碧蛇伝 後伝 










永い永い時間を、ひとりで過ごしてきたけれど
その間には気付かなかった
たったひとりであることに











 そろそろ日が暮れようという時間だった。空が黄昏の茜色に燃え上がる。夕焼けの空は明るいのに眩しくはない。ただ刻々と色合いを変えて行くだけだ。
 やがて、夜の暗闇が来るのだろう。
 毎日のことであるのに、今日の黄昏は格別美しく見える。
 毎日のことであるのに、今日の落日は特別大きく見える。

 都を遠く離れた鄙びた村のはずれの庵だった。雅びな楽の音も殿上人の姿もないが、ここには樹木が茂り花が咲き鳥が鳴く。そんな静かな場所で、僕たちは時を過ごしていた。もう何年も。
 三蔵のいる部屋の障子は開け放たれ、夕暮れの空気が満ちている。

「そろそろ涼しくなって来ましたよ。閉めますか」
「いや、開けておいてくれ。空が見たい」
 僕は従う。
「オレは…思い出していたんだ。この何十年かのこと。オマエと過ごした月日のこと」
「結構、僕たち楽しく過ごしましたよね。いろんな所に行ったし。教典を探して天竺にまで行ってしまいましたよね。そして…天竺で仏法の世の終わるのを見たし…」
「…ああ。いろんなものを見たな」
「帰国してからも、あなたの傍にいるといろんなものが寄って来ましたからねえ」
「…ああ。全て一緒に行って、見て、過ごして来たからな」
「とても楽しく過ごせましたよ」
「ああ。300年分、楽しめたか?」
「まだ足りませんよ」
「無理言うな。バカ」
 三蔵は笑う。片頬だけで笑う彼の癖はずっと変わらない。あの紫暗の瞳も変わらない。

「八戒」
「はい」
 珍しく言いよどむ三蔵。
「…オマエはまだ、オレのことを喰いたいか?」
 僕は黙る。
「流石に水気は飛んじまったがな。法力は変わらん。死ぬ前に食え」
「食べられません」
「いっそ食って貰った方がいいぞ?オレは」
「食べられません」
 僕は耐えられず、目を閉じて俯く。
「ダメです。まだ死なないでください」

 何十年もの月日をこの人と過ごして来た。彼にはその月日の刻印が押されて行く。僕は時間から取り残されてしまったかのようだった。僕だけが変われなかった。
 三蔵は、自分の寿命の限界を感じてから、何度も僕に言った。
「今のうちに成仏させてやろうか。たったひとりこの世に残るのが嫌なら、オレが成仏させてやるぞ」
 僕は、三蔵こそひとりで残す気は無かった。最後まで三蔵をひとりにしないために、今はそれだけの為に生きていた。

「なあ。オマエはオレと過ごした間、約束を守ってずっと人間を食うのを我慢していたじゃねェか。オレの法力や精だけで、他の人間の精を吸うのを我慢してたじゃねェか。」
 彼は憐れむ目で僕を見る。僕が残されるのを憐れんでいる。
「オレが死んでも、オマエ、人の精を食わないつもりだろう。また封印されていた間みたいに虫の精だけで済ませようとしてんだろ」
「……」
「オレの肉体を食って、それでオマエの飢えが来るのが少しでも遅くなるんだったら、オレは別に構わん」
 妖魔になってしまってからの、初めての涙が流れた。
「ダメです。食べられません。ひとりにしないでください」

 泣いている僕の背中を落日の光が照らす。毎日見て来たのに、なんて今日の夕日は大きいのだろう。そして沈むのが早いのだろう。

「今までオレをひとりにしないでいてくれて、ありがとう」
 三蔵は優しい目をして僕に初めて礼を言った。
「今まで一緒にいてくれてありがとう」
 三蔵は今までで見た中で一番きれいな笑顔で僕に笑った。
「これからひとりにして、済まない」
 三蔵は笑顔のまま目を閉じた。
「八戒…ありがとう」
 僕は涙が止まらなかった。










 永い時間が過ぎた。彼の亡骸が朽ちるまで抱いていた。庵が崩れるまで其処にいた。朽ちた木材が、やがて土に帰るまで動かなかった。土が砂になり、風に飛ぶ時、僕はゆっくりと溶けていった。空に。

























遙か遙か、古えの出来事
時の流れの中に埋もれてしまった物語
何時の世も不変の、心と謂う物の不思議さよ

人も、物の怪も変わらぬ、心と謂う物の不思議さよ
問いかける物の変わらぬ不思議さよ…


























□ 終 □


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□ ATOGAKI □
すいません、今書き終わって自分でひたってます(大馬鹿者)
これ…パラレルだから書けたんだろうな、って自分で思います。
これ読んで悲しくなった方。本当にごめんなさい。
「天竺うんぬん…」は、砂漠の雰囲気を求めて読んだ『西から東にかけて』(平山郁夫著)の中の 「玄奘古道」の章に「…はるばるインドにたどり着いた玄奘は、意に反して仏法がまさに滅びなんとしているのを目の当たりにし、地に体を伏して嘆く。」とあり、そこから頂きました。
残念ながら『大唐西域記』は読んでおりません。