悟浄君の家庭の事情 -1-
天変地異の前触れかと思われるくらいに珍しく、猪俣家の大黒柱が酔って帰ってきた。
とはいっても、あくまでも見た目は変わらなく、見慣れた笑顔もいつもと同じだったし、やわらかな物腰も普段通りだった。
・・のだが。
「三蔵・・ただいま帰りました」
などと玄関で言うなり、とくに出迎える気があったわけではなく偶然その場に通りかかった三蔵の腕をつかむなり、突然息子たちのいる前で熱い口づけをしてしまったことだとか。
何事かと様子を見に玄関へとやってきたものの、視界の中に飛び込んできた場面がかなり衝撃的で、まさかこんなところで本番を・・などとそろって心配した長男と次男が、同時に思わず心臓を高鳴らせてしまったくらいに、三蔵の身体をきつく抱き締めて壁に押し付けていたことだとか。
それなりに節操のある父親にしては、珍しいことばかりだった。
「あーそういや、今日飲み会があるって言ってたっけ」
とりあえず三蔵の身体を解放することに成功した悟浄が、父親の身体を悟空と一緒になんとか居間のソファーへと運びこみながら言うのに、三蔵が舌打ちをした。
「・・茶と同じパターンの酌でもされたんじゃねぇのか」
「お茶?」
目を丸くして不思議そうに言った悟空には何も返さずに、少しだけ息の上がった体のまま、三蔵は八戒の隣のソファーへと座り込む。
「そりゃ、立場上酌はされるだろうけど、そう簡単に親父が酔うわけねーって」
「常識をこえたスピードでされたんだろ」
まるでその場を見てきたかのように、しかもどこかしら刺があるように感じられる口調で言葉を紡ぐ三蔵に、悟浄はそれ以上は何も言わずにいた。
「俺、とにかく水持ってくるから」
そんな中、悟空が先の言葉を口にして、居間を出ようとしたときのことである。
「・・水はいいですから、タオルをもってきてください」
ソファーに埋もれるかのようにして座っていた八戒が、笑顔でそんな言葉を紡ぐのに、悟浄は目を見開いた。
「・・タオルって・・おい?」
完全に酔っ払ってんのか?と続いた科白を聞いているのかいないのか、いいから、もってきてください、と八戒は繰り返す。そんな父親に逆らう術をもたずに、悟空は真新しいタオルを棚の中から持ってきたのだが。
それを手渡すなり、父親が突然しでかした行動を、長男と次男はそろって無言のまま見つめてしまっていた。
「なっ・・」
何しやがる、と続いた三蔵の科白に一切かまうことなく。
八戒は、彼の瞳をタオルで覆ってしまった。
「ゲームをしませんか?」
なんとか目隠しをとろうとする三蔵の身体を抱き締めてしまいながら、笑顔で父親が言葉を紡ぐのに、兄弟はあいかわらず逆らう術をもたなかったのだが。
「・・スイカ割りでもすんの?」
力ない口調だったとはいえ、とりあえずそんなことを悟浄は言っておいた。
「スイカがないのに、どうやってやるんです?」
静かな口調で返ってきた科白に、一応今現在家の中にスイカがないことはわかってんのか・・と妙なところで感心していた悟空の前で、八戒は三蔵の身体を拘束したままである。
「離せっつってんだろっ!」
「・・当てられたら、離してあげますよ」
ひどく優しい口調で、八戒は言った。
「これから誰が、貴方にキスをするか」
・・・・・・・・は?
