とある日常 -2- 

HURRY UP !

♪から〜ん、ころ〜ん、からんからん、ころん♪
などと高らかに下駄の音を響かせながら天蓬は「ある場所」へ向かっていた。

先ほど金蝉と交わした馬鹿話。
それはたわいも無いジョークではあったけれど、もしかしたら意外な核心を突いているのかもしれない。
「嘘から出た真、いや瓢箪から駒、ですかねえv」
極上の微笑を浮かべながら、ゆったりと進む天界切っての元帥。
文字面だけ並べれば、優雅で威厳に満ちた印象だが、実際は着萎えた白衣に下駄。
それも「厠専用」と書かれている。

「ま、外見から判断する父親の可能性はあの人物が高いですが、意外なところから攻めるのも面白いでしょう」
ふう、とかなりタールの重い舶来の煙草を指にはさみつつ紫煙を吐く。
その白い煙が流れていく先にはうららかな日差しに照らされた中庭が広がっており、咲き乱れる草花には蝶が飛び交い、芳しい樹木には鳥達が美しいさえずりで耳を楽しませる。
「でもま、ギャラリーは多いほうが萌えますからvっと、燃えでしたかvv」
景色を楽しみつつ、その頭脳をフル回転させてあらゆる可能性を考慮し、導き出される華麗な策略の数々。
・・・角を曲がって、ある扉をノックする。

「いますか?捲簾」
「あ?なんだ珍しいじゃねえか。出不精の元帥副官閣下がこんなところへお出ましとは」
「結構な出迎えですけどね、そういうとこからの物言いだとありがたみも失せるってもんですよ?」
見上げる天蓬の視線の先は3階建ての建物の窓の外、その近くまで張り出した木の枝に腰掛けて、これまた常備の酒ビンから手酌で般若湯を嗜む捲簾大将の姿があった。
「で、何のようだ?こっちは忙しいんだ。部屋の片付けなら、今はお断りだぜ」
「うーん、どっちかっていうと、物事の片付けに近くはありますが、酒の肴にももってこいだと思いますよ」
「なんだ?もったいぶった言い方するじゃねえか」
興味を引かれたのか、よっと掛け声とともに身軽に窓枠を飛び越えて室内へ戻る。
手にした杯の中身は零れていないからたいしたものだ。
「ま、普段なら真っ先に疑われますが、今回は貴方も免除されますね」
「はあ?」
極上の微笑で、とくとくと自説を語りだす天蓬を捲簾がいぶかしむが、その流麗な口調は立て板に水のちょうしで続けられる。
「アルビノですからねえ。皮膚と色彩からいっても、まあかなり絞られますが、最初からどんぴしゃでも・・・うん」
ぽん、と拳でもう一方のたなごころを叩くと、そのまま捲簾を引っ張りながら部屋を出ようとする。
「おい、さっぱりわかんねえぞ?!」
「金蝉のお相手を突き止めに行くんですよv」
「はあ?ってそっちはお偉方共の執務室じゃねえか」
「そうですよvまずは頭からいかないとv」
「って、まさか?!」
「そうまさかです!」
捲簾の眼前にびしっ!と人差し指を突き立てて断定するその人物は!
「間違いありません、あの特徴的な髭!といえば!」
「言えば?」
ごくりと捲簾の喉が鳴る。
「玉泉山金霞洞玉鼎真人門下清源妙道真君こと二郎神に決まってるじゃないですか!」




愛の賛歌

天蓬の言葉に、捲簾の顎がぱかーんと開いた。

「あの髭の他は…何となく目つきがわんこ系って辺りも似ている様な気もしますし。金蝉は白竜を『押し付けられた』と言っていたんですよ。観世音菩薩の補佐をしながら妊娠、出産を隠し通した二郎神は偉いですねえ。大変だったでしょうにねえ。頑張って産んでから押し付けるって、なんだか生活に疲れた感じが出てて面白いなあ。あ、『押し付けられる』って、他人の子供を押し付けられた可能性もありますよね。…実は観世音菩薩との間に出来た子を『あなた愛してるって言ったじゃない!』とかって押し付けられちゃってたりしてね。うわあ、ドラマですね、ドラマ。もお、どっちが産んだんでも面白いからいいや」

