恋患い6 / 白猫
【ハボロイ】




『恋患い6〜ハボック編〜』




静かだった。
枕に顔を埋めたままのロイに、声を掛ける事も触れる事もできないままに唇を噛み締める。
「あー…」
沈黙を破ったのは、目の前のひとの困ったような声。
何を困っているんだろう。このひとが今することといったら、自分を怒鳴り付けて追い出すことくらいじゃないんだろうか。
ふと感じた疑問に眉を顰めたとき。
「ハボック」
「はいっ」
突然名前を呼ばれて飛び上がった。
真直ぐに見つめると、その綺麗な黒い瞳が僅かに揺らめいた。
ああ、きれいだ。
一瞬自分の置かれている立場も忘れてうっとりと見蕩れる。このひとの黒が好きだ、と改めて思う。艶やかな髪の黒。煌めく瞳の黒。黒という色がこんなにもきれいで鮮やかで艶っぽいなどこれまで知らなかった。このひとが羽織ると、軍支給の味気ない黒のコートさえ、どんな高級ブランドの品にも負けない最上級のコートに見えた。そして黒を身に纏うこの人が生み出す赤。初めて見たときから、自分を虜にしたその焔の赤を浴びてますます綺麗に輝く黒。その艶やかに輝く黒い髪をついさっきまで自分の無骨な手が撫でていたことを思い出してごくりと唾を呑む。
「シャワーを浴びたいのだが」
「は、はいっ! すぐに用意してきますっ」
突然掛けられた声に夢から覚めた気分で慌てて飛び起きる。そのまま部屋を飛び出そうとしたとき更に背後から掛けられる声。
「ハボック!」
「はいっ」
「ついでにお前が先に浴びてこい。脱衣所の棚にサイズのデカいバスローブやシャツが突っ込んであるから、どれでも使えばいい。ひとつくらいはお前にも着られそうなものがあるだろう」
慌てて振り向くと、何でもないことのように真面目な顔で告げられた台詞に眉を顰める。
「え? ついでって…」
自分なんかより、よほどこのひとの方がシャワーを浴びなければならない筈だ。
そう思って何気なく自分の体を見下ろしたとき、とんでもないことに気付く。
ナニモキテイナイ。
「わっ、す、すいませんっ!」
顔中から火を吹く思いで慌てて部屋を飛び出したとき、背後で確かにそのひとが笑ったような気配がした。



「一体何がどうなってんだ」
服だけ借りて寝室に駆け戻ろうかと思った。けれど、きっとロイにも、考える時間は必要だと思い直して、ざっと体を流してから浴槽に湯を溜める。ぬるま湯に体を浸して大きく息をつけば、今更ながら疑問ばかりが頭を過った。朝っぱらから硬いモノが、いかにも性行のあとだというように汚れていたりしたら、きっとどうしようもなく落ち込んだだろうことは想像するに難くない。だが、特に何の跡も残さないソレには、ほっとすると同時に首を捻った。一体いつのまに後始末をしたのだろう。まさかそれすら覚えていない程酔っていたとも考えにくい。かといって眠り込んだ自分のソレをあの人が綺麗にしてくれたとは思えない。
「舐めさせたとか」
何の考えもなく口にした言葉に、ぼんっと音をたてて体温が急上昇したような気がした。
有り得ねえ、有り得ねえ、有り得ねえーっ!
ぶるぶると頭を振って、不埒な妄想を追い出しにかかる。掌に、指に、そしてロイが寄り添っていた胸に残るさらさらとした黒髪の感触。それがもしもこの下腹部にも…。
「うわっ…」
叫びかけて慌てて両手を口にあてて声を押さえる。こんなところで馬鹿な妄想に騒ぎたてている場合じゃないだろう。自分を叱咤してから、深呼吸をして。
(とりあえずそれはあとだ)
汚れていないのならきっとシーツででも拭ったのだろう。ああ、きっとシーツも酷く汚れているに違いない。そんな場所にあのひとをいつまでも寝かせておくなどとんでもないことだ。風呂から出たら真先にシーツをかえなければ。洗濯はさせてくれるだろうか。いや、それより、もうそんなシーツを使いたくはないだろう。新しいシーツを弁償しなくては。ああ、きっと、シーツも高級品に違いない。一体幾らくらい…。
(だからそうじゃなくて!)
放っておけば、どんどんワケのわからない方向へ向かっていく考えは、現実逃避に他ならない。今、考えなければならないことは、これからどうするかということで。
(謝ろう)
もういちど。もっときちんと真剣に謝ろう。許してくれるかどうかわからないけれど。そして謝ったら。
(…どうするんだ)
何もなかったかのように、すべてを忘れて、これまで通り上司と部下として。そんなことができるのか?
いや、自分にそれができるできないが問題じゃないのは確かだ。ロイ自身がそれ以外は絶対に許さない。けれど。ずっと抑えてきたこの想いを、ここまで晒しておきながら、今更何もなかった顔が自分にできるというのか。
あのひとは、今頃なにを想っているのだろう。
自分を恨んで憎んで? けれども、あの笑顔は。あの接吻けは夢ではなかった筈だ。きれいなきれいな笑顔。夢現のなかで見たその表情は、もしかしたら自分のなかで随分と美化されているかもしれない。それでもあれは紛れもなく現実だった筈だ。
ロイとしては、ただ、酔いに任せて戯れあうだけのつもりだったのかもしれない。その行為の先に、そんなものが待っているとは思ってもみなかったのかもしれない。けれど。

あのひとの気持ちが知りたい。

ざばん、と音をたてて、浴槽から立ち上がった。新しい湯をためる為に残り湯を流してざっと浴槽を洗うと蛇口を捻る。
とにかくまずは体をきれいに流してもらってから、もういちど、今度はゆっくりと話をしよう。その前に食事も必要だろう。何か簡単で食べやすいものでも作って…。
「あっ!」
そこまで考えたとき、ふと思い当たる。
今は何時だ? 自分は今日は朝から出勤なのではなかったか?
「うわ」
このまま出勤などできるわけがない。なんとか理由をつけて休みを取らなくては。ロイは確か今日は非番だった筈だから問題はない。あのひとが浴室を使っている間に司令部に電話をして、それから食事の準備を…。
脱衣所にあったタオルで体を拭いながら頭のなかでこのあとの計画をたてる。そのまま無意識にロイから聞いた棚を探って服を探す。バスローブにシャツ。言われた通り、無造作に突っ込んであるそれらのなかから、自分に合うサイズのものを探して羽織ったとき、ふと感じた違和感。

……何故、こんなものがあるのだろう。

ロイのものとは確実に違うサイズの男物の服。脱衣所にあるということは、此処で浴室を使う者がいるということだ。
「ヒューズ中佐?」
思い浮かぶのは、中央にいるあのひとの親友。中佐であれば、此処に泊まっていても、着替えがあってもおかしくはない、が。
此処に置いてある服のサイズは、1サイズではなかった。

「…大佐?」

当たり前のように此処で浴室を使うような男が、中佐以外にもいるのだろうか。


黙ったまま、浴室に戻って蛇口を元に戻す。
あのひとを呼んでこなければ。
ついさっきまで感じていた高揚感があっという間に萎んだのを感じながら、ゆっくりと寝室に戻る。
扉を開くと同時に振り向くひとの何か決意を秘めたような視線。


ずきん。
胸の奥底がひどく疼いた。





『恋患い7』に続く