さびれた宿には、三蔵達以外の客は同じフロアには部屋を取っていなかった。悟空は既にベッドに沈み込み、酒場にいるであろう悟浄が香水の香りと嬌声に飽きるまでは、誰ひとり通りがかることもない。
誰の救けも来ない。
「明るい所で、他愛もないコト喋りながら、自分のこと気に掛けてくれる人なら誰でもいいんじゃないですか?眠れない夜なら、あなた誰が相手でも、本当はいいんでしょう」
八戒の長い指が、三蔵の顎を辿る。
「…ンな訳ねェだろ」
食いしばる唇から掠れ気味の声が漏れ、三蔵の喉の震えを楽しむように指がそこまで降りて行った。
「だって…寒くて眠れなかったんでしょう?あなた何時だってそうじゃないですか。悟浄が甘いのをいいことに、そんなに隙だらけのまま傍に行くんですから」
指が、呼吸のごとにひくつく喉を愛しげに撫でる。
「悟浄は優しいですからねえ。逃がして貰ってるっての、判ってます?」
ゆっくりと、また爪の先が首筋を撫で上げて行く感触に、三蔵の躯に震えが走る。
「こんなに柔らかそうな皮膚、誰だって接吻けたいって思うのに」
滑らかで大きな掌が、三蔵の顎をくるみ込んだ。軽く力を込めて上向かせる。
「こんな風に…捉えられたら、あなた自分が逃げ出せるだなんて思ってます?」
八戒はうっとりと三蔵を見つめた。
顎を掴んだままで、人指し指を唇に彷徨わせる。
「ほうら、柔らかで花びらみたい。…触れてみたいと、悟浄が思わないとでも?」
触れるか触れないかという微かな接触に、三蔵の唇が震えた。
「…ああ、唇噛まないで。傷が付いてしまう。この唇を傷付けさせるくらいだったら、自分が傷付けたいって思うみたいな…柔らかできれいな唇ですもんねえ」
すぅ、と撫でた指を薄く開いた唇にそっと押し込んだ。
「ンン…」
「そう。歯を立てるくらいなら、僕の指に立てて下さいね」
熱いベルベットの感触を楽しみながら、指を三蔵の舌に沿わせる。
濡れた指が探るように口中の粘膜をさすり、敏感な唇を刺激する。三蔵は切なげに眉を寄せると、指に舌を絡め出した。
「三蔵、ほら、我慢出来ないんですか?指なんか舐めたりして、いいの?」
愉しげな八戒の視線に絶えられず、三蔵は目蓋を閉ざす。
「本当に…あなたは」
耳元の囁き声と、腕を壁に押し付ける強い掌、自分の唇を割る八戒の指だけが、三蔵の世界になる。
身動きも出来ず、抑え付けられて与えられる快楽が三蔵の神経を侵して行く。
三蔵の唇を犯す長い指は、時に傲慢に、時に優しく、遊ぶように行き来をしては三蔵の舌をはぐらかす。もっと奥まで飲み込みたいと、迎え入れようとする唇は焦らし、急に喉の深みを刺激して、噛み締めそうになる三蔵の白い歯には、全く気付かぬように侵入を続ける。
三蔵は睫毛を振るわせ、指を追いかけた。
くつくつと、八戒の喉が愉悦に鳴る。
「三蔵、きれいですよ。上手に舐めて、…イかせてくださいね」
三蔵の唾液に濡れる自分の指と、それを迎え入れる唇を見ながら、八戒はベッドの上よりも優しげな声を出した。
「三蔵の唇、柔らかいですね。そしてとても…熱いですよ」
唇を行き来する毎に、ぬめりが指を滴った。
顎を固定された三蔵の唇からも、つ、と細い糸を引く。
「 もっと舐めて」
指を増やして喉の奥まで差し入れる。
「く…んぁ…」
三蔵は急にこみ上げる嘔吐感に貌を背けようとするが、八戒の掌は万力のように動かない。
「 ンン!」
2本の指がゆっくりと挿し入れられては、また唇を擦って引き上げかける。繰り返されるうちに、三蔵はそれにも舌を絡め出した。