(変なドラマ見過ぎてオカシくなってんの、お前だろう……)

わくわくとした顔で無責任な想像を巡らせる目の前の男を見ながら、捲簾はどうしようもない脱力感に見舞われた。
一応、自分が上官ということになってはいるが、こんなヤツが上級士官であるという天界軍そのものへも不信感がわき上がる。
(一体、アノ部屋の資料のうち、職務上役立つものと、単にマニアックなサブカルチャー資料と、どっちが多いのか…。アア、言わぬが華というヤツだろうがなあ…)
脱力し切った捲簾の顔は、笑いの表情によく似ていた。

「……二郎神と金蝉との接点は、やはり観世音菩薩ってコトですよねえ?観世音菩薩は果たしてキューピッドだったのか?それとも自分が飽きちゃった二郎神を、金蝉に押し付けたのか?ああ、あの人かなり甲斐性ありそうですからね。…それにしても二郎神、確かに最近やつれてますからねえ。仕事上の苦労だけでなく、生活にも疲れてたんだあ…」
「おい…」
「きっと金蝉と二郎神のふたりで、観世音菩薩に振り回される日常を語り合ってたんですよ。『お互い苦労しますな』『なんとか耐えて行くしか無いな』なんてね。で、ふたりの間に生まれた連帯感が、育まれて愛になったんですよ…」
「おい、天蓬。いーからお前『愛』とか言うのだけはやめとけ?お前が言うと『愛』ってコトバがとんでもなくウソ臭いものに思えるから」
「どーしてです?」
「…ってなあ。そんなモンは軽々しく口にするもんじゃねえだろ?ほら、惚れた奴にだけここぞ!って時に使うとかさあ」
「あなた、言えます?」
「え?」
「上司の妻に手を出す時に、いちいち『愛』を誓えますかと訊いてるんです」
「いや…まあ、それらしいことは…」
「ハッキリと、女性をたらし込む時に、『愛』を誓っていますか?と訊いてるんですけど?」
「……ンなもん、俺は誓いなんてそんなヘヴィな…」
「あなたには言えないような誓いが、彼らの間には存在したのかもしれません!そう、その愛こそが、あの白竜の姿に結晶したのかもしれない!白竜こそが愛の結晶かもしれないんですよ!!」

びしり!

天蓬が指さす方向を、捲簾はついつい眺めてしまった。
太陽の日差しが眼を射抜く。
イタイほどの光に、捲簾は眼を眇めながら手をかざす。

「『愛』こそ光!さあ、一緒に『愛』を探しに行きましょうね」
「……って、おい!お前ヒマなだけなんだろ!?俺を巻き込むなっつの!…お前のヒマつぶしに付き合って降格されんのも、くだんねえ物言いが原因で殺されて2階級特進になんのも、ご免だっつーの!!」
「いーじゃないですか。僕とお揃いで元帥閣下ブラザーズとかって楽しそうじゃないですか。…でも前フリで殺されちゃ面白くないですね。逃げ足の準備だけはしといてくださいね」
「おい!天蓬!?」
「いざ!二郎神の元へ!!」
「…ってーか、離せ!バカ、襟首掴むなっつーの!!」
朱塗りの柱の立ち並ぶ回廊に、叫び声と、ずーるずーるという怪しげな物音が続いた。




LOVE LOVE SHOW

「っていうか、産んだのが二郎神っていうのはどうよ?」
「何がです?僕の推理に何か?」
「ビジュアル的に考えてもよ?二郎神が、その、なんだ?出産っていうのはむりだろうが」

黒づくめ、天界軍の威厳を示すに充分な、シンプル且つ麗しいデザインの大将の軍服も、襟を掴まれて廊下を引っ張られては台無しである。
その前に、前をはだけて素肌に着用の挙句、いろいろ好みのオプションをつけていてはその意味はあまり多くをなさないのかもしれないが、それなりに似合っているのが惜しかったりはする。

ともあれ、引きずられている捲簾は、軍服すら滅多に着用しない副官の天蓬にまずは他の話題で逃げようと、頭をフル回転させていた。
それにしても、ではある。
今更後悔したとて始まるものでもないが、須らく、己の人間関係の豊かさというか貧困さというかバリエーションの多さに反省が必要であったようだ。
いや、そんな反省をしている猶予などあったろうか?
今はまだいい、面白がってというか、笑い飛ばせる範囲ではある。
だが、金蝉がらみということは、コトの行き着く先は、あの、「あの」観音菩薩である。
しかも天蓬が面白がって騒ぎを大きくすることは目に見えている。
二郎神は毎日服用する胃薬の量まで、津々浦々に知れ渡るほど苦労をしているというのに、これ以上の試練が必要なのだろうか?
医療業界は不況無しといわれているのに!