そろって間が抜けた顔をしてしまった兄弟と、自分の腕の中で身体を強張らせた三蔵の様を見ながら、やけに八戒は楽しそうだった。
「・・・・ふざけんのも、いいかげんにしろっ!」
酔っ払いの娯楽につきあってられるか、とばかりに三蔵が立ち上がろうとしたときのことである。
自身の身体を抱き締める腕の力が、更に強くなったかと思うと。
唇を慣れたあたたかさでふさがれて、三蔵は完全に身体の動きを止めていた。
「・・ちなみに、今のは僕ですから」
参考にしてくださいね、と楽しそうに三蔵の耳元で囁いてから、ゆっくりと視線を移動させた父親と真っ直ぐに目が合ってしまい、悟浄は顔を思いきりひきつらせる。
そして、更ににっこりと微笑まれて。
背筋に、すさまじい寒さを感じた。
これ以上のものはないくらいのやわらかな笑顔でありながら、目が全く笑っていないように思えて、恐ろしくて仕方がない。
よかったじゃん、キスしちゃえばいーじゃん、とばかりに音を立てずに手を叩くまねをする弟の姿を見て、そういう問題じゃねーだろ、と叫びたい気持ちをやっとのことで抑えて、悟浄は飛び出さんばかりに心臓を高鳴らせつつも父親の方を見る。邪気のない笑みを浮かべている様は、どう考えても「今度は貴方がキスしてみてください」と言っているようにしか思えないのだが・・同時に、絶対に何か裏があるはずだ。だいたい、どんな顔をして、この父親の前で、溺愛している存在へとキスなんてしなくてはならないのか。そりゃー、させてもらえるのは嬉しーケド・・・・・・・・・・そうじゃなくてっ!と悟浄は首を横に振る。
しかし、父親はやわらかな笑みを浮かべ続けるだけで。
その笑顔は、しまいには慈愛に満ち満ちたものに見えてきて。
・・この笑顔をいつまでも見ているよりはマシかも、などと思ってしまった悟浄は、覚悟を決めて父親の腕の中に拘束されている存在のほうへと歩み寄っていた。
・・どーせなら、自分の腕で抱き締めながらやりたいけど。
そんなことを思いつつも、そっと想い人の方へと顔を寄せ、静かに唇を重ねる。
何度かだけとはいえ味わったことのあるやわらかさは、あいかわらず意識が曖昧になりそうなほどで。
父親と弟の突き刺さるような視線を感じたが、目隠しがあるのにもかかわらず、唇を重ねた相手からの視線が一番痛かったように思う。
相手の唇のあたたかさを感じた後、重ね合わせた唇から鼓動の速さが伝わってしまうんじゃないだろうか、などと思ってしまうほどに高鳴る心臓を無理矢理抑えるようにして。
悟浄は、ゆっくりと唇を離した。
「・・三蔵」
あいかわらず楽しそうな口調で、八戒は言う。
「今のは、誰だかわかります?」
微妙にはりつめた空間の中で。
三蔵の声は、嫌というほどによく響いた。
「・・・・・・・・・・悟、空?」
「ああああっ!?」
次の瞬間に部屋中に響いたこの叫びには、かなわなかったが。
「ちょっと待てっ!親父と間違えんならともかく、サルと間違えるってどーゆーことよっ!?」
三蔵の両肩をつかんで前後に揺らしながら叫んだ悟浄が、勢いよく視線を移動させて、悟空を睨む。
「お前、まさか・・」
「や、やってないってっ!」
ひどく慌てながら首を横に振りつつ、悟空が叫ぶ。
「頬にはキスするけど・・そんな・・俺、無罪だってばっ!」
「じゃー、なんでお前の名前が出てくるんだよっ!」
「いや、さっき親父がやったんだから、フツーは二択しかないじゃんっ!」
「うるせぇっ!」
騒いでいる兄弟を一喝した三蔵が、目隠しをしていたタオルを床の上に投げ捨てる。
「こんなくだらねーこと、いちいち真面目にやってられるかっ!」
そんなことを叫ぶ三蔵の目元が、わずかに染まっているのを見て。
・・あれ?と悟浄が思ったときのことだった。
第一、と三蔵が言葉を紡ぐ。
「・・貴様の名前なんか、口にしてたまるか」
この男の前で、とでも言うかのように、紫暗の瞳が少しだけ揺れて。
いつの間にか気持ち良さそうに眠りに落ちている人間の姿を認識してから、また真正面に戻るなり、ずかずかと歩きながら三蔵はその場を立ち去った。
足音がだんだんと遠ざかり、ばたん、と二階の部屋のドアが閉まる音が聞こえてきて、しばらく経ってから。
今更のように弟と視線を合わせて、悟浄はゆっくりと口を開く。
「・・なんだか、情けねー話だけど」
少し掠れたような声で、悟浄は続けた。
「・・・・嬉しーかもしんないわ、俺」
要するに、自分は父親に完全に敗北しているわけだけれども。
もしかすると。
・・もしかすると。
勝手な考えかもしれないけれども。
ほんの少しかもしれないとはいえ。
意識してもらえているのはないだろうか。
意識しはじめてくれているのではないだろうか。
「・・それで、いいんじゃん?」
笑いながら、悟空が言う。
いつの間に、こんな笑い方ができるようになったんだか・・などと思ってしまっていた悟浄の前で、悟空は更に笑みを深くして、親父にはここで寝てもらえばいいよなー、と言いながら掛け布団をとりにいった。
あいかわらず幸せそうに眠っている父親を横目に、先程まで自身の想い人が存在した場所に座り込みながら、悟浄は一度だけため息をつく。
まだまだ、相手との距離はあるけれども。
少なくとも、スタートラインには立てたということだろうか。
・・つーか、これだけやって、まだスタートラインってのもなぁ・・などと自分の考えたことに思わず苦笑してしまいながら、悟浄は前髪をかき上げる。
掛け布団をもって戻ってきた悟空と、明日記憶あるのかなー、いくら親父でも曖昧なんじゃねーの、などと呑気な口調で話し合っていた彼は。
その話題の主の口元が、先程よりもわずかに深い笑みをつくりあげていたことなど、知る由もなかったのだが。
- 続く -
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