行き来するものが何であるのか確かめるように、舌先で探る。
上顎と唇に触れてくる、八戒の中指の関節を覚え込むように。爪の滑らかさを味わうように。
舌を這わせて、唇をすぼめた。
また八戒の笑う気配がする。
「三蔵、美味しいですか?僕の指」
問われる言葉に、反射的に瞳を開ける。
情欲の色に黒ずんだ八戒の瞳が、すぐ目の前にあった。
「あなたの口の中を、好きなように犯してる僕の指。美味しい?」
三蔵の顎を抑える掌から、僅かな頷きを感じた八戒は、心から嬉しそうに微笑んだ。
三蔵の腕を掴んでいた八戒の掌が緩み、替わりに身体全体で壁に押し付ける。三蔵は自分の下腹に当たる脈動の高まりに神経を奪われ、また自分の脈動を強く感じた。
八戒は三蔵の手と取ると、甲に音を立てて接吻ける。
「ちゃんと舐めて、食べて下さいね」
言いながら、手の甲に、指に、そっと舌で触れては逃れて行く。
三蔵の手首の内側に、八戒の唇が来た。
青白い静脈に沿い、ツ、と腕を滑る。
白い、白い、滑らかな皮膚。
紅い唇と、八戒の指を迎え入れる、熱い舌。
また舌が、熱心に絡み付いた。
八戒の目の前で、三蔵の唇から喉へとしずくが流れた。銀の筋を残して、細く一滴の雨のようだった。
その感触に、再び閉じた三蔵の睫毛が震えた。
「三蔵、顎閉じられないと苦しいですか?それとも舐めるのに夢中だから、気にならない?」
長い指の抽送は、ゆっくり、延々と続けられる。
指に擦られた唇も、上気した以上にほの紅みを増す。
「上手に舐めてくれたけど…ほら、動かしますよ?」
「ふ…ン…ん・ん・んッ」
3本まで増やされた指が、三蔵の舌と唇を摩擦する。
実際に八戒のものをくわえ込んだ記憶が、絶頂のリズムを思い出す。
「…ン・ン・ンぁ!」
同じ刺激を受け続けて感覚の痺れてきた唇と、いつ迄経っても慣れることのない、喉奥への刺激。
三蔵はきつく閉じた目蓋の、長い睫毛の端に涙の粒を浮かべた。
「ぅン・ン………アア!」
急に口中を占めた指と、顎と手首を固定する掌、腕の内側の敏感な部分を滑る熱い感触が消え、三蔵は壁に寄り掛かったまま、ずるずると落ちて行った。
肌の表面には、未だ薄いヴェールのように貼り付く熱が抜けない。
「…ア……」
「上手によくできましたね、三蔵」
見上げれば、愉悦の表情で屈み込む八戒の貌。
「…ねえ、三蔵?こんな風に悟浄に触れられたら、あなた逃げ出せると思います?」
聞くものを蕩けさせるような、甘い声音で。
「こんなに感じ易い人が、ちゃあんとお利口に我慢出来るんですか?」
優しい、優しい、声音の問い掛けは。
決して答えを間違えてはいけない。
「…ねえ、三蔵?」
「……ない」
面白がって聞き返す、きれいな仮面のような貌に濡れた紫玉が向けられて。
「…なこと、させねェ…んだよっ」
喉から絞り出す声と共に、皮膚を覆った熱が、また三蔵の身を震わせた。
暫く床に座り込んでいた三蔵は、のろのろと身を起こすと壁に手を付き立ち上がった。傾いだ上体を、壁に背を預けて息をつく。
「…ったく。何やってんだか」
軽やかな声に目線を遣ると、艶やかな紅い髪の男が、フロアの入り口で階段の手すりに寄り掛かって三蔵を見ていた。
「…貴様、何時からそこにいた」
ごつ。
ごつ。
悟浄のワークブーツの硬質な足音が廊下に響く。
「さあな」
ごつ。
ごつ。
三蔵の前まで来て、留まる。
「出歯亀野郎」
「あ、ひでえ。でも八戒は 」
ぴくりと、三蔵の肩が震える。
