STAY WITH ME 7 
--- 爛漫果実盛夏的物語 --- 


















 蝉の声が聞こえて来る。
 どこか近くに、風鈴を吊している家があるらしい。涼しい音色が時折響く。
 一際近くから、急に大きな蝉の声がする。
 あれは、アブラゼミ。
 余りの暑さに、往来を行く人も少ないのだろう。
 子供の声のひとつもない。

 アブラゼミが飛び立ち、寝返りをひとつ、うってみた。

 夏の始め、僕は窓辺に簾を掛けた。
 僕の育った家は大層古く、夏は縁側の外に必ず簾を降ろし、窓辺には朝顔を絡ませて日よけにしていた。朝顔の花を絞った赤や水色の色水遊びは、真夏の昼の白い光にはぴったりだった。
 どこか懐かしくくすぐったいような記憶を、揺れる簾に思い出す。
 三蔵の部屋から何の物音もしなくなったことに気付いた僕は、キッチン越しに、開け放たれたままのドアを覗いた。
 三蔵は床に転がっていた。
 僕もよく縁側の冷たい木の床に頬をつけて昼寝をしていた。一番風の通る場所で、よしず越しの光を見上げながら眠っていた。
「猫の次に、涼しい場所を探すのが上手いんですよね、子供って」
 僕はそうっと三蔵の部屋に入って、彼のお腹にタオルケットを掛けた。

 風が風鈴の音を運んで来る。
 三蔵が額に汗をかいているのを見て、ホンモノの子供みたいだと僕は少しだけ笑った。扇いでやろうと持って来た団扇を、ゆっくりゆっくり動かす。
 髪が、団扇の風と一緒に揺れて、まるで寝息を立ててるみたいだ。
 辺りの静けさに、蝉の音だけがやけに響く。急に吹き込む風が僕のあぐらの膝に広げた本を、ぱらぱらと捲る。
 どうせ真剣に読んでいる本でもないからと、捲られたページから目を落とす。時折団扇を動かして、木の床の冷たさを感じながら過ごすのが、楽しかった。

 またどこかから、風鈴の音が届いて来た。

「八戒」
 声を掛けられて、自分がうたた寝をしていたことに気がついた。
 三蔵は寝惚け眼なままで、上半身を起こして僕を見ていた。
「…団扇、オマエ眠りながら動かしてた。器用というか、何というか……」
 そこで自分に掛けられたタオルケットに気付いたらしい。髪をがしがしと掻きながら続ける。
「まるでオフクロ」
 そのまんまの川柳を、中学校の時に習ったような気がする。
「あなたが子供みたいに眠ってるからじゃないですか。…それじゃ、おめざでもあげましょうね」
 立ち上がってキッチンに向かうと、三蔵はそのまま後を付いて来た。喉も乾いたろうと麦茶を渡すと、一気に飲み干す。
 仰け反った喉の白さは、真夏なのにどこかひんやりとした感じがする。
 子供の頃に冒険した、知らない家の古い蔵が、白い漆喰で触れると冷たかったのを思い出す。真夏に雑草を掻き分け掻き分けして遊んだ躯を、ぺたりと貼り付けて涼んだりした。
 しっとり、ひんやり。
 そうやって涼んでいると、よく壁のひびからとかげが出て来たっけ。白い壁に張り付いた、青いシッポがきらきら光る、綺麗で小さなとかげ。欲しかったけれど、中々掴まえられなかった。

「先刻ね、大家さんから貰ったんですよ。おめざにいかがですか?」
 冷えた桃を見せると、三蔵は少し鹿爪らしい顔を寄せて来た。
「…フン。いい匂いだ。…今年始めてかな?」
 そのまま、桃の皮を剥く僕のそばで、シンクに寄り掛かりながら嬉しげに待つ。

 頂き物の大きな桃は、黄色からほんのりとしたピンクや赤にに色づいて行く。綺麗なグラデーションの皮を剥くと、瑞々しい果肉がつるりと現れ、指を甘い香りの汁が滴る。
「…『ピンク』じゃねェだろ?これが『桃色』なんじゃねェのか?」
「『桃色』って、桃の花の色じゃないんですか?…あっちの方がもっと『ピンク』ですかねえ?」
 果実の芳香と風鈴や蝉の音が、僕達が夏のど真ん中にいることを思い起こさせる。
「お皿とフォーク取ってください」
「…そんなのいらねェ」
 三蔵が、僕の腕をそっと押さえた。ナイフの上にそぎ取った桃に、唇を寄せる。
「…また危ないことをする」
 桃をくわえようと刃物に近付く唇を、少し緊張しながら見守った。桃を凝視する三蔵の、伏せた睫毛だとか、ぱくりと食らいつく様子だとか。
 三蔵の唇が、甘く紅く濡れるのだとか。
「美味い」
「ひとりだけ先に、ズルいんですから…。順番ですからね」
 今度は自分用にひと切れ、うんと大きく桃をそぎ取った。ナイフから直接食べる桃は、なんだか野蛮で素晴らしく美味しく感じられる。
「どっちがズルいんだ?ひと口で食い切れない大きさなんて、先刻は違ったろーが」
「じゃあ、僕の順番を次は一回抜かししていいですよ」
 削いだ桃を、またナイフから食べようとする三蔵は、大きく口を開けて、まるでツバメの子みたいだ。そう言うと三蔵は、
「判ってんなら、早く餌寄越せ」
 と、眉を寄せて真剣な顔をしてみせる。
 僕は餌付けに励むことにした。

