおったがな。あの寺のことはあなたにお任せ出来たと思って、もう安心してもよろしいのですな」
 つい数年前までは、同じ長安の寺院で三仏神に仕える身分であったのに。
 斜陽殿の、高く上り詰めた階で振り向けば、長安全土を睥睨することすら出来たのに。
「…拙僧の…いや、もう僧ではござらんな。わたくしの記憶のあなたは、もっとふてぶてしく大人びていたように思えましたが、…まだまだ実際はお若かったのですな。生き生きとした、傷つきやすい心の持ち主でありましたな…」
 息が漏れ、布越しの不明瞭な声が、ひび割れながら続いた。
「わたくしのひがみもございましたかな。あなたを名指しにしてしまったのは。でも後悔はしてはおりませぬぞ。…最後に玄奘殿にお会い出来て、…あなたにわたくしの最期の姿をお見せすることが出来て、よかった」
 全身に巻き付けられた包帯。その上に纏った、ぼろぼろの着物。膿と血液と体液の粘り着いた、それら。包帯の隙間から爛れた傷が見える。
「どのような人間も、最期はこうでございますよ。わたくしも若い頃から沢山の死人を見て参りましたが、それと変わりません」
 微かに笑ったらしい。口元から漏れる枯れた笑い声は、内臓の腐臭がした。
「しかし、全く後悔してはおらぬのですよ。これが拙僧の…わたくしの通るべき路だったと、喜んで思えるのですよ」
 白濁した、片方だけになってしまった目が三蔵と合った。
「あなたのよく仰っていた『祖に合えば祖を殺せ』。…あなたの通る路を、決して枉げることなくお通り下され。血にまみれようとも、罪に汚れようとも、罰に押し潰されようとも、決して枉げることなく…」

 つい数年前までは、大僧正にとまで望まれた老僧が…梅毒に冒され、躯が崩れて行くのを時に任せたままで、力強く笑った。その姿を、真っ白な太陽が晒し出した。

 長安で保護された美しい娼婦。
 幼子を養う為に躯を売り、徐々に病がちになって行ったのだという。
 外道な僧の集団に暴行を受けた女は、窶れ傷つきながらも壮絶に美しかったという。痣だらけの腕で我が子を抱きしめ、それでも「生きてこの子を守れるならば、それでいい。今までもそうやって生き延びてきたのだから」…と、言い切ったという。 
 その強烈な生きる意志と、凄絶な罪と美しさが、心から離れなかったのだと。
 知己の商家に預けたものの、やはり美貌の寡婦には様々な苦労が襲いかかったのだ。やっかみや誤解、あらぬ憶測を受けた挙げ句に、またも暴行を受けた。
 誰もが心の奥底に、弱い小動物に襲いかかる獣の本性を持っている。それを刺激する存在だったらしい。
「わたくしも、彼らとそうかけ離れたものではないのかもしれません。それでもこの子とその女を、自分の手で守りたくなったのございますよ」
 離れた場所に、八戒と子供が見える。草花を摘んでいる。どうやら八戒が食草を教えているらしい。
「お笑いになられるかな?人生の最後に、女犯に落ちた僧を。ここまで枯れ果てた爺いめが、女の躯に溺れ込んだなどと」
 子供の手には、コオニタビラコ。「ほとけのざ」という名で知られるその食草の、気の早い花に小さな蝶が寄って来て、風に吹かれて離れて行った。
「それでも後悔は致しませぬ。女の躯に喰らいついた己が欲と醜さも、全てわたくしでございます。女と子供の幸福を願ったわたくしも、仏門で一心に御仏にお仕えしていたわたくしも、密かに栄達を誇りにしていたわたくしも、全てその時の真実のわたくしでございます。それを、ここまで落ちて、やっと素直に見つめられるようになりました」
 白濁した隻眼は、穏やかな笑顔を見せた。
「布施を受け、施しをし、読経三昧に明け暮れて過ごした日々を、懐かしく思うこともございます。野垂れ死にの死体の腐れ行く様を見て、無常と無力を感じた日々を、思い返すこともございます。全ての人々を救うことの叶わぬ自分が、目の前の母子連れだけは救いたいと願った焦慮と、…それだけならば可能かもしれぬと思い詰めた自分を、憐れと思うこともございます」

 苫屋にかけられた粗末な布の覆いを、めくり上げたまま三蔵は動けなくなっていた。老僧を目前にして、彼が出奔した当時の時間の続きを、難なく越えて語り出すのをただ聞いていた。業病に犯され、昔日の面影もない姿に一瞬瞠目し、それから一切の表情を消したまま立ち尽くしていた。

「…それでも、玄奘殿。これまでの人生で感じたことのない程に、今、御仏を近く感じられるのですよ。突き動かされたわたくしの、弱くて強い心根をこそ、貴重なものと感じられるのですよ」
 苫屋に寝かされたままで、老僧は腕を持ち上げた。包帯だらけのその腕の指は、幾本かが欠損している。
「もう筆を握ることも叶いません。女の躯を抱き、あの子供の頭を撫でてやったのも、昔のこと。今は病が伝染るのを避ける為に、あの子に触れることもございません。もう水もすくえないこの掌ですが、それでも生まれて死ぬまでに手にしたことのあるものの、全ての記憶が留まっているような気が致します。御仏の掌に、近づけたような気が致します」
 三蔵は、寝かされた老僧の傍に、背を向けて座る。
「…神など何の力もない。ヒトだけが、何かを為せる。あんたはあんたの出来ることをやった。ただそれだけだ。誰の為でもなく、自分の為にそれをやった。それだけだ」
 老僧と三蔵は、明るい日差しを眩しげに見上げた。突き抜けたような青い空は、高く高く続く。
「誰の為でもなく、自分の為にすべきことを、自分で致しました。腐れ果てたこの掌が、わたくしの人生の中で一番、御仏の御意志に叶ったものでありましょう」
「神も仏も…そんなことは、気にしちゃくれねェだろうよ」

