ti - m - pa - ni 
 悟空はひとり窓辺の椅子に腰掛けていた。
 窓枠に肘を突き、開け放つ暗闇をぼんやりと眺める。
 風のない夜に、静かに雨が降っていた。
 静寂。
  ―――― いや、獣たちのひっそりとした息吹は聞こえて来る。
 軒から落ちる滴がガラクタを叩く音に混じり、若い獣の熱い吐息が悟空の耳に届く。

 悟空は淫靡な性愛を未だ知らない。
 物狂おしい衝動を、未だ、微かに予感するような、そんなあやふやさで捉えている。
 それでも生けとし生きるものの、理としての本能は理解していた。

 深い森の真上を皓々と照らす月に、その細く落ちる光に、身を寄せ合う獣たち。
 月光にきらきらと舞い飛ぶ胞子。
 樹木の濃密な呼吸。
 交合の熱と甲高い鳴き声。

 眠る。食す。交わる。
 悟空は、己がそれを何処で知ったのか、何処で見たのかを気にしない。
 余りにそれは自然過ぎて、何れ自分がその衝動に身を任せることも、当然のこととして予感していた。
 肌の温もりを、生殖目的以外のコミュニケイションスキルとして用いる獣もいる。
 何れ己もその衝動に身を焦がすことがあるのだろうと ――――

 夜闇の冷えた空気に、滴の落ちる音だけが響く。

 たたたん たん たん たたん たん たたたたたん

 軒下に放置された塵芥を叩く。
 玩具、遊具、壊れた道具。使い果たされた雑具。

 たん たたん たん たたん たん たたん

 廃棄された空き缶が、乱れたリズムで叩かれる。

 たん たん たん たたたたっ

 早く、遅く。
 変化しつつ、単調な音色が悟空に染み込んで行く。

 たん たん たん たん 

 たん  たん  たん  たん

 tam tam  tam tam

 たん
 たん
 たん
 たん

 たん ..........

 浮遊する悟空の意識が、若い獣の熱い息吹を感知した。
 同じ屋根の下、どこかの部屋で。
 よく見知った気配が、体温を喰らい合おうと、夢中になっている。
 互いの熱を高めようと、躍起になっている。
 獣の放熱に浮かされて、金色の輝きが打ち振るわれているのだろう、
 甘い呼気と汗の香りが流れて来る。

 たん
 たん
 たん
 たん

 たん

 たん

 たん

 たん

 金の輝きが流れる。
 さらりと、柔らかな光に滝のようだった。
 馴染みのある、紫色の光彩の輝き。
「・・・・・・・・・」
 確かに聞いた筈の声が、思い出せない。
 親しんだ声音が、再生出来ずに空回りを続け、胸の奥で焦りになる。
「・・・・・・・・・!」
 名を、叫ぼうと…


「・・・・・・・・・!」

 たん
 たん
 たん
 たん

 たん

 たん

 たん

 たん

 目の前で崩れ落ちた金色に、誰かが悲鳴を上げた。
 血の滴る長剣と、朱に染まった掌を、苦しげに見つめる誰かも泣いていた。
 その時自分の挙げたのは、獣の咆吼だったのだろう。

