悟浄君の家庭の事情 -2-
それほど珍しいことではないのだが、猪俣家の長男が酔っ払って帰ってきた。
繰り返すようだが、それ自体は確かにそれほど珍しいことではないのだが。
時間といえば日付が変わってしばらく経ったときのことで、明日の朝も早い父親と次男はすでに眠りについており、一階にはパソコンと格闘中の自分しかいないという今の状況と、どうやら相手がいつもよりかなり深く酔っているらしいことに気づき、三蔵は思わず舌打ちをしていた。こんなときに限って・・と内心でつぶやきながら。
ただいま〜という呑気な声が聞こえてきたが、あえて無視をきめこんで、三蔵はテーブルの上に置かれたパソコンの画面に集中する。こちらから手を出さなければ、何事もなく二階に行くかもしれない・・そんな考えがあったのだが、甘かったようだ。
「三蔵サマー、たっだいま〜」
勢いよく居間のドアが開いたかと思うと、やたらと陽気になっているらしい男が現れたのに、本来座るべき場所に腕をかけるようにしてソファーに寄りかかった体のまま、三蔵は再度舌打ちをする。
「・・酔っ払いは、さっさと寝ろ」
俺は忙しいんだよ、とだけ口にして、何事もなかったように作業を続けようとしたものの、自分の方に歩み寄ってきた男に突然顎を上向けられて、三蔵は思わず瞳を見開いていた。
「・・おい」
「・・・・んー?」
次第に顔を寄せてくる男を睨みながら、三蔵は言葉を紡ぐ。
「・・何してんだよ」
「・・してるんじゃなくて、これからするのよ」
呂律がまわりきっていない口調での言葉が返ってきたのに、三蔵の眉がつり上がる。
「だから、何をっ!」
「三蔵サマにー、おやすみのーキスー」
「しなくていいっ!」
叫びながら、力いっぱいとはいかないまでもそれなりの力を込めて殴ったのにもかかわらず相手が平然としていることに、三蔵は眉をひそめていた。酔っ払いは痛覚が弱いのだろうか・・などと思ってしまう。
「・・じゃー、じゃんけん」
「・・あ?」
突然口を開いた男が音にした言葉に、三蔵はこめかみのあたりをひきつらせていた。
「じゃんけんだってば」
「・・わいてんのか?」
「最初は、ぐー」
聞いてねぇな、などと舌打ちをしながら呟きつつも、小さな頃からの条件反射としか言いようがないのだが・・じゃんけんぽん、と言われるなり、自然と開いた手を相手のほうへと差し出してしまっていたことに、三蔵は自分のことながら舌打ちをしたくなっていた。
しかも、相手は「はさみ」と呼ばれるものを出していて。
つまり、かなり無理矢理なものだったとはいえ、三蔵は相手からもちかけられた勝負に負けた敗北者となったわけである。
「・・それじゃ、俺の言うコト聞いてもらおっかな〜」
やけに楽しそうに言葉を紡ぐ悟浄を前にして、三蔵の表情が歪んだ。
「なんで、貴様の言うことを聞かなきゃならねぇんだよっ!」
「だーって、負けたじゃん、三蔵サマー」
いつの間にか相手が自分の腰のあたりに手をまわし、身体を自身の方へと引き寄せようとしているのに、三蔵の眉が先程よりもつり上がる。
「・・いいかげんにしろよ、馬鹿長男」
再度近づいてきた顔の顎のあたりに手をやると、三蔵は思いきりそれを向こうへと押しやった。
「・・でっ」
淀んだ声と鈍い音が聞こえたものの、そんなことにはかまっていられない。
「・・俺は忙しいって、さっきから言ってるだろうが」
そう言ってパソコンに視線を戻した三蔵を、しばらく無言のまま見つめていた悟浄が、ゆっくりと動く。
こりずに酔っ払いが近寄ってくるのに、意識が完全になくなるくらいに叩いてやろうか、と一瞬考えてしまったのだが。
「・・これなら、邪魔しないでしょ?」
笑みの形に細められた目が自分を見上げてくるのに、三蔵は沈黙する。
自分の片足の上に頭をのせてしまっていた男の表情は、いつになく楽しそうだった。
「ひざまくらって、憧れてたのよ」
