碧蛇伝 2 








「 いや、そんな事はどうでもいい。
己の中の人間の心がすっかり消えて了えば、
 恐らく、その方が己はしあわせになれるだろう。 」
--- 『 山月記 』  中島 敦  









「三蔵、今日もいい天気ですねえ」 
「けっ。ナニ脳天気なこと抜かしてやがる。いっくら天気が良くっても、これだけ迷ったら困れ!!」
「はあ。僕はそう簡単には飢え死にも乾き死にもしないですからねえ。あんまり切羽詰まらないんですよねえ…」
 にっこり笑って凶悪な発言をするのは、八戒。
「まあ、あなたが動けなくなったら、あんまり苦しまないうちにちゃあんと食べて差し上げますからね♪」
「…てめェ、わざと迷ったんじゃねェだろうな…」
「や、やだなあ。僕だってこんなに早くあなたが死んだら淋しいですよ。さ、なんとか道を探しましょう!」
 ふたりは旅の途中で樹海に迷ったのだ。鬱蒼とした森の中で、時折青空が垣間見える。その晴れ渡ったまぶしさと、薄暗い木々の隙間の獣道との差が、閉じこめられたかのような錯覚さえも起こさせる。
 ふたりは、かれこれ三日も彷徨っていた。









 ぱち、ぱちぱちっ
 時折何かがはぜる音がする。三蔵が手慣れた様子で起こした火を、八戒は珍しいものでも見るように眺める。
「火を囲むなんて、ずっとしてませんでしたからねえ。妖魔になってしまうと暗くても見えるし、寒くもないですから。こんなにきれいなものとも、長い間遠離っていたんですね。ああ、本当にきれいです」
 とても嬉しそうに笑う妖魔。火を通り越して三蔵の姿を見ている。火明かりに薄く赤く染まった顔も髪も、時折揺らぐ影に縁取られている。
 まるで脈動のように…暖かそうな。遙か昔に自分が捨て去ってしまったものを、三蔵と旅をするようになってから懐かしく思う。暖かそうな躯。震える皮膚。その下の脈打つ魂。
 全て失くしてしまったものだ。
「ちっ、晴れた分、冷え込んで来やがる…」
 見ると三蔵は震えている。冷えた握り飯が最後の食料だったから、躯もそうそう暖かくならなかったようだ。隙間から見える天の青白い星が、今が冬の季節であることを思い出させる。地面に手を触れると、どんどん温度が下がっていくのが分かった。

「おい、ナニしてる」
「ちょっと気分だけ」
 八戒は火を挟んで向かい合っていた三蔵の後ろに回った。そのまま三蔵の前で腕を交差させる。
「…また精を吸いたいのかよ?今は空腹だからきっと精も不味いぞ」
「別にそういう訳じゃないですけど。でも折角だから頂きます」
 苦笑する八戒の腕の中で、躯をひねる三蔵。こちらを向いた顔は、暗くても夜目の効く八戒にはよく見える。「しょうがない」とでも言いたげな表情。目を閉じて。拾った犬に餌やるか、ぐらいに思ってるのかもしれない。そんなことを思わせる従順さだ。
 八戒も目を閉じて、ゆっくりと唇を触れさせて三蔵の精を吸う。甘いのはこの人の精なのか唇なのか?体力を落とさせないように控え目に精を吸い取ったが、それを終わっても八戒は離れられなかった。どうしても、この甘さを長く味わいたくて。ずっと続けていると、何時かの様に自分の欲望が目覚めてしまいそうで、わずかに触れ合わせるだけ。時折ついばむようにして唇を味わう。その柔らかさについ、軽く歯を立てる。
「ん…ッ」
 三蔵の甘い声がした。
 八戒は飛び退くように唇を離す。至近距離で合わせた瞳は、お互いの欲情を示す顔を映していた。

  でもね、ダメですね
  僕みたいな妖魔が汚しちゃいけない相手なんですよね
  深い欲望も知らないあなたを汚しちゃいけないんですよね

 自嘲気味の笑みを浮かべる八戒に、三蔵は目をそらす。八戒が精を吸う毎に、繰り返されるそれに自分の躯に走る甘いものが大きくなる。接吻けなど今までしたこともなかった。したいとも思わなかった。でも…。今でもそうされるまでは嫌々なのに、一度触れると離れるのが辛くなって来ている。自分に変化が起きているということに否が応でも気付かされる。

