ああ。
天使の翼の生えているのは、丁度この突起からなんだ。
大きく眩しい翼が、この活き活きとした陰影から、伸び出してゆくんだ。
柔らかなタオルで金色に輝く頭をくるみ、頭皮を揉むように髪の水分を吸い取る。
ばさばさと、髪束を持ち上げ空気を孕ませる。
しっとりと水気を含んだ髪が、跳ね上がっては時折小さな水玉を飛ばした。
「もういい」
「まだ湿ってるから、このままだと寝癖が付きますよ。…煙草、少しくらい我慢してください」
ベッドの上に放り投げてあったマルボロに手を伸ばし掛けるので、こめかみから項まで、少しずつ移動しながら指先に力を込めた。
小造りな頭蓋を握り込むように、タオルの上から丁寧に圧して行く。
項から肩へ。
途端に三蔵は大人しくなる。
「気持ちいいですか?」
「ん」
鎖骨に触れながら、肩の後ろをほぐして行った。
骨張った骨格の、肩の関節。薄く覆った筋肉。
柔らかに掴んでほぐす。
先程見蕩れたばかりの肩胛骨に、ぐいと親指を押し込むと、微かに息の洩れる音がした。
「ここ。もう少しやりますか?」
「ん」
素直な相槌の後、思い出したように三蔵は言った。
「そこは髪じゃない」
「じゃあやめます?」
返事のないのは、そのまま続けろということだ。
子供のように文句を言い、子供のように黙り込む。
それが嬉しくて、三蔵から見えないのをよいことに、僕は盛大に微笑んだ。
背筋まで躯をほぐしてやる頃には、三蔵の髪の水気も、かなり空気を孕んでいた。
「はい。乾きましたよ」
僕の言葉と同時に煙草に手を伸ばそうとするのを、邪魔したくなった。
毛布からシーツをはぎ取り、背後からすっぽりと三蔵を覆い隠す。
「てめ。今度はなんだよ」
手荒く払い除けようとする腕ごと、シーツの上から抱きしめた。
「煙草のニオイ、髪にしみついちゃいますよ」
「別に気にならん」
「折角きれいな髪なのに」
「何の支障もない。邪魔なら切るか」
短気なひとの、苛立つ声。
きつく抱き込み、少しだけ笑ってその躯を放した。
被ったシーツから顔だけを覗かせて、三蔵は不審気な表情を浮かべた。
「悟空や悟浄じゃあるまいし。構われたくって、サカってやがんのか?」
身も蓋もないことを真顔で言われ、苦笑した。
「そうです」
真顔で呟き、また抱きしめた。
抱き込むと痩せた躯が撓った。
骨格に沿って掌を這わせ、三蔵の肩胛骨を、温めるように覆った。
ここには今、翼はない。
三蔵はどこにも行かない。
薄い造りの肩胛骨を、確かめるように撫でさすった。
「……煙草吸う間くらい待てねえのかよ。がっつきやがって」
ここには翼はない。
ここには翼はない。
この人はどこへも行けない。
「くっ……。はっか……?」
引き寄せられた躯の、繋がりが浅くなり三蔵が振り向きかけた。
「んんッ」
羽交い締めて腕を回す。
身動き出来ぬよう。隙間のないよう。どこにもこの人が行けぬよう。
「…くっ……っ!」
きつく握り込んで追い立てて、捩る躯に逃げ場を与えないまま奥を穿った。
「はっ……ア、アァッ」
行き場のない三蔵の腕が、反って撓って僕に絡んだ。
僕の首に巻き付きかけて、痙攣の動きで髪を掴んだ。
三蔵の尖った肩胛骨が、僕の胸に突き刺さった。
僕は、その感触が柔らかな翼でないことに、酷く安堵を覚えた。
「煙草」
ベッドから離れ際に、引き剥がしたシーツを引っ張って行く。
三蔵はマルボロを手にすると、ずるずると引きずるシーツを、頭から被って窓際に向かった。
白い布地が波打って、三蔵の姿が包まれた。
マルボロを咥えた横顔だけが覗き、薄い肩が揺れた。
昇る紫煙に片目を眇め、シーツから腕を伸ばして窓を開けた。
夜風が吹き込み、カーテンを揺らした。
一瞬で、部屋に籠もった体温が消えた。
三蔵の甘い汗が、僕の掌の上で蒸発した。
シーツが肩から落ちかけて、三蔵は布地の端を摘んで留めた。
夜に浮かび上がる三蔵の姿態を、ましろなシーツが隠すように広がった。
三蔵を包み、そしてさらけ出す。
ましろなシーツが、風に舞い拡がる。
月光が青白く照らしていた。
月の色を反射する金糸と、ぼんやりと月光に浮かび上がる後ろ姿。
その背に広がる
白い
翼。
僕の掌ではもう、きっともぎ取れないような、強い翼なんだろう。
三蔵は短くなった煙草を灰皿に押し付けた。
「また目ェ明けたまま寝てやがるのか?」
仰向けになり、ただ近づく三蔵を見つめていた。
天使は僕の頬に触れ、その指先が濡れて光るのを、不思議そうに見た。
「オマエは寝惚けてるんだよ」
滅多に聞かないほど、優しい声だった。
「眠れ」
三蔵はベッドに片膝を突き、僕の上に乗り上げた。
肩と腕に絡めたシーツを、ゆっくり広げて僕を覆った。
眩しい翼が、僕を覆い隠す。
白くて暖かな闇の中、三蔵の声だけが、優しく聞こえた。
「眠れ」
翼に囲まれ、暖かな空気が僕を包んだ。
留められる筈もないのを、僕は多分知っていた。
三蔵の翼は、僕に触れられないだけで、いつでもあった。
「眠れ」
三蔵の声を聞きながら、柔らかに触れる暗闇の中、いつまでも涙が止まらなかった。
広がる翼が、いつだって僕の上に掲げて広げてあったことに、
漸く気付いた。
「眠れ」
静かで優しい声に、僕は眠りに落ちた。
いつかこの手をすり抜けて行く、強い翼に、今は守られて。