「 俺のいること、気付いてたぜ?」
悟浄は、見る者によっては酷く魅力的な、斜に構えた笑いを見せた。
悟浄は三蔵の両脇に腕を突き、身動き出来ぬように囲い込んだ。
「…で?どうよ?今のてめン顔、鏡で見てみる?思いっきり欲情しちゃって、激色っぽいんだけど?」
ふざけた口調で、それでも三蔵を囲む腕に隙間を作らせない。
「こおゆうのに行き当たっちゃうと、流石の俺様でもよろめいちゃうんだけど?」
「貴様、その辺の女、見繕いに行ってたんだろうが」
「…まあね」
睨む三蔵の目元は、まだ情欲の名残にほの紅く。散々八戒の指に蹂躙された唇も、はれた血色を示している。
「…こんなのが身近にいると思うと、そんじょそこらのオンナとファックするのも馬鹿らしくなんのよね」
「!?」
三蔵が強張るのも気にせず、悟浄は両腕で華奢な躯を戒める。
「……そんな顔して突っ立ってンのが悪いんだぜ?」
自分にだけ聞こえればよいというような、低い声で囁いた。
暴れる躯を抱き締めて、宥めるように髪に手を遣る。悟浄の掌に触れる金糸は、ひたすら柔らかに指に絡んだ。
仰け反る背をそっと支えると、紅みの残る唇に接吻ける。
覆い被さる悟浄の髪が三蔵の視界を覆い尽くして、世界中が深紅になる。
「!」
飢えを感じさせるような、それでも優しい接吻けが、三蔵の唇を開かせた。柔らかな弾力の上を、悟浄の舌が味わうように滑る。
「!?」
三蔵は深紅の世界で闇雲に腕を突っ張った。
くすり。
苦笑に似た微笑みが一瞬悟浄の上を通り過ぎたが、三蔵は気付かない。
ほんの僅かに緩んだ戒めに、三蔵は身を捩らせた。背けた顔に露わになった首筋が、薄暗がりの廊下にほの白く浮かび上がる。
「…ぁあッ」
柔らかな、触れたかった肌。
躊躇うことなく悟浄の唇が落ちる。
「…ごじょっ…ん、ああっ…!」
なぞる唇と熱い舌は、翻弄され切った三蔵の躯に痺れるような感覚を走らせた。
「…くぅ……ッ…」
充分に反応を返す躯が、それでも悟浄の肩を力無く押し返し続け、気付けば上がる声を押し殺そうと、三蔵の唇は噛み締められて……。
吸い込むような滑らかさの肌から、悟浄は唇を離した。
「……三蔵さあ……ナニ頑張ってんの?」
暖かみだけは手放さずに、首筋に顔を埋めたままの軽い声が呟く。
柔らかな髪に挿し込む指は、撫でるように滑り落ちて。
「…さあ、な」
溜息混じりの三蔵も、呟くような小さな声で答えた。
「強いて言うなら、約束したから、か」
「 は!」
一際明るい声が廊下に響き、同時に三蔵の躯が解放された。
「お前ね、それ約束じゃなくて躾じゃねーの?」
今まで抱き締める為に渾身の力を込めていた腕を、ひらひらと振る。
「……もしかして、お仕置きでもあんの?」
「…かもな」
呼吸を戻そうと深く息を吸い込みながら、掠れた声が応えた。
「…さっさと行きな」
「ああ」
漸く八戒の部屋のドアノブに手を掛けた三蔵が、振り返る。
「てめェはどーすんだ?」
「俺?」
急に問われて、悟浄は天を仰ぐ。
「飲むしかないっしょ?」
「…オンナ探さないのか?」
即座に返る言葉に、更に悟浄は仰向いて。
「お前、結構馬鹿だよなあ…」
「何だと!?」
「ま、俺のことはお気になさらず」
今度は振り向かずに、階段を降りて行く。
ごと。
ごと。
ワークブーツの重たい音だけが、暫く響いた。
柔らかな声で、差し招き
「…でも『させない』っていうのは、どうしても駄目でしたね」
くすくすと、なお愉しげな笑い声が、また絡める糸のように…