「こんな寒い夜に、オレは旅に出たんだ」
 火を眺めながら、ぽつりと三蔵はつぶやいた。
「オレのいた寺が襲われて、貴重な教典が奪われた。それ以来ずっと探して旅を続けてた。たった一人で旅して来た」
 八戒は三蔵の言葉を黙って聞いている。腕の中の人が自分のことを話したのは初めてだった。
「…オレも長い間、ひとりだったんだ」
 三蔵は、ことり、と頭を八戒の腕にもたせかける。八戒は抱きしめる力をそうっと強くした。
「今はひとりじゃないですよ。僕も、あなたも」
 その言葉には頷きもせず、三蔵は瞳を閉じると、眠りに落ちた。

「三蔵。僕の腕はあなたを暖かくすることは出来ないけど、あなたは今安らいでますか?」
 声にならないくらいに小さな声で、八戒は囁いた。











 翌朝はどんよりとした曇り空から始まった。ただでさえ暗い樹海が、尚深く感じられる。歩き出したものの、水もそろそろ底を尽きそうだった。
「…おい八戒。オマエ蛇の妖魔だったな?水の匂いとか判らんのか?」
「深い地下には水がたっぷりと流れてるのが判るんですけどねえ…」
「そんな事は、オレにでも判るぞ」
 呆れたように吐き捨てる三蔵。
「ああ、でも代わりに違う匂いがして来ましたよ」
「……ああ、アレか…?」
 木々の間に、庵らしきものが見える。この深い樹海の中に忽然と現れたそれは、今にも崩れ落ちそうだった。
「くせェ」
「三蔵、下見てください」
 庵を中心として、小鳥や蛙、トカゲなどの小動物の死骸が転々としている。その光景はふたりには見覚えのあるものだった。八戒が玉に封印されていた間、人間の精を吸うことが出来ずに近くを通りかかった虫や獣の精でなんとか飢えを凌いでいた…。その時の祠の周辺が丁度こんな感じだったのだ。
「どうやら僕の御同類がお住まいのようですねえ…。ご挨拶に行きます?」
「他に行く道もなさそうだしな。呼ばれてやるか」
 ふたりはその庵に近づくことにした。

 キィ、キィ、キィ……
 近くに寄ると、風に煽られて板がこすれる音がする。屋根の一部も朽ちて落ちて来ている。樹海の障気が凝縮して出来ているかの様な陰鬱な雰囲気が漂う。
「こんにちわー」
 八戒が普段よりも更に機嫌良さそうな声を出すのに、三蔵は冷たい目を向ける。こいつ、はしゃいでんのか?本当に妖魔同士で挨拶してェんじゃないだろうな…?そんな疑問すら湧いてくる。
 実際に、八戒は密かに喜んでいた。三蔵が妖かしの相手になる時には、自分の力が役に立てるだろう。三蔵が危険な目に遭いそうな時に自分が共にいられることが嬉しかった。