ではなく。
おのれの首の周りに閻魔大王の吐息が掛かるような気持ちで春の陽気な風がすり抜けていく。
冷や汗に湿った首周りは、それに冷やされて刃先が当っているような心地だった。
ココが運命の分かれ道、あるいは三途の川 in heven。
最後の勇気をかき集め、けなげにも捲簾は話をなんとか戻そうとする。
「だ、だいたいさ?どうして髭ひとつでそうなる訳よ?」
じろり、睨まれてもなんとか口だけを動かして訊いて見る。
「『謎は全て解けた!』ですよV」
「はあ?」
「『真実はいつもひとつ!』ですしねV」
うっとりと虚空を見上げる天蓬は、完全にトリップ状態であり、そういえば最近、また大量の漫画本を仕入れてきたと聞いている。
「どうせハマルなら犬夜○にしておけよ・・・」 と小さく呟く捲簾は、勇気・友情・努力なぞ、反吐が出るほど苦手なくせに、マジ○ガーZの頃からの、ジャン○派であった。(長い廊下・・・)

とうの話題の張本人(?)、白竜は白いタオルに包まれ、薫香漂う胸元に抱かれながら、だらだらと血を流しつつもこの世の春を謳歌していた。
実際は、鼻から失血死に至るんじゃないかという状態なのだが、本人(??)よければ、それでいいのかもしれない。
だが、心配そうに時折視線を落としては、金蝉はこの小さな生き物をはやく氷水につけなくては、と必死であった。
「バケツに氷水、氷水・・ってバケツなんか、俺の執務室には無いぞ!?」
いい加減気づくのが遅い辺りが、実務派ではないゆえか、坊ちゃんゆえかどこかのネジを叔母さんが緩めてしまったのか、はたとここに来て立ち止まる。
「・・・シャクだが、ババアんとこに行けばアイツがいるからな。よし!」
踵を返すと向かう先は、観世音菩薩の部屋の控えの間であった。




蒲田行進曲

「ふえーーーーーーっくしゅ!」
「どうした?二郎神。風邪か?」
「いえ、別に。急にくしゃみが出ただけで…えーーーーっくしゅ!」
「…俺に伝染すなよ」
「伝染しませんよ。あなたに伝染したりしたら後で何を仰るか判りませんからな」
「んー?口がイヤなら身体で言わすか?カラダでぇ?」

「うっそん」
「嘘から出た誠が、こんな所にあるとは…」
「あ?」

天蓬と捲簾が扉を開けた瞬間に目に飛び込んで来たのは、観世音菩薩が丁度二郎神の肩越しに手を伸ばし、壁をどんと叩いた瞬間の図だった。
ほぼ恫喝のポーズであったのだが、真後ろに位置した天蓬達からは、観世音菩薩が二郎神を襲っているようにも見えた。
「二郎神出産説」
天蓬の悪ふざけの言葉が捲簾の脳裏をぐるぐると回る。

……二郎神が、マタニティウェアを着用し、何故かデフォルトに純白のエプロンで、イソイソと立ち働いている。
観世音菩薩が部屋に入って来ると、用意していたお茶を素早く盆に載せて運ぶ。
「はい、どうぞ」
「ん。なんだ、座って休んでていいんだぞ」
「ああ、大丈夫ですから…ウッ!」
急に喉を詰まらせ、洗面台に走る二郎神と、その背をさする観世音菩薩。
「無理すんなよな。お前ひとりのカラダじゃねえんだから」
優しげな声を掛けながら、観世音菩薩は(このシマツはどーしよーかなー?)などと考えている…