 順番こに食べる桃は、あっという間に小さくなった。最後のひと切れを今度は指先で摘み取ると、三蔵の口元まで持って行った。三蔵は素直に口を開く。
「!?八戒!!」
 口元から急に離して、僕がひとりで食べる真似をすると、三蔵が真剣な声を出した。あまりそれがおかしかったので、僕は笑いが止まらなくなる。
 キッチンには桃のいい匂いが立ちこめて、麦茶を飲んだグラスはまだ露に濡れている。桃を剥いた僕の腕は、肘まで甘いべたべたが滴っている。
 三蔵が「なんて酷いことをするんだ!」という顔をしているので、文句を言われる前にその口に最後の桃を放り込もうとした。
 自分の口元に持って来られた桃を見て、三蔵は用心しながら近付く。先ず僕の腕をしっかりと押さえ込み、桃を囓ろうとする。
「…もうしませんから。この意地悪は、一回だけするのが楽しいんですよ」
「覚えてろ。忘れた頃に仕返ししてやる」
 僕を上目遣いで睨み付け、桃を半分だけ囓った。三蔵は半分残った桃を指先で摘むと、僕の口元へ近付けた。最後のひと切れは、半分こだ。
 少し上を向いて口を開く僕を見て、三蔵が感心したような声を出した。
「…ナルホドな。本当に巣の中の雛みたいだな」
 僕が「ピィ」と鳴いてみせると、三蔵は笑いながら最後のひと切れを口に落とし込んでくれた。

 蝉の声が静かになったな、と思った時には、空が急に暗くなっていた。雷付きの夕立が、ほんの30分ばかり強く降る。部屋に吹き込む雨足に慌てて僕達は窓を閉め、蒸し暑い中団扇で扇ぎ合った。
 冷たい床に座り込んで、時折麦茶のグラスの中の氷が、からんからんと音を立てる。雨が窓ガラスをばたばた叩き、流れる水に外の光景が揺らぐのを見る。稲妻が光る度に雷鳴までの秒数を数えては、何キロ先に落ちた、今度はエラく近かったなどと言う。
 雷がやがて遠のき雨が止むと、開けた窓から入る空気が心地よかった。今日は夜まで涼しいかもしれない。

「この分なら、中止にならずに済みますかねえ…?」
 天を見上げて言う僕に、三蔵は主語は何かと眼で聞いた。
「花火大会ですよ。適度に風もあることだし、きっと綺麗に見えますよ?夜風に吹かれて花火見物、涼しげでいいですねえ」
「ここからでも見えんじゃねェか?」
「夜店が沢山出るんですよ。金魚すくいに、ヨーヨー釣り。射的に焼き鳥にフランクフルト。りんご飴にチョコバナナに冷やしたあんず。かき氷に綿飴に薄荷パイプ。生ビール飲みながら花火見物」
「…人出が多い。面倒臭い」
「美味しいんですよ、骨付きフランクに、チーズスティック」
「オマエ…オレが食いモンで釣れるとか、勘違いしてねェか?…でもチーズスティックは見たことがないな」
「チーズを練り込んだパイ生地が揚げてあって、マヨネーズやピリ辛のソース付けて食べるんですけど…結構癖になるんですよ、これが」
「だから、食いモンで釣るな」
 呆れた声の三蔵に、今度は真顔で言ってみる。
「……あなたとふたりで、花火が見たい」
 急に真っ正面から言うと、三蔵は一瞬目を見瞠いて。
「…阿呆。最初っから、素直にそう言え」
 少し照れくさそうに、視線を逸らしながら呟いた。

 着替えて下宿を出る頃には、すっかり雲も晴れていた。うすらと暮れかけの空に、蝉と風鈴が風に乗る。
 屋台にガラス細工が出ていたら…
「風鈴、売ってたら買ってくれ」
 三蔵が、夕空を見上げながらそう言った。
「生ビールとチーズスティックもな」
「…勿論。でも今日の主眼は花火見物ですからね?あなたが、そう言えって言ったんですからね?」
「そうだったか?もう忘れたな」
 そぞろ歩きの人波に、僕達は混じり込んだ。

 夕方の風に、また風鈴の音が聞こえる。





















 終 







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途中で出て来た川柳は「寝ていても うちわの動く 親心」
…まじ、そのまんまです