人間と妖怪では血中のヘモグロビン濃度に差がある。摂取できる酸素の量も、また希薄な空気の中で普段通りの行動を取れるようになるまでの順応の速度にも差がある。それを考慮に容れゆっくりと高度を上げていたのだが…三蔵の我慢強さが裏目に出た。
「足手まといは必要ない」
そう公言する三蔵は、自分の肉体的な弱さを極端に嫌った。
またそれを理解する八戒、悟空、悟浄も、可能な限り妖怪と人間との体力差を存在しないものとして三蔵を扱っていた。 意識的に。
三蔵はそれを承知しながら、やはり自分の体を限界まで酷使する。時にそれは、周囲の目には自分の身体を苛めているようにさえ映った。
標高3千7百メートルを超えた辺りから、三蔵の呼吸が浅く早く変わったことに気付いた一行は、気を張り詰めながら進んでいた。
「妖怪の襲撃より質悪ィぜ」
激しい頭痛を堪えていることは判ってはいたが…意識が時折朦朧としかけていたらしい。急に鼻血を吹き出した三蔵に、やっとルートの変更を納得させることが出来た。
苦しみながら登って来た路を、後戻りして行く。
師の形見である聖天経文を奪回する為に旅を続ける三蔵にとって、無為な時間を過ごすことは耐え難いことだったのであろう。自分の肉体の限界の所為で進んで来た路を後退する間、暫く三蔵は口を利かなかった。
標高3千7百メートル地点に戻った所で、八戒はジープを停め三蔵に気孔の手当を施した。既に鼻からの出血も止まり、呼吸も心拍も通常に近い。
「…突然出血されると流石にびっくりするんですよね。あまり無理をしないでください。心臓に悪いです」
後部座席に座る三蔵は、顔にこびりついた血を拭き取りながら、八戒のやや力のない小言を聞いていた。
「あんな…頭を抱え込むほどの激しい頭痛だなんて…そんな無理をあなたのお師匠様が望むとは…僕には思えません」
「………んだ」
「え?」
低い声に、八戒が聞き返す。
「そんなことはどうでもいいんだ!お師匠様が…先代が望もうと、望むまいと、オレはオレの持ち物を取り返しに行くだけだ!経文が悪用されるのを許さないのは、オレ自身だ!」
まだ乾いた血液に汚れたままの顔に、紫の炎のように瞳が輝く。
怒りと。苛立たしさとに。
「頭痛も吐き気も、苦痛なんかどうとでもしてやる!心臓が止まるまで、オレはオレだけの為に生きるだけだ!!」
傍らの悟空が唇を噛み締める。誰よりも三蔵が三蔵であることを望み、そして三蔵を守りたいと願う悟空は、黙ったまま彼を見つめる。
三蔵の傍らにあり続けるということは、激しい炎が燃え尽きるまでをじっと眺め続けることでもあるのだと。炎が消えぬよう守ることは出来ても、炎自体を長持ちさせる為に火勢を弱めることは叶わないのだと。
悟空の眼が、ふと和らぐ。
それでも三蔵の側にいたいのだという諦めに和らぐ。ほぼ同時に、八戒は同様の諦めに目を一瞬閉じ、悟浄は僅かに目を逸らした。
「…わーったから叫ぶなクソ坊主。また頭痛ぶり返すぜ?」
ナヴィシートから身を乗り出した悟浄は、三蔵の頭を掴んで悟空の膝の上に押し倒した。すぐにその手を刎ね除けられるが、気にもせずに柔らかな金髪をぐしゃぐしゃに掻き回す。
「貴様ッ!!」
飛び起きようとする三蔵の身を今度は悟空が押さえる。
「さんぞー、興奮するとまた鼻血吹いちゃうぜー?ケッコ血圧とか高いんじゃないの?」
「そうそう。逆上せやすいのか、タマっちゃったのか…なんて。悟浄みたいなコト、思っちゃいますよお?」
3人が一致団結するという珍しい事態に毒気を抜かれ、三蔵は口ごもった。
「…たまには我が儘言わずにそのまま寝ててください。お願いですから」
運転席に戻った八戒の静かな声と、振り返る悟浄の紅い瞳、悟空の掌の温度が、三蔵の苛立ちをゆっくりと溶かす。
「暫く眠っていてください。また迂回ルートを探すときには起こしますから。折角素直に下山を了承してくれたんですから、どうせなら最後まで協力的にしてくださいね」