「…ひーっ。ひーーーっ」
「アア?急にどうしたんだ、コイツ?」
「どうやら笑いの発作らしいですね。捲簾、息は吸うだけじゃ駄目の知ってます?ちゃんと吸ったら吐かなきゃ死にますよ」
「…ひーーーーっ。…カマタっ、コーシン、キョクっ!…ひーっ」
「はあ?」
「…ぎ、ぎんちゃん……ひーーーっ」
「…あーあ!……また説明の必要なことを連想しましたねえ」
「…ひーーーっ、ひっひっ…」

…という訳で説明を致しますと、20年ほど前のつかこうへい氏原作の映画に『蒲田行進曲』なるものがございまして。
風間杜夫演ずる色男の役者の銀ちゃんが、松坂慶子演ずる薄倖の女、小夏を孕ませた挙げ句に棄てて、弟分のさえない男ヤスに押し付けてしまうんでございます。
このヤスがいい味出してよかったんですよねえ…

笑いの発作の止まらぬ捲簾大将は、呼吸困難になりながら、自分の止まらぬ想像に苦しんでいた。

「観世音菩薩が二郎神に産ませた子供=白竜を、押し付けられた金蝉童子。悪役なのに憧れのマトな観世音菩薩。不幸な二郎神。情け無くも一途な金蝉童子。銀ちゃん、オトコなら責任とれよっ!観世音菩薩っ!!」

そこへ、勢い良く扉を開いた、白竜を抱く金蝉の姿が飛び込んで来る。

「…ひーーーっ!ひっひっ。ヤスの、キャスティングっ!思い出したっ、ひ、平田満だーーーーっ!!」




哀・戦士

「ひ、平田満だーーーーっ!!」
ばあん!という激しい衝撃音とともに部屋の扉が激しく開けられ・・・ついでに、運悪くその裏側にいた人物にクリーンヒットした。
こういう役割を決して外さないあの男、そう、捲簾大将は綺麗に戸と壁の間にはさまれ、笑顔で亡くなっていったという・・
「なんて事には残念ながらならないのですよねえ」
朋友の墓碑銘だか断末魔だかを浪々と代弁しながら、つぶされてしまった捲簾の横にしゃがみ込み、天蓬が生死を確認する。
「生きてますかー?もしもーし?痛かったら右手を上げてくださいねv」
反応の無い、捲簾をよいしょと上着の襟を引っ張って、いささか乱暴に仰向かせ、瞼を人差し指と親指でくい、と開けると白衣の胸ポケットから出した小型の懐中電灯で瞳をのぞく。
「あー。奇麗に瞳孔開きっぱなしですねえ」
ちーん、と音まで聞こえてきそうなカンジでそのまま、南無南無と両手を合わせてやる。
・・・・・と、壁際で繰り広げられているパントマイムはさておき。

「おい!氷水!氷水ないか?バケツ一杯の氷水だ!」
今日一日で何度張り上げただろう大声で、飛び込んできた金蝉が二郎神に向かっていう。
「こいつが死にそうなんだ、早く!」
大事に抱かれていたはずが、いまや長い首を掴まれびろーんと伸びた(文字通り伸びた)白竜は、哀れ青色吐息。
先ほどは逆上せて血色のよかった顔も、いまや蒼白・・・なんじゃないかな?と伺われる程度には、弱っているようだった(もともと小顔な上、色白なのでわかりにくい)。
「こ、金蝉さま?それは・・・」
言い淀む二郎神は「それ」を指差しながら、くちをぱくぱく言わせている。
「いいから早く何とかしろ!」
勢いよく突き出された腕の先にぶら下がる白竜は、ぶうん、と音がしそうなほど振り回されて、今度は泡を吹き出した。
「金蝉さま、そんな乱暴に扱ってはいけません!」
「うるせえ、じゃあおまえが預かれ!」
「・・・坊ちゃんは相変わらずわがままだねえ?」
二郎神を追い詰めていた壁際から開放し、突いていた手も外して腰に当て、向き直った観音菩薩が、にやにやしながら金蝉を揶揄する。
「観音菩薩様。元はといえばお育てになれない生き物をむやみやたらとですな」
お小言を言い出した二郎神を金蝉が遮る。
「いいから!んな、ババアほっとけって!早く氷水だ!」
二郎神の襟首をつかむように部屋の外へ引っ張り出すと、そのままどこかへ行ってしまった。

