波音  《 into the blue -1- 》

by 剣菱=蝉丸

 素足の下、砂が崩れてゆく
 初めて見た海で、波に洗われた貝殻が埋もれかけているのを拾った
 まあるい巻き貝に、山鳥の羽根模様がきれいだった

「あれは、どこにやっちゃったんだろう?」
 口に出して、目が覚めた。

「何を寝惚けてる」
「ん……。ずっと前に、海に行ったよね。で、貝殻拾った。あれは一体どこにやっちゃったんだろう…」
「ガラクタなんざ、知るか」

 宿の二人部屋、ベッドに起きあがった悟空は、まだ目が覚めきっていない。 
 三蔵は窓の側に座り新聞を広げていた。テーブルの上には既読の数誌が雑然と放り出されている。
「俺がもっと小さかった時だ。…なあ三蔵、あの海は何処の海だったんだ?」
「ああ?」
 未だ茫然としたままの悟空の声に、眼鏡越しの視線をやる。
「あれは…洛陽から河水沿いに河南、准南の方へ行った時だな。…そうか、もう何年も昔のことだな」

 職務の長旅に悟空を連れて行ったことがあった。
 初めて見る海に、まだ幼かった悟空ははしゃぎ回っていた。乾燥した砂漠の砂とも違う、海の砂。視界をぐるりと巡る海。肌をなぶる潮風。長安で出回るものとは違う種類の貝殻。

「三蔵!見てよこれ。ほら、とってもキレイだ!」
 大事そうに巻き貝を両手に掲げては、三蔵に向かって走り寄る。初めて見たものに圧倒されて、悟空は普段の寺院暮らしでは見せない程に興奮した表情をしていた。美しい巻き貝を、誇らしげに見せる。
「太陽につやつや光ってる!」 
 三蔵は銜え煙草で悟空を見ていた。潮風は紫煙をあっという間に持って行く。急に目の前に巻き貝を突き出され、その不躾に僅かに眉を顰める。上機嫌に波に濡れ、砂だらけの悟空は三蔵のそんな様子には気付かない。ただひたすらに、きれいな宝物を掲げ持つ。

 喜びに紅潮させた頬を見て、三蔵も呆れながら唇の端の角度を上げた。
「これはな、こうすんだよ」
 巻き貝を受け取り、耳に当てる。
「こうすると、波の音が聞こえるんだよ」
 貝殻を返された悟空は、その仕草をそっくり真似た。

「ああ、本当だ。ここにも海が入ってるのかなあ。ここにも…三蔵と俺がこんな風に海見てるのかなあ…?」

 悟空は貝殻をじっと耳に当てたまま、水平線を見る。その様子を見守る三蔵は「ばーか」と言いかけて、留めた。
「……『壷中天』…か」
 遠い視線のまま幸せそうな悟空を見て、また新しい煙草に火を付けた。

「あの貝殻、俺大事にしてたのになあ。いつの間になくしちゃったんだろ。気に入ってたのになあ……」
「今の今まで思い出さなかったんじゃねェか。一生忘れてろ」
「でも、大事だったんだよなあ。…あれ、なんで大事にしてたんだったんだっけ?きれいで珍しくって、でもって…?」
 寝癖の髪をがしがしと掻き回しながら、悟空は洗面に立つ。
「宝物にしてたんだけどなあ。どこに行くのにも持ち歩いてたから、どっか行っちゃったんだろーなー…」

 三蔵の視線は新聞記事の上を走っていたが、脳裏には別のものが映る。
 長安に戻って暫く、悟空は貝殻をずっと持ち歩いていた。四六時中、耳に当てては波の音を聞いていた。貝殻の中にある海に自分と三蔵の姿を思い、うっとりとした笑顔を浮かべていた。
 それにも徐々に飽きが来たのか、時折どこかに置き忘れるようになり……
「…なんだ。こんな所に放りっぱなしにして」
 ある日、三蔵の執務室の机に、ころんと置き去りにされた巻き貝を見つけた。
 悟空に自分で片付けさせようと、呼びつける為に大声を出そうと息を吸い込む。ほんの僅かに、潮の香が蘇ってきたような気がした。ほんの錯覚だと、自分でも判っていた。

「あのバカはすぐにものを忘れるからな。…気に入ってたってこと自体を忘れっちまうんだろーよ。バカなガキだからな」
 手に取り、一度だけ耳に当てた。

 長安の、三蔵の執務室。筆や印璽と共に、引き出しの奥に眠る巻き貝。もう長い間誰にも触れられていないが、それはちゃんとそこにある。忘れっぽい子供の宝物は、大事に大事にしまってある。
 貝殻の中の海に、自分と三蔵が存在することを信じた子供の夢もそこに眠る。
 幸せそうな笑顔と共に。













fin.





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