| 恋患い10 / 白猫 |
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【ハボロイ】 『恋患い10〜ハボック編〜』 「お前は」 沈黙が流れていた。どんなに後悔しても取り戻せない台詞の余韻だけが、静かな部屋に漂う。 泣きそうに見えた表情は、すぐに何も考えていない無の表情に変わって、それからゆっくりと開かれた唇。 「そう思うのか」 傷付いただろうに。酷い言葉をかけてしまったというのに。まるでなんでもないことのように、冷静な顔と何かを諦めたかのような口調。 「大佐」 「いや、いいんだ。そうだな、そういう噂は確かにあることだし、私もいちいち否定して歩くわけではないからな」 「大佐」 傷付いていない筈なかった。誰よりも強いこの人が、本当はひどく繊細で弱い一面をも持っていることを、自分はよく知っている。けれど、やれやれとばかりに肩を竦めてみせたひとは僅かに笑みさえ浮かべて。 「悪かった。ちょっと調子に乗り過ぎたようだ。お前の気持ちなど考えていなかった。今朝のことは全て忘れてくれていい」 「たいっ…」 駄目だ、こんなカオをさせたいんじゃない。何かを言おうと声をあげたとき、突然部屋に響く呼び鈴の音。 「ああ。さっきデリバリーを頼んだんだ。ここには食事になるようなものはなにもないからな。悪いが、受け取ってきて貰えないだろうか。財布は…ああ、そこにあるから」 「大佐、俺はっ…」 まるですべてがなかったことのように。残業の夜、執務室に夜食が届いたときと変わらぬ様子で。 一体何を言えばいいのだろう。あんな酷い言葉を吐いておいていまさらどんな顔をすればいい? 言葉に詰まったとき、もう一度鳴らされた呼び鈴に、唇を噛み締める。黙って財布を掴んで部屋を出る、その背後からは、思った通り、声がかけられることはなかった。 「遅くなって悪かったな」 玄関の扉を開けた途端、目の前に立っていた若い男がびっくりしたように目を見開いた。 「えっと、これ、マスタング大佐の御注文で…」 「ああ。大佐、奥にいるから。幾らだ?」 差し出された伝票を見て、現金を支払う。手渡された大きなトレイには、大きな布が掛けられていて、中身を伺う事はできない。 「大佐、よく出前頼むのか?」 「いいえ。いつもは女性の方とお店にお見えになります。こちらにお持ちするのは初めてで…」 何故だか恐縮しきった様子の青年に礼を言って帰してから、キッチンのテーブルにトレイを運んだ。 「デートのための店か」 わざわざそんなところに電話をして、一体何を頼んだのだろう。なんとなく布を取り上げて、覗き込むと、ふわりと温かい空気といい匂いが溢れた。大きな皿に盛られた焼き立てのパン。小さな鍋にいれられた野菜のスープ、冷たい生野菜のサラダ。卵にチーズ。ハムにソーセージ。それに、ガラスの器に入っているのはオレンジジュースだろうか。 「こんな…」 こんなものをわざわざ届けさせるのか。普通はこれくらい、家にあるべきものじゃないのだろうか。普段、朝は何を食べているというのだろう。そこまで考えてふと感じた疑問。あの青年は、届けるのは初めてだ、と言った。普段は届けさせない。そして家にもない。ということは、いつもは朝食を採らない、ということではないだろうか。あらためて見つめたトレイの上にあるものは、ごく一般的な朝食のメニューではあるけれど。 「あ…」 (朝からたいした食欲だな) 不意に思い出したずっと以前の会話。あれはいつだったのだろう。何故だか覚えてはいないけれど、とにかく家で食事をする暇がなく、どこかで買い込んだファーストフードをデスクに広げていたとき。 (当然でしょう? 朝、食わないと体力もちませんから) (…なんだ、これはっ) 勝手に手にした紙コップを口にして、顔を顰めたひと。 (何って、ニンジンのジュースですけど) (お前、よくこんなものが飲めるな) (飲めないならなんで、って、あんたもしかしてそれオレンジジュースと間違えたんスか?) (うるさい。朝からこんなものを飲むなっ) (んな勝手な。あんたが勝手に飲んだクセに文句言わないでくださいよ。俺は朝はコレって決めてんですから) 「…まさか」 慌てて手にしたガラスの器から、ほんの少しだけ掌に受けたオレンジ色のジュースを舐めてみる。 「ニンジン?」 トレイに乗せられた朝食。普段は取らない出前を頼んだロイ。自身は飲まないニンジンのジュース。 つまり、このメニューは。 「…俺のため?」 (これなら着られるんじゃ…) 着替えを差し出されたときの嬉しそうな顔を思い出す。 そうだ、今朝からずっと感じていた戸惑いのために気付いていなかったけれど。向けられていたのは、ただ好意だけではなかったか。目覚めたとき、体に回されていた腕も、柔らかい髪も。起きてからの表情も声も言葉も。