正確に言えば、片腿・・片足まくらー?と、言葉が続く。
「・・野郎の足に頭のせて、楽しいのか?」
「楽しー」
あきれたように言ったのにもかかわらず、呑気な口調での言葉が返ってきて、三蔵はため息をついてしまった。
「・・相手には不自由してねぇんだろ」
女にやってもらえばいいじゃねぇか、と続いた言葉に、悟浄が首を横に振る。
「三蔵サマのが、いいんだってー」
それに、と言葉が続く。
「・・三蔵サマ一筋だもーん、俺ー」
目を閉じたまま得意そうに呟いた男は、それきり無言になって。
しばらくして心地よさそうな呼吸が聞こえてきたのに、三蔵は何度目になるのかわからない舌打ちをしていた。
「・・酔っ払いが、戯言言いやがって」
思わず、そんなことを呟いてしまう。
膝にのっている相手の頭は非常に重い上に邪魔で邪魔でどうしようもないのだが、あまりにも幸せそうな顔をして眠りに落ちている様を見てしまっては、舌打ちして放っておく以外は何もできそうにない。
「・・仕方ねぇな」
あいているほうの足を立てて、この論文が終わるまではこうしておいてやるか、と考えた三蔵は、足が痺れておかしくなる前には絶対に終わらせる、などと同時に決心をしていたのだが。
ふと、眠っているはずの男の手がゆっくりと動いたかと思うと、器用にも立てられていた方の足を撫で上げたのに、三蔵の瞳が見開かれた。
「・・貴様っ」
思わず叫ぼうとするなり、いつの間にか身体を拘束するかのように相手の腕がまわりこんできて、三蔵は言葉を失う。
次の瞬間に、強い力で床の上へと押し倒されて。
相手を睨むことしかできない自分に、三蔵は非常に腹が立っていた。
「・・一緒に寝ない?」
あいかわらず楽しそうな顔をして言われても、更に腹が立つばかりで。
「さっきから言ってるじゃねぇかっ!俺は、忙しいんだよっ!」
と、三蔵は叫んでいた。
「あ、そ」
でも、と言うなり、悟浄は三蔵の肩のあたりに顔をうずめて、更に強く身体を抱き込んでしまう。
「・・離さないから、俺」
そんなことを口にしながらも、数分後にまたもや心地よさそうな呼吸が間近から聞こえてきたかと思うと、相手の腕の力が抜けた。それを見逃さずに、三蔵は相手の身体を向こう側へと押しやるようにして男の腕の中から脱出する。
そのまま床の上で眠り続ける男は、今度こそ目を覚まさないようで、今夜中に終わるかわからなくなってきた論文に再度集中しながら三蔵はため息をついた。
ふと、相手が先程音にした言葉が、意識を掠めていく。
『・・三蔵サマ一筋だもーん、俺ー』
断じて、あんな科白が原因で、相手の行動を妥協してやろうと思ったわけではないが。
酔っ払いの戯言だと思い込もうとしているのは、もしかすると自分だけなのかもしれない、などと。
一瞬でもそんなことを思ってしまった自分にあきれながら舌打ちをして、三蔵はキーボードの上に手を置いた。
時折死んだように眠る男の姿が視界のすみに入ったが、あくまでも論文に没頭し、彼は指を動かしていた。
翌朝。
何故か居間で大の字になって寝ていたことだけでなく、身体の上にぞんざいに掛けられていた布団の存在に、悟浄は二日酔いではっきりしない頭を悩ませることになるのだが。
顔を合わせるなり、じゃんけんをする、などと言い出した想い人の行動が更に不可解で。
しかも、自分があっさりと負けるなり、嫌というほどに満足そうな表情になってくれて。
機嫌のよさそうな相手が立ち去った後も、悟浄はしばらくその場で呆然としてしまっていた。
「・・俺、昨日、なんかやった?」
そんなことを呟いたものの、彼に真実を教えてくれる者は存在しなくて。
とりあえず、しばらくは記憶をなくすほどに酒を飲むのはやめておこう、などと悟浄は思っていたりした。
- 続く -
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