 意外な事に庵の中から応えがあった。微かな嗄れた声と、物音がする。三蔵と八戒は顔を見合わせ、中に入ることにした。
 薄暗い庵の中は、屋根の穴から光が細い筋となって落ちている。埃と黴の据えた匂い。腐りかけた畳の毛羽立ち。そんな中、前屈みの僧の小さな後ろ姿が座っていた。仏壇に向かい、元は錦糸の縫い取りがあったと思われる袈裟を掛け、高い僧綱襟に埋もれた顔は見えない。
「見えるぞ、見えるぞ」
 嗄れてきしむ声。
「そなた、長い長い旅をして来たな。終わらぬ旅がわしには見えるぞ。疲れを癒すがよいぞ。ここにゆるりと逗留するがよいぞ。いついつ迄も留まるがよいぞ。」
「じじィ。悪いが急ぎの旅だ。先に進みてェんだがな」
 ひひひひひ…、と笑う声がする。
「何を急ぐか。死に急ぐか。どうせ終わらぬ旅だぞえ。お前様の求めるモノはどうせ見つかりはせぬわ」
 ひひひひひ…。
 すうっと三蔵の目が光り、抑えた声を出す。
「てめェ、何を知ってやがる…?」
「ひひひ、見えるのさあ。尊く輝くモノが、下賤の手に落ちているのが。きひひひひ…。ああ、わしの手には、余るか。口惜しや。口惜しや…」
 きひひひいいぃ…。徐々に老僧の声に変調が現れる。
「お前様も光輝いておるな。ああ、欲しい、欲しい。いつまでもここで囚われ人の様に留まれ。お前に吸い寄せられた哀れな妖魔と共に…その力、わしに寄越せェ!」
 きひひひいいいいぃーーー、と一声高い笑い声を響かせ、老僧は振り向いた。法衣の中は木乃伊だった。目だけがらんらんと光り、枯れ枝の様な腕の鈎爪を伸ばす。
 ぐらりと空気が傾げたような感覚が起こる。
「三蔵、下がっていてください」
 八戒はそう言うと掌に気を集めて老僧に向けて放つ。老僧の動きを封じようとした気が弾き返される。
「無駄じゃ、無駄じゃ。ほほう、妖魔、お前この若い僧に懸想しておるか。わしと一緒に喰らおうぞ。僅かばかりならば分けてやろうぞ…」
 ひひひい。また笑うと、数珠をまさぐり何事かを念じ始める。すると庵の壁や床がざわざわと動き始めた。
 ずるり。
 急に、庵を構成していた全てが解け、経文の形になると三蔵と八戒に絡み付こうとした。八戒が自分達の周囲に結界を張る。
「フン、自分の妄執の虜となったか。てめェはいつ迄そこでそうやってるつもりだ」
「お前様を喰らってその法力を我がモノとしようぞ。わしを嗤い蔑んだ者共も全て喰ろうてやるぞ。わしの力を思い知らせてやろうぞ」
「自分の力が足りないものを、他人の所為にして生き延びてきたか。浅ましいんだよ」
「言うな!わしに喰われろ!!」
 周囲の経文の巻き付く力が急に強くなる。
「三蔵。僕が一旦あいつの動き止めたら、なんとか出来ますか?」
「…ああ、多分な。じじィの数珠の手繰り方見たか。あの執着の仕方。あれが鍵かも知れん…」
「解りました。…三蔵」
「あ?」
 八戒は振り向いた三蔵に接吻け、一瞬で離れる。柔らかく笑う碧色の瞳。
  もし僕が死んでも悲しまないで
 声には出されず動いた唇の形。
「三蔵を喰うなんて、僕が許しませんよ!」
 八戒は結界を解いた一瞬で大蛇に変化した。
 碧の鱗の光る長大な姿がそのまま老僧に迫る。老僧はぽかりと黒い穴の様な口を開けて笑いながら、鈎爪の腕を伸ばして八戒を引き裂こうとする。八戒はその腕ごと老僧に全身を絡ませる。左手の数珠から障気が漂い、蒼黒く光る。八戒は数珠を念で引き千切ろうとしたが、また弾かれる。
「無駄じゃ。お前如きに触れられるモノではないぞ。これは元は偉大な上人様の持ち物じゃ」
「殺して奪いましたか。言ったでしょう。三蔵を喰おうなんて許さないと」
 大蛇の碧の光が一際強く光り、その大きさが変わったようだった。巻き付かれた老僧の躯が光に隠れる。そのまま渾身の力で押し潰そうとする。
 じゅうううう…
 老僧の数珠に触れた部分が焼け爛れた。蒼黒い数珠からはちらちらと赤い光が放射され、そこから灼熱の炎が吹き出す。
「八戒!!」
 八戒と僧は紅蓮の炎に包まれる。周囲の木々にもその炎が移り、あっという間に炎上が広がる。