ただの一度だって、嫌悪や悪意を向けられることもなく、かといってまったく感情を向けられなかったのかと言えばそうではなく。 「大佐」 まっすぐに向けられていた好意。それに対して自分が返したのは一体何だ? 戸惑いと疑惑。あげくにあんな酷い言葉を投げ付けた。 何も考える余裕はなかった。ただ急いで寝室に向かって、開いたままの扉から一歩足を踏み入れようとして、そのまま足を止める。 部屋の真ん中で、何かをぎゅっと抱き締めて蹲るひと。 その小さな背中を見た瞬間流れ込んできた渦巻く感情。 「大佐」 そっと声をかければ、びくんと震えたロイが顔をあげた。まるで叱られた子どものような表情。 慌てて立ち上がろうとしたロイが足を縺れさせたのに気付いたとき、体が先に動いた。 「危ないっ」 駆け寄って、ふらついたひとを抱きとめる。 「大丈夫ですか?」 「なんでもない。ああ、これ、お前の軍服だ」 「すみま…」 無意識に受け取ろうとしたとき、ふと目に入ったもの。小さなゴミ箱に放り込まれているのは、確かについ今し方差し出されたばかりの黒い服。 「大佐? あれは」 「ああ。もう使わないかと思ったんだが。使うのか?」 「いえ、そうじゃなくて。…だって、誰かのものなんでしょう?」 「誰が使うんだ、あんなもの。あんなデカいものを着るのはお前くらいだ」 「けど、あんたはそれを用意してたんじゃないですか」 「用意? いや、別にお前の為に用意してたわけじゃない」 「そんなこと言われなくてもわかってますよ」 一瞬眉を顰めてから言い直す。 「でも、誰かが着るから置いてあったんでしょう?」 「というよりは、捨てるのが面倒だったから、だな。というより、本当は、ヒューズがあんまり馬鹿笑いするから、いつか役に立ててやろうと思ったんだ」 「え?」 どういう意味だ? このひとは何を言っている? 緊張に体がかたくなる。 「なんだ?」 「だって、誰かの為に用意してあるんでしょう?」 「何をだ?」 「だから大きな下着とかシャツとか」 「ヒューズの為のものならあるが?」 「いえ、でもそれはヒューズ中佐には大きいでしょう?」 僅かに震える指でゴミ箱を指差す。 「ああ。間違えたんだ」 「…え?」 まるでなんでもないカオで肩を竦めるひと。 「昔からよくやるんだ。そこらにあるものを適当に掴んで買って来るのはやめろといつもヒューズに説教されて……、ハボック?」 そんなばかなことが。 「どうした? なにか…」 ばかなのは自分だ。 殴りつけたい思い。 「大佐!」 そのままその場に土下座して頭を絨毯に擦り付ける。 俺はなんて馬鹿なんだ。 「な、何をしている?」 「すみませんでしたっ!」 「ハボック?」 「俺、勘違いしてました! さっきの台詞、忘れてくれとか調子のいいことは言えないっすけど、でもすみませんっ、本当にごめんなさいっ!」 言葉を選んでいる余裕などなかった。ただひたすらに謝り倒す自分の前に、ロイが屈みこむ。 「ハボック? お前いったい何を?」 「嫉妬したんです」 「…は?」 「あんたの浴室や寝室に男物の着替えや、下着まで置いてあって…」 「なっ」 すべての気持ちを伝えよう、と言葉を絞り出す。もう今更隠すことも、迷うこともなかった。自分にできる唯一のことは、この気持ちをすべて伝えること。ただそれだけしかなかった。 「最初は中佐だと思ったんです。でもサイズが違うから。あんたの周りにはもっと他にも俺の知らない奴がいるのかと思って、思ったら堪らなくて、俺にそんなこと言う権利なんてないですけれど、でもすごく悔しくて、こんなに舞い上がってる自分がバカみたいで、腹がたって悔しくて悲しくてそれで…」 「私が他の男と寝てると?」 「すみませんっ!」 許されるはずもない浅はかな自分の考え。言葉にすればするほど、そのくだらなさ加減を思い知らされる。こんなつまらない自分の思いのためだけに、この人を傷付けたのだと。 「顔をあげろ、ハボック」 「はい」 静かな声に顔をあげてみれば、何かを戸惑っているかのような表情。 「ひとつ訊かせて貰ってもいいか?」 「はい」 もうなにひとつ偽ることも誤魔化すこともないから。 「おまえは」 そしてひとつ大きく息を吸った人が。 「私のことを好きなのか?」 静寂のなかで、まっすぐに見つめてくる黒い瞳に、これだけだ、と不意に理解した。一体これまで自分は何を考えていたのだろう。こんなにも確かなものが此処にあったというのに。確かな、たったひとつのもの。それは。 「大佐」 ただひとつの真実。 自分から、この人に伝えることのできるただひとつのこと。 「好きです」 その途端、目の前にきれいな微笑がひろがった。 「そうか。奇遇だな…」 もう、言葉は要らない。 ただ、何も考えずに目の前のひとを抱き締めていた。 『恋患い11〜ロイ編〜』に続く |