静寂。
無造作な足取りの歩みは、僅かな物音も立てない。 観世音菩薩は、下界を映し出す水鏡の間へ現れた。 『おう。下界は桜の季節か』 艶やかな唇が、微かに引き上げられた。 『咲いては散り、眠っては覚醒し、また咲く。忙しないなあ、オマエらは』 長く伸ばした爪が、睡蓮の花を掻き分け、水面に触れた。 輪紋が広がり、睡蓮を揺らす。 『何時でも忙しなく、騒々しく、儚いなあ、オマエらは』 観世音菩薩は呟くと、ゆっくりと繊手を水に挿し入れた。 深く深く。 『儚いなあ』 水は観世音菩薩を飲み込み、乱れた波紋が、僅かな間その痕跡を残した。 微かな揺れに睡蓮の花弁からひと滴の露が落ちたが、小さな水音は高い天井に吸い込まれ、消えた。 薄暗い室内から、中庭の桜の古木が覗いていた。
「三蔵、怒ってます?」 「何故そう思う?」 離れたばかりの躯に、八戒は手を延ばした。 ぬめるような膚は、未だ熱を持ったままだった。 「窓開けっ放しだったから」 「桜見るのに、ガラス窓まで開ける必要はねえからなあ。カーテン開くだけで、済む筈だもんなあ?」 睨み付ける瞳が、薄らと染まる頬の上で暗い紫色に輝いた。 「……結構ノってたくせに」 「ああ!?何か言ったか?」 「いいえ。…声抑えて、唇噛み締めて。唇傷めちゃいましたね」 「誰の所為だ?」 「誰の所為ですか?」 微笑む唇が、血の滲んだ唇に寄せられた。 「血の味が」 「強く舐めるな。痛いんだよ」 なぞる舌が、唇をすする。 「……!」 逃げ出そうとする顎が強い力で固定され、肩を押し返そうとする腕は、シーツに縫い留められた。 八戒の唇が首筋へ彷徨うと、三蔵は諦めの吐息を吐いた。 「オマエの所為だ。全部オマエの所為だ」 八戒は身を起こし、三蔵の瞳を覗き込んだ。 「嬉しいですよ」 熱を帯びた躯も。
抑えたままだった三蔵の腕を、八戒は引き寄せた。
夜風が、窓から桜を運んだ。
桜、桜、
常世の春に咲き誇る たおやかに風に乗り、辺り中を染めて行く 傍若無人な運命の運び手 桜、 桜、 苦しいほどに駆け抜けても、ただ降りこめる桜の花びら
桜、
『八戒!』
三蔵は八戒の髪を掴んだ。 「はい」 「八戒……。判ったから、窓を閉じろ。俺はお前ほど酔狂じゃねえ」 「しょうがないですねえ」 身を起こした八戒に、三蔵が低い声で言った。 「カーテンもだ。これ以上、狂われたら付き合いきれんからな」 「魂吸われそうなくらいに、きれいじゃないですか」 「……悪酔いする」 目を逸らす三蔵を、八戒は少し首を傾げて見た。 「いいから閉じろ。さもないと指一本触れさせん」 「はいはい」 小さな窓が閉ざされると、暗闇の中三蔵は目を瞑り、触れる人肌の温度に埋没した。 しゃら……
爪先が、花びらの敷かれた大地に触れると、足首の金の輪が軽やかな音を立てた。 「…ったく。忙しねえよなあ、現世は」 観世音菩薩の愉しげな声を、夜桜が吸収した。 「ん?」 腰に手を宛て背筋を伸ばすと、二階の窓からぽかんと口を開けた顔と目が合った。 「…オバサン…また来たの!?」 「オバサンじゃねェよ。俺は慈悲深き観世音菩薩だ。現世の悩みを見届ける、愛と慈愛のカミサマだぜ」 窓枠に頬杖を突いていた悟空が、ふんぞり返るその姿を認め、胡散臭そうに唇をへの字に曲げた。 「…今度は何の用だよ。あんた来ると、ロクなことが無いような気がする」 「冷てえなあ。そうびびんなって。花見に来ただけだよ」 子供から青年へと移り変わる途中の、微妙な曲線を持つ悟空の顎や頬のラインを、観世音菩薩は興味深げに見た。 「…ホントかなあ…?」 「ホント、ホント」 悟空の訝しむ目付きに、観世音菩薩はとうとう吹き出した。 「…わーったよ。素直に帰ることにするよ。…おい、その替わり土産を寄越せ」 「えぇ!?何なんだよっ。無心するカミサマなんて、俺聞いたことねーぞ!」 「そおかあ?イケニエ欲しがる神なんざ、ザラだと俺は思うがなあ?」 「イケニエ!?」 目を剥く悟空を、にやにやと眺めていた観世音菩薩は、ふいと視線を真上に上げた。 「ンなナマモノなんざ欲しかねーよ。桜をくれ。そこの桜の花枝を、手折ってくれ」 天蓋を覆い尽くすような、桜を見上げて言った。 「自分でやれよ」 「バァカ、カミサマは下界に干渉しちゃいけねえんだぜ?短い命の花を手折るなんてコト、出来るか」 「命令するのは干渉と違うのかよ」 ぶつぶつと言い募りながらも、悟空は窓からひらりと飛び降り、中庭に降り立った。 裸足のままの足が、観世音菩薩に近寄る。 「…どの枝?」 「アレ」 悟空は言われたままの花枝に手を掛け、まだ納得出来ないように振り返る。 「オマエの桜が欲しいんだよ」 緩やかなカーヴを描く紅い唇を、どこかで見たような気に囚われて。 悟空は桜の枝を折り、観世音菩薩に手渡した。 「はい」
「!?」 現れたのと同じ唐突さで、桜を携えた姿がかき消えた。
睡蓮が揺れた。
現世を映す水面に顔出す睡蓮が、薄衣に触れ、揺れた。 観世音菩薩は水鏡から姿を現し、水を盛大に滴らせながら回廊を進んだ。 ひたひたと、水音が続く。 「よお」 一室の扉を開き、観世音菩薩は声を掛けた。 応えを待たずに、室内に踏み入る。 「土産だよ。下界の桜だ」 椅子に座したままの人物の方に屈み込むと、黒髪から滴が落ちて頬を流れた。 「なあ、キレイだろう?」 水浸しの掌で額に掛かる髪を梳いてやると、その人物の頬にも、水がひと筋滴った。 「なあ、儚くて、美しいだろう?」 観世音菩薩は、椅子に座ったままの人物の膝に、そっと桜の花枝を置いた。 閉ざされた窓の外。
音もなく、音もなく、 時に風に煽られながら。 桜は咲き、散り積もって行った。 《HOME》 《NOVELS TOP》 《BOX SEATS》 《SERIES STORIES》 《83 PROJECT》 |