晴れ渡る夜空に、満月に少し足りない月が青白く輝いた。
静かな夜の街を通り抜け、小さな森へと続く細い道をふたり歩いた。
澄んだ空気は肌寒さを感じる程に冷たく、繋いだ掌のぬくもりが、ふたりに小さな幸福感を与える。
真っ黒な木々の影を通り過ぎ、手入れをする者もない小さな廃屋に行き着いた。ぐるりと巡る、崩れかけの煉瓦の壁を通り抜ける。
青白い月光に照らし出された小さな廃屋と、満ちた甘い香り。
青白い薔薇が、蔦を絡ませ覆い尽くしている。
朽ちかけの四阿に、小さな庭のそこかしこに点在する鉄柱に、倒れかけの大木に、月光の蒼に染まった純白の薔薇が、しなやかに絡みついては、自然のアーチを作り出している。
息を呑むと、少しぴりっとするような爽やかさの混在する、深い甘さの香りが染み通った。
「ちょっと凄いでしょう?」
振り向くと、八戒は少し自慢げに三蔵を見つめる。
「身を飾る物などあなたには必要ない。形ある物は、何時か消え失せてしまう。…だから僕があなたに贈れるものは、形のないものだけ。持って歩けもしない、この隠された秘密の花園の香りだけ」
八戒は腕を伸ばすと、頭上に渡っていた枝を引き寄せた。
咲き誇る薔薇が青白く輝きながら目の前に揺れ、三蔵は目を閉じて香りを吸い込む。
「…似合わねぇことしやがる」
三蔵は片目を開けて、ふっくらとした唇の端を僅かに引き上げた。
「…で?贈り物って、まさかオレの誕生日だからとかって言う気なんだろ?日付変わった途端に眠ってる人間叩き起こしやがって、誰よりも先に何か言いてえとかっていう、オマエの得意なヤツなんだろ?」
「誕生日くらい、その口の悪さを控えようとかって、思いません?ほら、一年を占うような気持ちとか、ありません?」
憮然とした表情の八戒は、薔薇のすわえからゆっくりと手を離そうとした。青々としたつるは、力が緩まった瞬間に撥ねて頭上に戻ろうとした。
ぴっ。
棘が指を掠めて細く裂く。
「…ばーか。」
微かに微笑む唇から薄い舌が覗いて、八戒の指先に滲む血液をなぞった。
「このワルイ口で浄めてやるから感謝するんだな。…この独占欲野郎、罰が当たったんだぜ…?それで?今日は何の日なんだ?オマエは何しにオレをここまで連れて来た?」
舌を這わせ、唇に指を押し当てながら、上目遣いの紫玉の瞳が輝く。
「あなたの誕生日だから。おめでとうを言いたくて。それだけなんですが」
「じゃあサッサと済ませろ」
八戒から目を離さずに、三蔵は指を舐め上げた。
かし。
吸いながら、爪に歯を当てる。
「今日はオレの誕生日なんだろ?オレはプレゼント貰える側なんだよな?オレから搾取しようだなんて、思ってねぇだろうなあ?」
尖らせた舌先をちろちろと動かしては、探るように八戒の瞳を覗き込む。
冴えた月光に銀細工の人形めいた美貌が照らされ、紫玉だけが楽しげに揺らいでいた。
「…質が悪いんだから。今夜だけは、我慢しようと思ってたのに」
「初志貫徹しろよ」
「誘惑が強過ぎます」
くっ…。
笑いかける三蔵の口元から八戒の指が引き離され、濡れて開いた唇が一瞬冷たい夜気に晒されて…すぐにもうひとつの唇に覆われた。
熱い呼気を与え合うように、深く長く接吻ける。
ふたりを包み込む甘い香りが、鼻腔をくすぐり髪や衣服に染み込んで行く。
『薔薇よりも甘い香りがするのだと言ったら、また愚か者だと笑われるんだろうな』
八戒は、微笑みながら何度も角度を変えて接吻けた。
冷たい月光に、唇だけが血色を仄めかせる。その色をもっと濃くしたいのだと言わんばかりに、甘噛みしては吸い寄せる。
三蔵が接吻けの合間に息を吸い込み、切なげな声を漏らした。
「月光の見せる夢のような儚さと、陽の下で太陽そのものの輝きの強さとを併せ持つあなたの生まれた日を。僕はこの世の全てに感謝します。あなたに巡り会えた、同じ時に生を受けた奇跡に…」
「こんな腐れ縁を感謝して貰えるんだからな。神も仏も楽な仕事してるよな」
白い花びらの絨毯に金糸の髪を散らばらせながら、三蔵は薄く笑い、また唇を塞がれた。
「しーっ。お誕生日にこれ以上悪いこと言っちゃいけません。…三蔵、おめでとうございます」
「……ホント、言ってるコトとやってるコトが違うよなあ、てめェは」
髪に薔薇のカケラをまとわり付かせながら、ふたり笑い合った。
「ここを教えてくれた人は、白薔薇の中で永遠の愛を誓ったんですって」
まだ若かった花屋の店主は、細い銀の指輪を、まだほっそりとしていた恋人の指に黙ってはめたのだという。恋人は、ただ頬を染めてそれを受け取ったのだという。
「僕には指輪は贈れないけれど」
花びらを弄ぶ指を捉えて接吻ける。
かたちのないものを ことばにもせず
ただ くちびるの 熱に たくして
仰向いて目蓋を閉ざした貌を、三蔵は黙って見つめた。
「……指輪なら突っ返すことも出来るんだがな。形のないモノか。漠然とし過ぎなモノ贈りやがって」
指を取り返すこともせずに言葉を続ける人の頬が、月光の青白さにまさる血色を見せていたのを、ゆっくり目蓋をあげた八戒は見た。
「…愚か者の狂気の沙汰、な。全く。真理だな」
「30年経ったって忘れられないようなプレゼント、ちゃんとあげられたかね。ちゃんと…受け取って貰えたのかね」