「ピィ!」
「ジープ…?」
自分の存在を忘れる主人に抗議するのか、ジープがかん高い鳴き声を上げて旋回した。
「……?何かありましたか?」
どうやら何かを知らせたい様子のジープに、八戒は立ち上がって歩き出した。その後ろ姿を見送りながら、三蔵は埒の開かない自分の心の動きを嗤った。
「……莫迦くせェ。」
そのまま立ち上がると、八戒の消えた後を追う。
木立を掻き分け進むと、急に背中にぶつかった。
「…しーっ」
覗き込んだ先には。
陽光を反射する川面に、サファイアブルーの蝶。
川底の丸い石を透かせる程の浅瀬に、水を飲みに来た蝶がゆっくりと翅を動かしていた。
何十頭。いや、何百頭と。
サファイアの煌めきが浅瀬を埋め尽くしていた。
「……これだけの集団の蝶は…初めて見たな」
小さな昆虫の生命活動の場としては、異様な迫力があった。
「種類によっては、何万頭もの集団で、何千キロも旅をするんでしたっけ、蝶って?逞しいですね」
ふたりの目の前で、青い煌めきが、ふるえた。
華奢に見える蝶の翅は、さなぎから孵ると同時に体液を送り込まれて広がったものだ。生命の強さが隅々まで渡って張り詰めている。小さな躯の大部分を占める筋肉が、あの翅を動かしてはひらひら軽やかに舞い続ける。
日差しを求め、風に乗り、どこまでも。
ざあっと。強い風が吹き渡った。
青い宝石が、一斉に飛び立つ。
青い、生きた宝石が、炎のように煌めき拡がる。
「…っ!」
脈動のような青の輝きが、八戒と三蔵の姿を包み込む。
一瞬、躯に当たった翅が鱗粉を振りまき、壊れて行く幻覚が三蔵を襲った。思わず呼吸を止めて口元を掌で覆う。目を開けてもいられなかった。
「…もう、大丈夫ですよ」
小さな声に顔を上げた三蔵は、八戒の腕に囲われ胸に顔を伏せていた自分に気付く。
「びっくりしましたね。なんだか襲われそうで、ちょっと怖かったですよ。蝶の儚さなんて、微塵も無かったですね。ホント、逞しい…」
「ああ、そうだったな…。って。おい、もういい。離せ」
突っぱねようとした腕を反対に捉えられ、絡め取られる。
「傷めそうで、壊しそうで、損ねそうで、怖いなんて…気の所為だったのかもしれない。どうせ大人しく掴まえられてくれやしないんだから、遠慮なんかしなくても、いいのかもしれない」
「は!?」
怒鳴りつけようとする三蔵の躯が、近くに樹に押し付けられた。三蔵の両腕は躯の両脇に広げられ、純白の袖が八戒の眼に焼き付いた。
「…逃がしたくありません」
唇を触れ合わせながら、八戒が囁く。吐息の熱さに、半ばまで閉ざした三蔵の瞳が揺らいだ。
「勝手なことを…掴まえられてやるつもりはねェぞ」
縫い止められた両手首をそのままに、覆い被さる八戒に自分から接吻ける。
甘さだけを味わうように唇で挟み、薄い舌を滑らせる。
誘い込まれるように、八戒が接吻けを深くしようとした。
「痛ッ!」
三蔵の真珠の歯が、八戒の唇を傷めた。そのままするりと、拘束から抜け出す。
「イタタ…。酷いですねえ」
「てめェだろ?大人しく掴まらないって言ったのは?」
紫玉が、煌めいた。
「…やっぱり遠慮はいらないみたいですねえ」
「てめェの都合でいつでも掴まえられるだなんて、思うなよ」
軽快に翻る金の髪と、法衣が残像になった。
「ホント、野生の生物は逞しい」
後ろ姿に向かって呟く八戒の肩に、ジープが留まった。条件反射の様に頭を撫でる掌に、細くて強い手首の感触が蘇った。次いで自分の胸に伏せた金糸の髪と、腕を回した背中を。
「…ねえ、ジープ。次から本当に遠慮なしにしちゃいましょうか…?」
楽しげに、口に出し。
そして三蔵の姿を追った。走り出しそうになりながら。