 座った地面の湿り気を感じる、自分の掌を見る。
 キクイモの根を掘り出したらしく、泥にまみれた八戒の掌を見る。
 紫色の花のついたヤハズノエンドウを片方に、もう片方でヒバリを指さす子供の掌を見る。

「…きっと、あんたの掌を…却って羨ましがるくらいしか、出来ねえだろうよ」

 三蔵は、ひとり文机に向かっていた。
 夕暮れの赤みを帯びた光が、室内に射し込む。近く現れる筈の後任に宛てる書類には、寺を守り、子供を保護する旨を書き記してある。それまでの間は、八戒が食事の面倒を見ると買って出た。
 老僧は、恐らく長くは保たないだろう。
 自分がここを立つまでも、保たないだろう。
 荼毘に付してやるくらいは出来るだろう。
 そんなことを考えているうちに、筆先の湿り気が飛んでしまったことにも気付かなかった。
「只今戻りました」
 急に声がかかり、驚いて振り向く。両手に大荷物を持った八戒が立っていた。
「なんです?書類、もう乾いているじゃないですか。さっさと巻いてしまっちゃわないと、汚しますよ。そうそう、風呂湧かしましたから入ってくださいね。その間に夕食作っちゃいますから」
 茫然としている姿を見られてしまったという、気恥ずかしさを感じる。
「…あのお鍋、結局あの人達のものだったんですよね。お返し出来て良かったですよ。ほら、新しい物買って来ちゃいました。寄進しますから使ってくださいよ?」
 広げられた荷物は、幾つかの新品の鍋と、大量の食料。
「まっさらのお鍋で、何か美味しい物作りますから。…文句言って残さないでくださいよね」
 言いながら、大股で歩いて来て、大股で部屋から出て行く。竃に湯をかけると、台に野菜を並べ、猛烈なスピードで切り始める。

「……でけェ手」
「え?何か言いましたか?」
「…メシは何だ?」
「回鍋肉と、青菜と水餃子のスープ、小包龍です」
「……ここは寺だぞ」
「水餃子には、肉を入れないでおきますから」
 八戒は手を拭きながら三蔵に向き直ると、近付いてくる。
「…そんなことは、どなたも気にしませんよ。神もホトケも、美味しいご飯をあなたの為に作る僕の手のことなんか、きっと気にもなさいませんよ」
「…てめェ。誰の話を、どこから聞いていやがったんだ…」
 八戒は三蔵に手を伸ばし、全体にきつい顔立ちの、そこだけが子供のようにふっくらした唇を、そっと親指で撫でた。愛しげに、優しく撫でた。
「あなたに向ける僕の心のことも、あなたに触れる僕の手のことも、誰も気になんかしませんよ」
 触れるだけの接吻けを落とす。
「あなたが…泣いていたって、僕以外の誰も気にしませんから」
「誰が泣くだと!?」
「涙を流さないでないてたって、僕だけは気付きますから」
「だから誰が泣くんだよ!!」
「あなた」
 にっこりと、微笑みながら八戒は付け加える。
「…どうせこれから啼かすし。でもほら、お風呂入ってからの方が、あなた好きでしょう?さっさと行っちゃってくださいね。洗いたてでなくっても僕は構わないんですが」
「てめェ、何を言いやがる!」
「カロリー摂取!カロリー消費!…どうもここのところ、肉、落ちちゃってますよね?抱き心地、違ってましたもん、夕べ」
 話をきっちりとは噛み合わそうとしない八戒に、三蔵は、怒り心頭の状態になる。
「勝手に抱き心地とか言ってんじゃねェよ!勝手に触んな!金輪際触れるな!!」
「…カミサマですら気になさらないのに」
「オレだ!神なんか関係ねェ!オレの躯だ、オレが気にするんだ!」
「僕の幸福なんですけどねえ…。ところで風呂冷めますよ。洗いたてでなくっても僕は気にしませんが」
「気にするトコロが違うんだよ!」
 徐々に悲鳴に近い声になる三蔵。わざとらしくため息をつきながら、じっと掌を見つめる八戒。暖かな空気が、竃にかけられた鍋から立ち上る湯気に潤う。

 散々の体で室内に戻った三蔵は、それでも替えの着衣を整える。数時間後に起こるであろう事態を予測し、盛大に溜息をつく。

 ふと、開けたままになっていた、文箱に目が行った。

 赤い、折り鶴。

 子供と女の笑顔の前で、折り鶴を折った老僧の姿が偲ばれた。
 三蔵には、それがとても美しい絵の様に感じられた。とてもとても美しい絵の様に感じられた。






「三蔵、後で背中流しに行ってあげましょうか?」
「だから、いらんと言っているんだ!」














 終 







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