「手が出せねぇなら、出せるようにさせるだけだ」
これ以上無いほどシンプルな三蔵の断言に、一同が笑った。
「現状打破の努力は、てめェにさせるしかねえ」
八戒は、ステアリングを握りながら、瞬間助手席に視線をやった。
三蔵は露ほども疑わない。
鋭い爪を持つ妖怪に囚われた少女が、遥か虚空でも自分を救う為に努力することを。
生き物が、諦めに取り憑かれ、生存に無力になることを、許さない。
八戒の心に、ふといつかの黄金の輝きが蘇った。
死者への手向けの経を、生きる者の為に読むと言い切った彼。
朗々と胸に響き、死にかけの心を叩き起こした、あの声。
妖怪という恐怖と怪異の具現化に畏れを為した人々は、既に建物に逃げ込み、街路は無人になり、廃墟のように静かだった。
八戒は砂塵を蹴立て、ステアリングを手荒く切りながら、自分の心が浮き立っているのに気付いた。
「じゃあ、あの女の子には、頑張って頂きましょうか」
後部座席から、呆れたような悟浄の声がする。
「お前ら、オンナノコには、もうちーっと親切にしてやるもんよ?」
「悟浄の親切は、ウラがあるからなーっ」
即座に悟空の声が楽しげに続いた。
「 ―――― で?」
三蔵、どうすんの?、と。
三蔵の為すことを、信じ切った声が。
ここにも、疑いを持たぬ瞳が。
いつかの黄金の輝きを、未だに映し続ける金の瞳が、三蔵を見た。
『飛び降りろ!!』
迷わぬ声が、響いた。
妖怪の腕を振り切り、遥か上空から、少女が落下する。
蒼穹の輝きの中、小さな躯はその『声』だけを信じて、飛んだ。
入れ替わりに悟空が宙へ向かった。
悟浄が叫ぶ。
前輪も後輪も横滑りして軋む車体に、三蔵がしがみつくのを八戒は見た。
三蔵の声を信じた少女を、地に落としたりはしない。
あの黄金の声を信じた少女を。
躯ひとつで闘った少女を。
八戒は更にアクセルを踏み込んだ。
悟空が宙を舞い、妖怪に向かって如意棒を炸裂させるのが判った。
悟空はきっと笑っている。
三蔵の声を聞き、笑っている。
後部座席では、悟浄が少女を受け止めようと、大きく腕を広げている。
八戒は、更に浮き立つ自分の心に気付いた。
加速しながら、少女は真っ逆様に落下する。
生きる為に。
怖かったのだ。
自分の命を失いかけていたことを、少女は充分に理解していたのだ。
それでも三蔵の声を信じて、虚空に身を投じたのだ。
少女が無事であることを確認した三蔵は、興味を失ったかのように視線を移した。三蔵の視線の先で、悟空に叩き落とされた妖怪が建物の屋根を突き破り、瓦が弾け飛ぶ。
「今度はオマエらが働く番だ。さっさとゴミ掃除しに行け」
「俺は落とし物拾いしたぜ?」
「あ、僕、一生懸命追っかけましたし」
悟浄と八戒の声に、三蔵の眉間のしわが深まる。
妖怪を追って着地した悟空が、嬉しそうに手を振った。
「…悟空があそこで待ってますよ?」
「……チッ」
忌々しそうに舌打ちをし、そして三蔵はジープを降りる。
ひらりと、悟浄がそれに続いた。
突き抜けたような空と明るい日差しに、金色の髪と、法衣の白が眩かった。
悟浄の髪が翻り、悟空はまだ腕を降り続けていた。
八戒は、笑った。
へたり込む少女の、どれほど自分が勇ましく闘ったのかを知らぬ顔を見て、笑った。
いつかの自分の、死にかけの心と震える躯が、今大地を踏みしめるのを感じ、笑った。
天界の水鏡。
下界での人生を終えた人々が、天上で咲かせると言う蓮の花。
ぬめる汚泥に這った太い根から、まっすぐに伸び上がる茎。
水面に浮かぶ鮮やかな緑。
夢のような、白い花。
花に覆われた水鏡を眺め、観世音菩薩が微笑んでいた。
美しい花を咲かせる泥土の沼底を眺め、微笑んでいた。
「あ奴ら、また何かしでかしましたか?」
次郎神が、期待したように水面を覗き込むと、街から離れる三蔵一行のジープが映った。
観世音菩薩は、水鏡から目を離さずに唇の端を引き上げた。
「……いや」
皮肉な笑いに象られた唇は、しかし慈しむ瞳の色を隠すまでには行かなかった。
「いつも通りさ」
水鏡に映る夕日色に染まった瞳が、細められた。
「いつも通りさ」