「…フン」
そのまま目蓋を閉ざす。
「別にてめェらの為に素直に下山を納得した訳じゃねェ。ただ…」
絶え間ない頭痛に堪えながら、時折意識が朦朧とするのに気付いていた。
何も考えられなくなる瞬間が長引く。
途切れた意識の中で、自分が自分でなくなるようで…それが怖かった。
『必死で張ってる虚勢がなくなったら、オレはオレですらなくなる。それが怖かっただけだ』
声に出さずに自嘲の形の唇だけが動き、それを眺める悟空はまた諦めたように笑った。
昨日の激昂ぶりをみじんも見せない。
それが寂しくもあり、却って皮膚の一枚下に溢れる激しさと焦慮の存在をありありと感じさせるのが嬉しい。八戒は黙ってハンドルを握り続ける。
3年前、自らの右目と共に失い葬ったそれまでの人生。
今はただ、隣に座る炎の魂を持つ者の為だけに存在している自分がいる。彼を彼であり続けさせる為の旅。
八戒は三蔵の為に有能である自分が嬉しかった。
そして、三蔵の望みが八戒が八戒自身の為に生きることであるのも知っていた。
『自分自身の為の、望み、希望、夢』
それを追求しようとすると、八戒の思考はフリーズする。…自らにそれを求めることを、無意識に禁じているのかもしれない。
それに思い当たって、八戒は微かに苦笑した。
それは嫌ではない。獣のように、ひたすら死の瞬間までを生きる為に費やす。獣のように生き延びる為だけに貪り、眠る。
「…なにヘラヘラ笑ってやがる」
「いえ…。いい天気だなっと」
胡散臭そうな表情の三蔵を横目に見ながら、八戒は今度は本心から微笑んだ。
この輝かしい魂と共にあるには、獣の強かさは相応しいだろう。
「…ね!アレ…!」
悟空の、興奮を押し殺した低い声がする。
続いて悟浄の口笛。
険しい山に囲まれた高原に、野生馬の群がいた。
ジープが近寄るに従い、乾いた草地に散らばる群にさざめくように興奮が走り抜ける。何十頭もの野生馬が、頭を高く振り上げいななく。
「…八戒。驚かせることもない。スピードを落とせ」
三蔵の声も常より低い。
この高原にあっては、人間の方が闖入者なのだ。堂々と立つ美しい野生馬の群に見蕩れながら、ジープを進める。
走る為に生まれた、天馬の子孫達。
高貴な魂を持つ野生馬の、無駄の無い筋肉と滑らかに体表を覆う毛が輝く。
「汗血馬のモデルになったというのは…これでしょうかねえ…?」
一日千里を走り、血のような汗を流したという伝説の馬を思い起こさせる美しさと猛々しさだった。
一頭が高くいななき、駈け出した。
白馬、といよりも銀に近い体毛の輝かしさだった。銀の輝きに従い、群全体が走り出す。ゆったりと優雅に、しかし蹄の音を轟かせながら近付き、そしてジープに併走する。
幾分茫然としてそれを見ていた三蔵は、銀の馬の、大きな黒い瞳に自分が映っていることに気付いた。
美しい野生の動物。限界まで駈ける為に特化した機能的な筋肉と骨格を持つこの動物が、威嚇の為にか、好奇心の為にか共に走っている。余裕のある優雅な走り方は、…まるで人間を嘲笑っているかのようだ。
「…八戒」
三蔵は全身に興奮の鳥肌を立てていた。
「おい、八戒!アオられたら、てめェならどーすんだ!?」
興奮に紫色の光彩を煌めかせ、些か柄の悪い最高僧が叫ぶ。
「ま、目には目を…って、ハンムラビ法典は基本ですかね。行きますか?」
「おー?いいねえ!人間サマの威信を賭けてってかあ?」
「八戒、絶対に轢くなよ!?こんなに…」
美しく、天まで駆け上がりそうな。
まるで炎の魂を持つこの人のような。
ナヴィシートで立ち上がりそうな勢いの三蔵を見ながら、八戒は心から笑った。美しい魂と共に走れることが、何よりも幸福であると思った。
何も余分なことなど考える必要もない。
ただ純粋にこの「時」があることを喜べと、自分の肉体が理解した。
「ヘマしたらジープが泣きますからね…じゃ、しっかり掴まっててくださいよ!?」