「「おやおや」」
しゃがむ天蓬が低い視線から立っているせいで、目線の高い観音菩薩と目をあわせてにやりとほくそえむ。
「てーんぽうっ!テメエも来やがれ!!」
回廊の端から金蝉の声が響く。
「いいリハビリになってんじゃねえか」
朱唇をゆがめる観音をみながら、天蓬がやれやれと埃を払うしぐさで立ち上がる。
「早いとこ行ってやんなよ。オマエ、あいつが面白くって仕方がねえんだろう?」
「貴方ほどじゃないですけどね、ま、御指名ですから失礼します」
ひょいひょい、と倒れたままの大将を避けて部屋を出る。
「おい、こんなモン置いていくな、邪魔だろうが」
ひらひらと手のひらだけこちらに向けて天蓬が言うには。
「そのうち勝手に目を覚ましますよv。起きても起きなくてもご随意にv」

からからと下駄の音は遠くなって行く。
「・・・・ふーん、ま、いいけどなv」
指を自分のあごに当てながら、伸びたままの捲簾を見下ろして、嬉しそうに観音菩薩が微笑む。
・・・・それはもう名に違わぬ自愛と慈愛の微笑で。
「おい、起きろ」




AMAZING GRACE 

「起きろよ…目ェ醒めてんだろ?捲簾大将」
「…ばればれちゃんっスかね?」
呼ばれて捲簾が上体を起こした。

「ってーかな。よくもあれだけ笑えたもんだよな。お前笑い上戸か?」
「あれはちょっとタイミングが悪過ぎたんですよ。タイミングが。しかもその原因は観世音菩薩、あなたなんですがね…」
説明をしようとした捲簾を、観世音菩薩が遮った。
「いちいち言わずともよろしい。俺を誰だと思ってる?天下の観世音菩薩だぜ。全てお見通しって訳だからな」
「…判っててあの悪ふざけをして、あの悪ノリ元帥を野放しにしたんですか…それって、滅茶苦茶イヤなヤツなんじゃねーのか?」
「何か言ったか?」
「いえいえ、観世音菩薩。…で。先程の会話を聞いてると、あの白竜が金蝉童子の所へ行ったのはあなたの思し召しのようなんですが…。一体何の酔狂なんで?」
「…酔狂なあ…。酔狂と言えば、酔狂なのかもしれん。決して純粋な慈悲での行為ではないからな」
「は?」
「捲簾、お前は自由に生きてるか?」
観世音菩薩の前で背筋を伸ばした姿勢で立ち上がった捲簾は、急に自分の方が問いかけられて目を丸くした。
「お前は、後悔することなく生きているか?思い残すことのないよう、生きているか?」
文字通りの慈愛の瞳を向けられた捲簾は、僅かの戸惑いを感じた。

普段、他の高級神達を見ていても、「神々しさ」「ありがたさ」というものを感じたことのない捲簾である。
頭を下げろと言われれば、幾らでも舌を出しながら下げてみせるが、真の忠誠心や崇拝の心を刺激されたことはない。
ましてや、この天界随一の「極道悪徳カミサマ」が、こうも慈悲を感じさせるなどとは思いもしていなかった。

「この生ぬるい世界で『生きてるか』と問われたら、『死んでない』程度にしか答えられませんがね。…まあ、何かをせずに後で悔やむ位だったら、ぶっ殺されてもやりたいことはしてますね」
「そんなところだろうな。…お前が『ホントウニヤリタイコト』をしてるかは、些か信用ねえがな」
「…何スか、そりゃ」
「自分のことくらい、自分で判ってんだろ?ああ?」
観世音菩薩は、捲簾の顎をすぅっと白い指で撫で上げた。
「お前みたいな奴らばかりだと、俺も退屈でしょうがないんだよ。タマには出来の悪いガキには目をかけてやった方が、俺もオモシロイんだよな。ほんの少し…ほんの少しだけでもな…」

観世音菩薩の唇が、小さく数語分動いたが、その言葉は捲簾には聞き取れなかった。
その言葉は誰にも聞き取られることはなかった。
ただ、観世音菩薩の微笑のみが、残った。







 → Next !  『とある日常』topへ