 二度と熱い吐息を吐くことのない、唇に指で触れながら。

 コノ唇ハ、二度ト己ノ名ヲ呼ブコトハナイ。

「・・・・・・・・・!」

 たん

 たん

 たん

 たん

 若い獣たちの息吹が、悟空の中の大きな空洞にこだました。

 たん

 たん

 たん

 たん

 狂い、に弾け飛ぶ金鈷。伸びた鈎爪が皮膚を裂き、常春の花びらを朱に染めた。
 悟空の唇は捲れ上がって牙を剥いた。
 奪い去るばかりの運命に、牙を剥いた。

 無表情な獣のように、衝動に突き動かされ、哭いた。 
 頬に流れる涙にも気付かず、牙を剥き哭いた。

 たん

 たん

 たん

 たん

 たん

 たん

 たん

 たん

 生まれ落ちた瞬間に見た、あのぽっかりと丸い大きな輝きは

 たん

 たん

 たん

 たん

 たん

 たん

 たん

 たん

 あれは生けるものの理を支配するもの。

 眠りと交わりのリズムを

 突き動かす衝動を司る。

 突き動かされても

 抱き締める躯は既になく

 たん

 たん

 たん

 たん

 たん

 たん

 たん

 たん


 孤独に狂乱し、奪われ怒り、天に哭いた ――――

「ただいま…と。…あ?」
 足音を忍ばせて室内に入ってきた悟浄は、異変に気付いた。
 悟空が開け放つ窓辺に立ち、緩やかにカーテンが動いた。
 雨の所為ではない、冷たい空気が室内を満たしている。
「おい、ごく…」
 振り向く悟空に、息を呑んだ。
 理性を喪い、愉悦の表情で血を流した、いつかの悟空だった。
 淫蕩とさえ受け取れる、闘いに狂喜する微笑みの形に悟空の唇が動き ――――



『悟空ッ!!』



「え?」
「…オイ。」
「あ、ああ。悟浄お帰り。…まぁた、酒臭いんでやんの」
「馬ァ鹿。酒なくて、何がこの世の人生か、っつーのよ」
 一瞬の見間違いであるのかと、悟浄は思った。
 それにしても、ひやりとした空気と、振り返った瞬間の悟空の瞳…飢えた狂気に満ちた。
 哀しい眼だった。
「…宿のシャンプーと違う匂いがする」
「イイ匂いっつんだよ、こういうのは!」
「それと甘ったるい香水と、化粧品と、酒と、煙草の匂いが幾つか…」
「数えんなよ、おい」
 バーの女主人と束の間の甘い時間を過ごし、汗を流して、女の部屋の階下のバーでまたグラスを空け、最後に軽く接吻けて別れた。
 女の唇が紅く濡れていたのを思い出した。
 バーで、数名の男が紫煙を燻らせていたことも。
「……マジ鼻が利くのね」
「うん」
 堂々と胸を張る悟空の様子に、どんなに時間が足りなくても、朝帰りの際には必ずシャワーを浴びようと、悟浄はひとりごちた。
「…で?お前、何突っ立ってたの?」
「んー………。忘れた!」
「…あ、そ」
「だって眠てえんだよ!…俺、座ったままで寝てたのかなあ」
「立ってたじゃねーかよ。夢遊病か?」
「違えよ!俺は成長期だからとにかく沢山寝るのっ!酒煙草で身体ボロボロの悟浄とは違うのっ!」
「一番年寄りで、一番身体ボロボロそうな奴に、聞かせてやりてえな」
 頬を膨らませたままベッドへ向かう悟空と、すれ違い様に悟浄は気付いた。
 確かにまた背が伸び、子供子供した線が、徐々に硬さを持ち始めている。
「見てろよ、そのうち悟浄の身長抜かしてやるんだからな」
 布団に潜り込みながらの語尾が、徐々に柔らかくなる。
「真っ先に三蔵抜くんだ、俺…」
 あくびに紛れて、消えかける。
「八戒にだって、すぐに追い付く…し…」
 眠たげな声が、やがて途絶えた。

「…これ以上ジープの座席が狭くなるのは、頂けねーな」
 ブーツのベルトを外し、片方ずつ放り投げながら悟浄は呟いた。
「しかもこの寝相維持でデカくなられると…生命の危機じゃん」
 裸足の足に、床の湿気が冷たかった。
「…ま。お手柔らかに頼むわ」
 窓を閉め切る前に、悟浄は外の空気を吸い込んだ。

 雨だれがひっきりなしに続いた。
 僅かな風にカーテンがまた揺らぎ、細かな雨の飛沫が悟浄の衣服を湿らせた。
 甘い移り香が、一瞬立ち上り消える。
 雨音が大きくなった様な気がして、悟浄は窓を閉じた。

 たん
 たん
 たん

 たん
 たん
 たん

 叩く音は、今は未だ遠過ぎて、悟空に届かない。








 終 







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◆ note ◆
雲の上のお月様が満月に近いモンで
ちょっと月に狂わされてみました(自分が)
……ドーブツ?