「雨、朝には止むといいですね」
「ああ。こんな所にいつ迄も足止め喰らっていては堪らん。いい加減出発だ」
ばさり、と。新聞を捲り掛けた三蔵が、窓の外を眺めていた僕を見た。
「…雨。まだ辛いか?」
まっすぐな眼が、僕を捉える。
「雨に思い出すことは、色々と多いです。辛いことも悲しいことも、思い出します。…でも」
三蔵の瞳が、僕を射抜く。
「沢山の大事な想いが、新たに増えて行きますから。悲しみは悲しみで僕を打ちのめすけれど、生きていれば別の悲しみも増えて行くけれど」
僕は窓辺で自分のマグカップを抱え込んだ。
「大事な想いが、どんどん増えて行く。雨の夜に僕は自分と大事な人を喪ったけれど、あなたと語り合ったこともある。悟浄や悟空と他愛のない会話で笑ったこともある」
コーヒーの柔らかな湯気が、鼻腔を暖かく湿らせる。
三蔵は眼鏡をテーブルに置き、頬杖をついた。
「人を喪うという想いだけなら、雨の夜だけでなく明るい昼間にもある」
「恐ろしい程の喪失の予感と、それが喪われなかったことの安堵感。それこそ有頂天な程の喜び。…僕は生きてる。そしてあなたも…」
マグカップを抱え直し、思いっきりにっこりと三蔵に笑い掛けてみた。
「僕はあなたと共にいられて、それで充分シアワセなんですv」
呆れて眼を逸らし、また新聞を読み出すだろうと。
そう思いながら微笑んでみた。
予想が外れ、三蔵はまだ僕を見る。
「生きて…」
生きて、変わるものもある。
三蔵の唇が、そう動いた。
「人を変え、また己も変わる…か。生きるってのは、難儀なことだな」
暫く僕を見つめ、やがて立ち上がった。
「寝る。明日は多少の雨でも出発する」
「三蔵」
「?」
カップを置いて、三蔵の腕を軽く抑えた。
「あなたの雨の夜は?」
微笑みながら、でも真剣に聞いてみた。
「雨の夜は、苦手だ。胸くそ悪い想いを散々している。まず悟空が外に出られない分、室内で騒々しい。悟空が騒々しければ、必ず悟浄がそれに乗して騒ぎを起こす。…八戒、オマエ結構気分転換で、それを見逃して、喜んでやがるだろう。益々雨の夜は騒がしい」
眉間に深々としわを刻んで、三蔵は僕を睨み付けた。
「これで雨の夜が好きになる筈がない。」
「ははははは…」
三蔵は僕の胸に、拳銃を撃つ形で指を突き付けた。
「脳天気な顔して『シアワセ』だとぅ…?逆撫でしやがる」
そのまま、三蔵の躯を抱き締めた。
「だってね。喪った怖さを知っているから、だからこそ生きているのが嬉しいんです。生きていればこその…喜びも、無茶をしてでも闘う必要も、何が何でも生き残ってやろうって気持ちも。多分僕は、今までの人生で一番『生きている』から…だからやっぱり、シアワセです」
「……フン」
腕の中の躯が、体重を預けてくれるのが判った。
「…ひとりで脳天気してろ」
「ひとりではやっぱり淋しいんですよ。自分だけじゃどうにもならない所で、僕は脳天気になれるんです」
柔らかな髪に接吻け、指を絡める。
「雨の夜、あなたと接吻ける記憶が、もっと欲しい」
「てめェな…」
今度こそ呆れた口調で。
「オレにもイイ思いさせてみやがれ。むかつく思いばっかりじゃなくてな。そうでないと、オレはいつ迄経っても雨が嫌いなままだぞ」
「騒々しいの、本当は嫌いじゃないクセに」
「本当に嫌いだ」
「はいはい」
不平を言う唇を、ゆっくりと塞いだ。
雨にひんやりと湿った空気は、シーツの中には潜り込めない。
三蔵が、僕の肩と脇腹に残る銃創に、接吻けた。
「それは、生きて闘った僕の喜びの印」
三蔵が顔を上げる。
「あなたの付けた、あなたの生の痕跡。僕の人生に残る、あなたと僕の闘いの印」
僕の躯の両脇に腕を突いた三蔵を、引き上げた。
「あなたが僕に刻みつけて、今も接吻けた、生きたことの証」
ゆっくりと、三蔵の躯を腰の上に沈めた。
微かな呻きと共に、三蔵の喉が仰け反ってきれいなラインを描く。
「雨の夜も、明るい日差しの下も、どんな時も僕はもう、悲しみに押し潰されたりしない」
一瞬だけ、寄せられた眉根の下で三蔵の瞳が輝いた。
にやりと、笑ったのだろうと後から思った。