恋患い4 / 白猫
【ハボロイ】




『恋患い4〜ハボ編〜』





「おはようございます、大佐」
「ああ、おはようハボック」

名前を呼ばれて、想像したこともないくらいに、身体中が歓喜に震えた。まだ半ば寝惚けているかのようなふうわりとした表情を浮かべる人を見つめながら、ふっと頬が緩むのを自覚する。黒く艶やかな髪は、くしゃりと寝乱れて。僅かに潤む黒い瞳が、まっすぐと見つめてくる。
なんて綺麗なんだろう。
白い肌、細い首。僅かに色付いた頬。普段軍服を着込んでいるときには気付かなかったこの人の艶やかさに、どきどきと高鳴る心臓。
昨夜、確かにこの人からの接吻けを受けたのだと記憶している。けれど、それまでの経緯も、その後のことも記憶から抜け落ちていて、それがひどく悔しい。それでも。
接吻けの際の綺麗な笑顔を思い出して、蕩けそうな思いのままに、もういちど声を掛けようとしたとき、目の前のひとが、不意に身じろいだ。
「痛ッ」
支える暇もなく、ベッドに崩れ落ちた愛しい人。
「だ、大丈夫ですかっ」
咄嗟に叫んで手を差し出そうとした瞬間、突然脳裏を過った考えに、身体が硬直した。身体を支えられない程の痛みなど、どう考えても尋常ではない。鍛えあげられた軍人として。しかもこれまでに自分達の想像もつかない程の修羅場を潜り抜けてきたこのひとが、ここまでダメージを受けるような出来事、それは。思い当たった唯一の原因に、一瞬にして頭が真っ白になった。何も答えないひとに、確信する。これは矢張り。
「俺が無茶したからですよね」
返事はなかった。
当然だろう。ついさっきまでの脳天気な自分を殴りつけたい思いで拳を握りしめる。このひとからの接吻けや綺麗な笑顔。そんなものだけを覚えている自分の浅ましさに吐き気がした。どうしようもない裏切り。この人にいますぐ切り捨てられても当然だという事実に愕然とする。
切り捨てられるのだろうか。
途端、心臓が凍り付き、言葉だけが唇から零れた。
「大佐。どうかひとつだけきいてください」
どうすればこの気持ちが伝わるだろう。
「俺、あんたに一生ついて行こうと決めていました」
違う、これではまるで別れの言葉の様じゃないか。
一瞬唇を噛み締めてから、もういちど言葉を絞り出す。
「だからこそ、俺、あんたのことそういう意味で気になっているだとか、あんたを抱きたいとか、一生言うつもりはなかったんです」
だから、なんだっていうんだ、こんな告白のようなものを、今更言われても、このひとは困るだけだろう。
実際に目の前のひとは、あからさまに、眉を顰める。
「あんたが男には興味ないのは解っていましたし、俺だってあんた以外の男に、そんな想いを持ったことなんかないです。だからこれは恋愛感情なんかじゃなくて、きっと尊敬の気持ちなんだと言い聞かせようとしたんスけど、普段のあんた見てるとそれも無理で」
何を言っているんだ。
頭の中の誰かが冷静に突っ込めば突っ込むほど、唇から溢れる言葉は、どんどん拙くなっていく。
「だからこれはきっと本当にそういう意味で、けどあんたにはそんなこと絶対に言えなくて、でもそれでいいって思ってたんです。あんたを好きだということ、俺がそれを判っていればもう充分で、そういう関係にならなくても全然…、いや、でも勿論あんたにキスしたいとか、もっといろいろシたいとか思ってなかったワケじゃなくて…」
もう滅茶苦茶だった。このまま切り捨てられるにしろ、とにかく、謝りたい、それだけだった筈なのに。言い訳と未練に塗れた言葉は、どんなに醜いことだろう。
「でも本当に、あんたを傷つけるつもりなんかこれっぽっちもなかったんです。なのにこんな…。どんなに謝って済むことでもないと解っています。けど本当に…」
ごめんなさい。
漸く出て来た謝罪の言葉。けれど、それだけで終わっていい筈がなかった。
何よりも、伝えておかなくてはならないことがもう一つ。好き勝手した自分がどれだけ浅ましいのか、それも、この人は知るべきだったから。
「大佐」
ようやくゆっくりと振り向いたひとの濡れた瞳がまっすぐに射抜いてくるのを見つめながら。
「俺、あんたにしてしまったこと覚えていないんです。さっきまで、ほんとにあんたとのキスのことだけ考えてたんです。まさか自分がそこまであんたにしてしまっていたとは思っていなくて」
そしてそのままベッドに頭を擦り付ける。
「本当にすみませんっ」
言ってしまった。
「なっ、ちょっと待て…ッ」
慌てたような声だけが、頭の上から降ってくる。怒ってくれればいい。怒鳴ってくれればいい。それとも、覚えていないことに、安堵するのだろうか。シーツに擦り付けた額に冷たいものを感じて、ぎゅっと目を閉じたとき。
「痛っ」
「大佐っ」
低く悲鳴をあげたひとに、慌てて顔を上げる。その細い背中に手が触れた瞬間に気付く。触れてはいけない。この人には二度と触れることは許されないだろう。慌てて手をとめると、目の前の背中がふっと力を抜く。
「…あ。」
「大丈夫ですか? あの…痛いですよね。薬とか、えっと何かその…」
何をすればいいのだろう。そんなことをした経験など皆無だから、何をどうすればいいのかなど、わかるハズもなく。薬箱を探そうか、それともシャワーが先だろうか。視線を泳がせたとき、ゆっくりとかけられた声。
「ハボック」
掠れた声が、ひどく痛々しい。
「はいっ」
「ひとつ訊きたいんだが」
「はいっ」
「お前が覚えていないというのは、つまり…」
「…それは」
しっかり確認しなければ、きっと落ち着かないのだろう。ごくりと唾を呑み込んでから、静かに声を出す。

「ごめんなさい、大佐。俺、あんたを抱いたこと覚えていないんです」


ごめんなさい。酷いことをしてしまったことに。
ごめんなさい。一人、勝手に喜んでいたことに。
ごめんなさい。挙げ句に都合の悪いことは覚えていない浅ましさに。



けれど。

本当にあんたのことが好きなんです。

こんなこと今更言う資格はないけれど。




fin.

『恋患い5〜ロイ編〜』に続く。