「八戒、ヤメロ…!八戒!!やめろおおおおおおおおおお!」

  ぱりーん…
 儚い音がして、数珠が粉々に飛び散った。
 逆巻く炎の渦の中、三蔵は聖典を唱える。魔を昇天させる経を読む。数珠の破片から淡い光が天上へ昇ると、後には襤褸の袈裟しか残らなかった。それは熱風に煽られると、炎の中に消えて行く。
 そして。
「八戒!」
 人間の姿に戻って倒れている八戒の傍に走り寄る。
 至る所、焼け爛れ、衣類は部分的に炭化している。血にまみれて全身を朱に染めた八戒は、堅く目を閉じている。三蔵はなんとか目を覚まさせたくて、八戒の上に跨ると片手で襟元を掴んで頬をはたく。
「おい、起きろ!八戒!八戒!!」
 すると…微かに身じろぎをして、目が開く。明らかにほっとした様子の三蔵を見て、八戒は微笑む。優しく、優しく微笑む。
「無事だったんですね。ほら、焼ける前になんとか逃げてくださいね。あなたはこんな所では死ねないんじゃないんですか?」
「…はっかい…?」
「三蔵。僕がいなくなっても悲しまないでください。いつまでも見守りますから。あなたはもうひとりじゃないです」
 それだけ言うと再び八戒は目を閉じてしまう。笑顔のままで、段々輪郭が薄くなって行く。
「ねえ?あなたを守れたから、僕嬉しいんです。今なら喜んで昇天しますから…」
「八戒!?」
 引き上げようと掴んだ襟元も血塗れで滑り落ちる。
「死ぬな!オマエ、300年分取り戻すんだろうが!まだ早いぞ!八戒!」
 三蔵の叫びは血を吹きそうだった。
「オレから離れるな!オレをひとりにするな!!」
 三蔵は八戒に接吻ける。
 オレの法力なんか、幾らでもやる。精なんか全部オマエにやる。だから…。
「オレの…そばにいてくれ…」

 唇を深く合わせて、何時か八戒にされたように舌を差し込み、吸い上げる。八戒の舌先を嘗める。唇を甘噛みする。三蔵は、自分に起こった甘い感覚を八戒にも起こさせようと必死だった。接吻ける自分の瞳からずっと涙が流れ続けていることにも気付かない程に。

 ぱたぱたと自分の顔に落ちる感覚に、八戒は目覚める。きれいな甘い水…。僕を洗い流してくれるみたいだ。そう思って。そして自分の顔の上で泣いているきれいな人を見た。
  どうして泣いているのだろう?
 自分に施される接吻け。命を注ぎ込もうと必死な。まだ拙い接吻。優しい、優しい接吻…。
 八戒は急に意識がはっきりとして、胸に暖かい想いが宿っているのに気付く。遙か昔、まだ人間だった頃に持っていた、愛情というものを思い出す。ああ、自分もまだこんなものを持てるんだ…。嬉しくて、微笑む。三蔵、僕はあなたのことを愛してますよ。とてもとても愛してますよ。微笑みながらそう思った。

「八戒…オレから離れるな…」
「…はい」
 三蔵は信じられない想いで自分の下の人物を見下ろす。消えかけていた輪郭もはっきりとしている。先ほどの儚い微笑みとは違う、嬉しそうな微笑みをしている。
「…この…!大馬鹿野郎!死んだかと思った」
「はい、あんまり接吻けが気持ちよくって生き返っちゃいました」
 泣き笑いの顔で立ち上がる。 
「よし!もうこんな所に用はねェ!さっさと行くぞ。オマエ責任取ってなんとかしろ」
「もう、人遣い荒いんだから。三蔵は…」
「法力つぎ込んでやった分だ。死ぬほど働きやがれ!」
 八戒は笑いながら結界を張り、そしてふたりで炎をくぐり抜けた。

 炎が雲を呼んだか、その後優しい雨が降り、そしてまた太陽が射し、明るい日が続く。
 そんな風にして、ふたりの旅は続いて行った。
 いつ迄も続いて行った。

 幸せに、幸せに、続いて行った。









遙か遙か、古えの出来事
時の流れの中に埋もれてしまった物語
何時の世も不変の、心と謂う物の不思議さよ

人も、物の怪も変わらぬ、心と謂う物の不思議さよ
問いかける物の変わらぬ不思議さよ…

















 
 













□ 終 □


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□ あとがき □
長いっす…。こんなににょろにょろした話、読み辛い?ごめんなさい
で、でもラストシーン、まだあるんですぅ…。↑でスウィートな(?)終わり方なので、それでご満足の方は、そのままで。
よしきの真っ先に思いついたラストシーンまで読みたい方は ここ をクリック。大したもんじゃないけど、それがさいごです。これから書くんですけどさ。
あ、そいえば男子の本懐、遂げてない八戒くんでありました。でもこの八戒はきっと後で上手くやるんだろーなー。
期待した方、すいませんでした
今回妖魔・変化とニンゲンを書いてる最中、気分を盛り上げようと幾つか本を読み返しました。
『山月記』『夜叉が池』『海神別荘』『天守物語』…そして『フルバ』(笑)あうっ、夾くん… (本当は京極さんも読み返したかった…)
あんまり美しさまでは反映出来なかったです…(高望みしすぎだっちゅーの)